竹原書院図書館にて、武田尚子著『マニラへ渡った瀬戸内漁民』(2002年2月28日御茶ノ水書房発行)という本を見つけた。このなかに忠海二窓浦出身の山根与三兵衛のことが詳しく書かれているので紹介しよう。
「広島県豊田郡忠海町二窓の豪農山根与三兵衛は、明治32年(1899年)広島県庁で偶然にマニラの鉄道の日本人技師に出会って、マニラ湾での操業が有 望であるとの情報を聞いた。漁業視察の申請を広島県に提出し、明治33年(1900年)11月5日付で旅券の交付を受けた。忠海の2名の漁業者を雇い入 れ、同年12月16日神戸から出帆し、12月31日にマニラに到着した。山根は田川森太郎(長崎県出身でマニラ湾で最初に漁業の試験的操業を試みたマニラ 日本人商業界の先駆者)宅に投宿し、翌日の明治34年(1901年)1月1日には、早速佐々木牧太から船を買い取った。このような経過から、田川と山根の 間には日本出発前から既に連絡がついていたと考えられる。山根は34年1月から打瀬網漁を半年間試みた。成功であった。山根の出身地の忠海は広島県下の代 表的な打瀬網漁の根拠地であった。」(『マニラへ渡った瀬戸内漁民』P169~70)
「広島県で打瀬網漁がさかんであったのは、燧灘に面した地域である。鞆町、千年村、浦崎村は沼隈半島沿岸部に位置している。田島、横島、百島、走島は沼 隈半島周辺部の島々である。沼隈半島沿岸・島嶼部が広島県の打瀬網漁の根拠地の一つであった。もう一つの根拠地は、豊田郡忠海町周辺である。忠海町と佐江 崎村は隣合っている。忠海町の二窓浦は特に打瀬網漁がさかんであった。佐江崎村周辺は漂海民である能地の家船の根拠地である。家船漁民は水深の浅い海底で 行う藻打瀬漁を行っていた。これは沖打瀬とは異なる漁法である。広島県だけでなく、瀬戸内海西部の周防灘も海面が広く打瀬網漁に適している漁場であった。 日生出身者や広島県出身者は周防灘に出漁し、漁法を伝授し、定住した。日生出身者は明治10年代から三田尻・向島、横島出身者は大道・秋穂・宇部新川・豊 前・宇佐・中津、佐江崎村出身者は、三田尻・周防大島、三津浜・別府・西宇和・中津、忠海町出身者は上関・青島・中津へ出漁した。以上のように、瀬戸内海 では江戸時代から打瀬網漁が行われていた。打瀬網漁を取り入れた漁業者が次々と漁場を求めて西へ移動し、漁法を伝播させていった。」(前掲書P141)
「マニラは6月から9月までは台風の季節で、漁業には適さない。山根らは明治34年(1901年)6月1日に操業を一旦打ち切った。その間、日本に帰国 して、事業を軌道に載せるための準備を行った。9月23日付で、広島県知事宛に試験操業の報告と、操業の続行を申請する文書を提出した。山根は故郷二窓で 出漁希望者を集め、自分も含めて15名の集団で再渡航した。その翌年、明治35年(1902年)にも山根は帰国した。漁業の専門知識をもつ者が必要である ことが感じられたので、広島県水産試験場の技手であった笠井亨三を伴ってマニラに戻った。笠井は広島県水産試験場を退職して同行した。翌36年(1903 年)も笠井と山根は、漁船・漁具購入と漁業者雇入れのため帰国した。二人は広島県の佐伯郡地御前村、広島市江波村を訪れて、マニラ湾での操業が有望である ことを宣伝した。渡航希望者は広島県遠洋漁業奨励事務所員の野口という人物に手数料を支払って旅券下付等の手続き代行を依頼した。この年、渡航する漁業者 は約60人、出漁する漁船は27艘を数えた。(前掲書P170)
「そもそもマニラ湾で最初に打瀬網漁に成功した山根与三兵衛は、忠海町二窓の豪農であった。百島からの出漁にあたっては、地域の名望家である赤松常三郎 が情報を入手し、出漁を支援していた。赤松は山根と面識があったと頌徳碑には記されている。しかし、それぞれの出身地である忠海町と百島は、広島県内では あるが、近い距離ではない。この二人が面識を持つには、同様の出身階層というような一定の社会的基盤が背景にあったと推測される。また田島の中井萬蔵も麻 網問屋の出身であり、郡会議員・村会議員をつとめた田島の名望家である。いずれにしてもマニラへの移民送出が本格的に始動されるには、このような名望家層 の間を情報が流れ、その情報が地域の人々に実際に伝達されることが必要だった。また、マニラという国外漁場へ出漁するには、渡航費用や漁船・漁具の準備・ 支度金が必要である。本格的な始動には、山根のような経済力のある層が自ら着手するか、中井のような経済的支援を行う者の存在が必要であった。」(前掲書 P175)