竹原書院図書館で藤下憲明著『安芸国鋳物師の鋳造活動』という本を見つけた。この本の中に「忠海鋳物師の鋳造活動」という論文が掲載されているのでその全文を紹介しよう。
はじめに
現在の竹原市忠海町で鋳造活動をしていた忠海鋳物師について触れたものはほとんどみられない。乏しい史料と現地調査で確認した鋳造作品から忠海鋳物師について紹介してみる。
忠海鋳物師の概観
草創期の忠海鋳物師については定かでないが全国の鋳物師支配をしていた真継家文書をみると、
鋳物師公事役之事、御奉書之旨対小早川又鶴丸方申遣候、及彼一族浦領分忠海鋳物師公事儀、従又鶴丸方茂対浦留守代雖被申遣候、承引不仕之由、真継代申候、浦幸・候候條、可被成御下知候、恐々謹言
十一月廿三日 隆兼
相良遠江守殿
小原安芸守殿
と天文18年(1549)I小早川氏の一族である浦氏の領地内である鋳物師の公事役の勤仕を命じており、忠海の地で鋳物師が鋳造活動をしていたことがわかるのである。しかし、中世における忠海の鋳造作品は確認することができず鋳造活動は明らかでない。
江戸期に入ってからの森田(盛田)氏鋳造作品の銘文からみていくと吉井氏竹原屋を称しているので、小早川氏の城下である三原で鋳造活動をしていた吉井氏竹原屋の一族が、浦氏の領地内に移住したものとみられる。
歴代の鋳造活動
①森田(盛田)正次
正次は森田氏と盛田氏の字を使用しており平九郎藤原朝臣、庄九郎藤原などと称している。正次の鋳造作品は勝運寺の梵鐘、福寿院の梵鐘、剣大明神の梵鐘の三口がみられる。
②森田近房
近房は藤原氏竹原屋を称しており、鋳造作品は冠崎円通堂の一口のみ確認している。
③森田清房
清房は吉井氏竹原屋、安三郎尉、勘七、利左衛門尉、宰治を称しており楽音寺の梵鐘、地蔵院の梵鐘、西方寺の梵鐘、宗光寺の喚鐘の四口の鋳造作品を確認している。このうち楽音寺の梵鐘と宗光寺の喚鐘が現存しており、楽音寺の梵鐘は小工村上治右衛門孝道と共鋳し、宗光寺の喚鐘は宇津戸の坂上武右衛門政家と内海善兵衛正真と共鋳している。
④丹下時房
時房は宇津戸の丹下氏一族とみられ甚右衛門を称している。森田清房は宇津戸の坂上政家、内海正真と共鋳しており、宇津戸鋳物師との深い関わりがあったことから、丹下氏一族の時房が森田氏を継いで鋳造活動をしたものとみられる。
時房の鋳造作品は黒滝山円通堂の梵鐘と円山寺(元観音寺)の喚鐘の二口の鋳造を確認しており、円山寺の喚鐘が現存している。黒滝山円通寺の梵鐘は昭和三十年代ころまで現存していたようであるが、割損のために再鋳されたようである。
⑤ 丹下正房
正房は丹下清蔵を称しており、丹下氏であるが時房との続柄は不明である。正房の名がみられる鋳造作品は善行寺の梵鐘であるが、鋳造は海田鋳物師の植木源兵衛藤原直昌がしており、正房は立会とあるので、この頃は鋳造活動をしていなかったようである。
⑥ 丹下綱房
綱房は森田氏梅屋、丹下甚右衛門藤原などと称していることから丹下氏が森田氏を継いでいたことがわかるのである。綱房の名がみられる鋳造作品は誓念寺の梵鐘であるが、鋳造は三原鋳物師の吉井徳右衛門藤原信品がしており、綱房は立会とあるので、この頃も鋳造活動をしていなかったようである。