山川出版社から県史34『広島県の歴史』(岸田裕之編)という本が発行された。この中に「朝鮮通信使との文化交流」という項が設けられ、朝鮮通信使と忠海について触れているので紹介しよう。
朝鮮通信使については、すでにこの忠海再発見の中でも2度取り上げているが、今回は宝暦14年(1764年)の第10回通信使と竹原の文人との交流が忠海誓念寺において行われたことが書かれていて興味深いので転載させてもらう。
「隣国である朝鮮国は、慶長12年(1607年)の国交回復後、わが国に12回通信使と称される使節団を派遣してきた(最後の文化8年〈1811年のみ対 馬交聘)。通信使の応接は幕府の国役として江戸までの道中に領地をもつ大名らが担当した。安芸国では蒲刈、備後国では鞆という2つの海駅が応接場所とさ れ、潮流や風の都合によっては忠海が停泊地とされることもあった。」(県史34『広島県の歴史』第8章教育・文化の展開と宗教P228)
「第10回の宝暦度の通信使は、宝暦14年(明和元年=1764年)正月に安芸の海域にはいった。安芸国竹原の磯宮八幡宮の神主唐崎常陸介は前年11月、 蒲刈で通信使と『議論』してみたいと代官に願い出たが拒否されていた。通信使一行は正月10日午前8時蒲刈を出発したが風雪にはばまれて思うように船が進 まず、忠海に停泊し、三使らは宿館とされた誓念寺ほかに宿泊した。常陸介は、頼春水(当時19歳)らをさそて船で忠海に上陸し、頭巾をかぶり、常陸介が用 意した両刀を帯して意気揚々と宿館にむかった。そこは三使や製述官・書記たちのいるところではなかったが、彼らは一行の一人と筆談し、春水は自分や弟たち (春風・杏坪)の書を示し相手を感心させている。次に誓念寺にいくも、三使は不在だと思って船に戻る。翌朝誓念寺へいくが、三使はすでに輿にのり行列は出 発していた。港で尾道の友人にあうと、『春水の弟が誓念寺の門前で青毛氈に坐して書し、方冠を戴いた通信使の一人に示したところ、その書を激賞した。対馬 藩士がそれをもって三使のところにいったが、三使は今は出発のときがせまっているのでゆっくり話せない、帰路にあいたいものだといったそうだ。これは安芸 国の光栄というより日本の光栄というものだ』と春水に語った。春水らはなおも船にのって正使船にいた一人と詩や書のやりとりをしているが、ものたりないも のであった(春水『游忠海記』)。この春水の弟万四郎(のちの杏坪)のことは正使趙済谷の紀行『海槎日記』にも記されている。杏坪は当時9歳になったばか りであった。」(前掲書P232~235)
この一文は当時の朝鮮通信使と民間の文人との交流の一端を示すものだが、頼兄弟や唐崎常陸介が船で忠海を訪れているのも当時の竹原と忠海の交通事情を示し ていて興味深い。いずれにしても、当時の地方の文人が朝鮮通信使との文化交流にいかに熱意をもっていたかを伺わせる文書であり、文教の町たけはらの面目躍 如を示すものである。