この本(『モースその日その日』)では「種田ののちの消息は不明である」と書かれているが、この種田織三こそ、明治29年4月から明治31年4月まで忠海中学校初代校長として赴任した種田織三その人なのである。
「広島県内の最初の中学校は、旧浅野藩校修道館で、これが遷喬舎となり、更に広島英語学校となったものを明治10年広島県立に移管し、広島県中学校とし た。これに対して東部には、旧阿部藩校に始まる誠之館があり、幾多の変遷を見たが、明治12年県立中学校に移管された。この両尋常中学校のみが明治20年 代の県内の正則の中学校であった。 県内には、以上の両尋常中学校のほかに、これに準ずる諸学校も見られた。すなわち、広島市には修道校、明道学校、その他私塾数校があり、豊田郡に豊田学 校、高田郡に洗心塾、三谿郡に日彰館があった。これらのうち、明道学校、豊田学校、日彰館は正規の尋常中学校に準ずるもので、施設の都合上、広島・福山両 尋常中学校に収容しきれない入学志望者をここに迎えているのが当初の実情であった。」(『忠海高等学校創立80周年記念誌』P24)
明治30年、豊田学校が豊田尋常中学校と改称し、5月1日に開校している。その当時のことが、忠海高等学校100周年記念誌に次のように書かれている。
「明治29年は豊田尋常中学校創立の陣痛期であり、この難局を切り抜け、翌30年その初代校長として荊棘に満ちた過渡期を担い、光輝ある忠中史の礎石を固めるのは種田織三校長である。」(梅林慈円「忠中先史時代への回想」『忠海高等学校の100年』P66)
忠海高等学校では創立百周年を記念して、書庫を整備したが、その蔵書のなかには、種田織三がその博学にもとづいて収集したであろう稀覯本が多数存在するそうである。日本で最初にダーウィンの『種の起源』を読んだ人物は、こうして忠海の文化に貢献しているのである。