今年も夏の甲子園に向けて高校球児の熱闘が伝えられている。忠海高校の創立100周年を記念して『忠海高等学校の100年』という記念誌が刊行された。その中に忠海高校野球部の輝かしい戦績が紹介されているので、再録してみよう。
第30回大会(昭和27年)では広島県大会で優勝している。現在なら甲子園出場だが、当時は西中国(広島・山口)代表だったので、西中国大会で柳井商工に 敗れ、惜しくも甲子園出場はならなかった。この時の柳井商工でエースで4番を打っていたのが、プロ野球の広島カープで活躍した森永勝也だった。この時の思 い出を学校長であった金子彪氏は「忠高創設4カ年の思い出」のなかで、つぎのように書いている。
「高校再編成前年の野球部は県下随一のバックネットを構え、粒揃いの選手を擁して相当の成績を示していたようであるが、再編成とともに選手たちが四散する に及んで、陣容の建て直しには負けじ魂の飛騨顧問の熱誠努力をもってしても難渋をきわめたようであった。しかし規律厳正と元気溌剌たる猛練習と明朗にして 礼儀正しい態度は運動部内の白眉として教師間でも好感がもたれていたものである。(略)その苦闘修練の功は遂に実を結んで県下優勝の金字塔を打ち立てるに 至った。くじ運からいえば強豪との組み合わせとて、玉砕主義で粘ってゆく外あるまいということであったが、チーム全体として統制のとれた純真明快な試合振 りに加えて、白崎投手の中国一と謳われた豪速球、小粒ながら津島遊撃手の機敏な捕球と走塁、入道捕手の頑強不敵な健闘が物をいって堂々として優勝街道を驀 進したことは今想うても痛快を禁じ得ない。」
戦績は、忠海3-0広陵 忠海3-1観音(現広商) 忠海4-2尾道西(現尾商) 忠海4-2修道 忠海11-3尾道東というものであった。当時選手だった村本嘉昭氏は同じく記念誌に「優勝の思い出」という一文を寄せ、次のように書いている。
「その年はシード制が廃止となり優勝候補の広陵、観音、尾道西が同一ゾーンに集中、その中に忠高が運悪く入っていた。3校を倒さなければ県代表にはなれな い。大会までの残された日々の猛練習、それと昨年度は盈進商に4-3、一昨年は三津田に3-2と県代表決定戦で何れも一点差で惜敗した事実から、彼らにそ んなに力の差はないと全員が自分自身に言い聞かせ試合に臨んだ。県予選優勝の原動力となった白崎投手(南海ホークス入団)は、それまでは本人には失礼であ るが制球に難があり、四球で自滅することもあったが今大会では別人のように豪速球と縦のカーブがよく決まり、またバックも堅守をもってかれを助け、優勝の 偉業を成し遂げたのである。」