『忠海高校PTA新聞』第69号(2015年7月17日発行)に内海雅文校長が「親しみを感じる忠海」という一文を寄せている。その中で林芙美子の初恋の人が忠海中学生だったと書かれているので、紹介しよう。
「『放浪記』で有名な小説家・林芙美子は尾道で過ごし現在の尾道東高校の卒業生です。学生時代の初恋の人が、因島から忠海中学へ通学していた岡野軍一氏でした。彼が東京へ進学した時、芙美子も東京に行きますが、恋やぶれてしまいます。このことがきっかけで『放浪記』が生まれたのです。尾道と忠海がなぜか縁があるようではありませんか。」
広島のシャレオで開かれている古本市で林芙美子研究会編『尾道と林芙美子・アルバム』(岡野読書会発足30周年記念刊行・尾道市立図書館開館70周年記念刊行)という本をみつけた。早速手に入れて読んでみると、この本の中に林芙美子と岡野軍一についての記述があるので併せて紹介しよう。
「大正6年、就任直後の小林正雄先生は担任教師の欠勤時の補教や課外指導、看護係等を受け持ち、わりと自由な立場で芙美子に接したようである。休憩時間の運動場で柳の木や藤棚に寄り添う彼女の姿を見かけ、他の子供と違う早熟・聡明さ・孤独さを見抜いたという。小説や豆本など貸し与えるにいたり、その理解力、鑑賞力に感心したそうだ。その後、生活の上での温かな庇護者となり、六年生の芙美子へ女学校進学を勧め、特に苦手だった算術の進学補修の勉強を自宅で教えた。
この頃、芙美子の間借先の近く藤原タバコ屋の遠縁にあたるせいで出入りしていた岡野軍一(当時忠海中学生)を知り、親しくなる。
岡野氏は金持ちの坊ちゃんという風貌、おとなしい性格らしいが、それがむしろ勝気な芙美子を動かしたものか。あるいは知り初めに持ち出したと思われる文学談義が二人を近しくしたものか。ともあれ心の飢えは大きければ大きいほど愛情の欲求を大きくし、大胆にする。大人の世界も、二十才年下の夫を持つ母の『女』をも見てきた芙美子である。世間の道徳観にわずらわされるにはあまりに自然に岡野氏に傾斜していったのではあるまいか。(中略)岡野軍一は忠海中学校を卒業後、上京して明治大学に学んでいた。芙美子は卒業が間近くなると、ひそかに彼を追っての上京を考えていた様子である。常に飢え持ち、飢えの埋め合わせに憧れを強く持つ芙美子は、単に恋慕のためのみならず、未来への新開地を求めて脱尾道を考えていたのではなかろうか。(中略)大正11年3月、広島県立尾道高等女学校を卒業。初恋の人といわれる岡野軍一氏を頼って上京する。岡野氏の卒業を待つ一年間同棲、この間は岡野家からの送金と、芙美子自らの収入でいわゆる貧乏暮らしではなかったらしい。結婚を契る愛情で充実した生活があったものか。が、翌12年、岡野氏は卒業して、郷里の大阪鉄工所因島工場に就職し、東京には帰ってこなかった。因島市土生対潮院住職故板阪藤伍著の『真実放浪記』によれば、「当分一人で働きたいと思います。アメリカから帰ってきた姉夫婦の反対を押し切る自信がありません。現実を知らねばならないと知りました」、ということだったようである。
岡野氏のことは、恋に破れてからは『島の男』として出てくる。が氏は、林芙美子にとっては人生の転機途なり、立派な作家になれた、忘れてはならない人であったろう。事実、忘れることなく二人は芙美子の死まで交流を持ったようだ。」(前掲書P5~30)