入野村清田塾は、文政元年(1818)入野村字有田、大多和泰作宅で入野村庄屋堀内安治が清田元吉を招いて創設。清田塾と名付く。天保年間、安治が資金を出して塾舎二棟、建坪四十坪の再建。二階建で二階は八畳二間、階下は八畳、六畳、六畳、六畳の四間。
本県及び他県より入学する者が多く嘉永六年(1853)の調査では「男三百人、女二十人」とある(豊田郡誌)。二代目教師池田徳太郎、三代目教師末田直馬。安政六年(一八五九)廃止。
池田徳太郎は天保二年(1831)、11歳にて清田塾に入門、15歳まで留学。弘化二年(1845)15歳の時九州に行き広瀬淡窓の塾、咸宜園へ入門、のち筑前の亀井革郷の門に入る。この間豊前中津の常藤頼母、筑前の調黄渓に学び嘉永二年(1849)4月上旬に帰省す。徳太郎19歳の時である。(池田元琳自筆履歴書)
九州では貧苦を忍び、克く刻苦勉励したらしく、調黄渓の塾に居たとき次の如き逸話がある。
「学資の乏しき身の、起居飲食人の堪えざる処を忍び、刻苦して倦まなかったが、ある時一策を按出し、僧侶に擬して出でて托鉢し、□に食料を得れば帰って読書しておった。
ある日例によって商家の店頭に立った。主人は誰かの忌日に当たるというので読経を請うた。固よりお経の一句も知らぬことだから困ったとは思ったが、今更知らぬとも言えぬので、やむを得ず蒙求の題目を王戎簡要斐楷清通と高らかに唱えた。主人は笑いながらその似せ坊主たることを知って之を詰った。池田はこれはしまったことをしたとしたとは思ったが、逃げることもならず、仕方がないので実情を告げた。主人は之を聞いて大いに同情し金若干を恵んだ。師黄渓もまたその窮状を知って衣食を給した。池田は後に至るまで人に語って師の恩遇に感泣したということである。(沢井常四郎著『池田徳太郎』)
帰郷後徳太郎は清田塾に逗留していたが、嘉永二年(1849)九月恩師元吉が病没した。ところが困ったことに元吉は裕かでない生活に年老いた両親が旧宅にいたので入野村の堀内哲之助は三原の富田謙四郎(木屋)と徳太郎と相談した結果、徳太郎が暫時家塾で教鞭をとり、家塾を続け師の両親を扶養することになった。
徳太郎は日々門下の書生を教授し、家事を整理し、老夫婦に対しては、あたかも子が生母に対する如く接し、夜は老夫婦を按摩して慰めるを常としたので、近郷これを聞いてその徳行喧伝したという。かくして居ること四年いつまでもこうして居れぬというので嘉永五年(1852)金子を調達して老夫婦に贈り、家塾は広島から末田直馬(重村とも言う)を聘して之に譲り、この年の冬から須波村字日山、曹洞宗宗光寺末満能寺に籠って読書して修養にひたる傍ら多少の学生の教育を行った。
富田家文書には「二十二歳の冬当郡畑村能満寺へ隠逸仕」(元琳)とある。この寺は筆影山(俗に波多の山という)頂上にある朽ち果てた禅寺であるが、ここから瀬戸内海の遠近の島々が眼下に見え、極めて景色の良い閑静な所である。富田謙四郎は常に米・塩を送ってこれを助け、自分も時々往復して清談を試みたという。
この論文の中で堀内安治、富田謙四郎については、次のとおり紹介されている。
堀内安治
入野村庄屋、堀内九郎兵衛安俊の次男。通称哲之助という。安治は諱である。字は子静。 幼にして父を失い、母に事へて孝養を尽くす。人となり明達で慈心あり、二十歳余で庄屋になり村のために尽くす。時の者靡を矯めんとして身に粗服をつけ、少しも辺幅を飾らず、出府の時も従僕をつれず、隣村皆これに倣った。又自ら金を出して三原から吉田春閣を招き、児童五百余人に種痘をさせた。幼年から学問をする暇がなかったので、故あって志あるものには学資を給して、その才学なさしめた。幼時清田元吉に学び、元吉の死後はその両親を助けた。又大に山を拓き学舎を作り、末田直馬を招き、少年に学ばしめ、年々数十金を出して補うた。安政五年(1858)八月二十四日夜五更狼痢に罹り没す。享年三一歳。法名、法鎰堯全信士
富田謙四郎(屋号木屋)
初め瀧蔵という。字は沖天梅坪又は梅渓梅村と号す。清田塾に学び、大いに得る所があった。家は酒造を業とし頗る富んだ。
池田徳太郎と深く交わり、終始庇護の地に立ち、大成せしめるに当って力があった。孝経孟子について一種の見解があって注釈を試みている。後三原浅野家に挙げられて歩行小姓となり、松浜詰を命ぜられる。明治二五年一〇月二日没す。享年六一歳、法名、道源居士。