忠海公民館が所蔵する本の中に陸軍船舶特別幹部候補生第三期生会『船舶特幹第三期生の記録』編集委員会編『若潮三期の絆』という本がある。この本は竹原書院図書館にも所蔵されており、借り出し可能である。
「大東亜戦争も日に日に熾烈さが増し、本土決戦が近づいていた、この時、短期間での幹部養成を目的として、昭和18年12月14日、勅令第922号により「陸軍現役下士官補充及服役臨時特例」が公布され、陸軍に「特別幹部候補生」の制度が新設された。この特例に示された兵種は飛行兵、船舶兵、通信兵、兵技兵、航技兵であった。その後、戦車兵、鉄道兵、高射兵等が加わった。
この告示に基づく船舶兵科の場合、昭和19年2月から20年8月の終戦に至るまで前後2回の選抜試験が実施され、全国より2万人応募者があった。第1回目の合格者4千名は、昭和19年4月入隊の第1期生と、9月入隊の第2期生の2回に分かれて半数ずつ入隊した。同じく第2回目の合格者4千名も、昭和20年2月入隊の第3期生と、6月入隊の第4期生の計4回に亘り、併せて約8千名が入隊した。
第1期生として入隊した1890名は4カ月間の訓練を終え、そのうち1718名が特攻隊である海上挺身戦隊要員となり、小豆島の西隣の豊島西海岸及び江田島幸之浦において猛訓練の後、比島、台湾、沖縄に出陣していった。そしてその約70%にあたる1186名が再び還ることはなかった。この数は大戦中の海上挺身戦隊全戦死者1358名の実に約88%にも及び、陸・海・空を通じて行われた特攻作戦中、その犠牲者の比率の高いことは他の戦史に類を見ない悲惨な結果となった。
第3期生は戦局ますます劣勢となった昭和20年2月、満州、朝鮮、千島、樺太、台湾等を含む日本全国から勇躍入隊した。その頃の戦況は比島のレイテ島で敗れ、硫黄島も玉砕し、沖縄侵攻が始まり、東京を始め全国各都市に対する空襲は熾烈の度を極めて憂慮すべき状態であった。
2月11日、入隊式総員2160名、この頃から「若潮部隊」と通称された。(『若潮三期の絆』P5~6)
ここからの文章は『若潮三期の絆』に掲載されている富永通康氏の手記「和歌山・忠海の四カ月」から抜粋したものである。
小豆島での4カ月の訓練を終了し、それぞれの隊へ転属となったが、船舶工兵第九連隊補充隊(暁一六七〇九部隊)へ転属の六百余名は、和歌山へ一時滞在し、次いで忠海へ移動し、後に一部は船舶練習部その他へ転属した。その後、仙崎港の物資揚陸作戦、原爆被災救援活動等に従事した。
忠海での兵舎は、忠海高等女学校、忠海国民学校の校舎であったが、国民学校を兵舎としていた隊員は殆ど七月初めに船舶練習部第十教育隊に転属となり、幸之浦へ〇レ要員として向かった。
忠海付近は結構島が多く、瀬戸やその近くでは潮の流れが速いため訓練用の大発では相当流され、目標に直進しているつもりが実際は大きな弧を描き、操舵技術の困難さを痛感したものである。
また「暁(夜半)に出て、暁(明け方)に帰るから暁部隊なのだ」等と言われ、夜間の航行訓練も何度か行われた。大発の航跡に夜光虫が蛍光色に光り、何とも言えない幻想的な感じがしたものである。
舟艇訓練のほか、時には学科もあり、気象学、兵器等の講義があった。学校を兵舎としているので教室には必ず黒板があり、図を描いての講義説明等には好都合でせあったと思う。
舟艇繋留場近くの小山の麓に燃料置場があり、ドラム缶、石油缶等が野積みされていた。当時、燃料は不足しており、火災盗難に注意するよう厳命され、暗夜の歩哨には特に神経を使って警戒した。
忠海町の郷土史に「忠海高等女学校は十一教室を兵舎として暁部隊が使用」とあり、二階は内務班、一階は事務室、衛生室等に使われていた。教室の机椅子等を運び出した所謂板の間が内務班で生活の場であった。その板と板の隙間に蚤が棲息し、外から帰り、入って暫くすると、数匹が足に取り付くのがわかるほどで大変悩まされた。
七月の下旬頃だったか、夜間南方に打ち上げ花火のように火がバラバラと弧を描いて落ちるのが見えた。それは四国今治の空襲で焼夷弾によるものであった。忠海-今治間は直距離約三〇キロであるが、「夜の火は近くに見える」の通り、ほんの数キロ先での出来事のようにはっきりと近くに感じられた。
この頃防空壕あちらこちらで掘られた。山腹を掘る横穴方式であるが落盤等の事故も起きていた。
七月の初旬、下士候隊の人達が原隊へ復帰する前日、講堂で「慰安演芸会」が開催された。地元婦人会や女子学生の唄、踊り、加えて下士官候補者の樽やバケツを打ち鳴らしての八木節、安来節、特幹生の漫才、軍歌合唱等もあり、久しぶりに和やかなホッとした一時を過ごした。
忠海の沖合3キロに浮かぶ大久野島には、当時あの恐ろしい化学兵器「毒ガス」の製造工場があった。忠海町は小さな町にもかかわらず駅前には憲兵隊の分駐所があり、町全体がピーンと張り詰めたような空気が感じられた。毎日早朝から島への連絡船が出港していたが、その中に、今でも毒ガスの後遺症に苦しむ人々が乗っていたのである。
当時本土決戦に必要な武器、食糧を満州から本土へ移送するという「特攻〇朝(暗号)輸送作戦」があり、小型爆弾、エンジンオイル、岩塩、大豆、コーリャン、豆粕等が朝鮮の港から山口県仙崎港へ輸送され、その陸揚作戦に七月十日頃から隊の半数二百余人が派遣された。
八月六日の広島の原爆被爆に際しては、残りの半数の者が七日昼近くに忠海を出発し被爆救援活動に入った。また、被爆後直ちに仙崎派遣隊へ、忠海への帰隊が伝えられ七日に帰隊し、翌八日に広島への出動命令を受け、同日出発し原爆被爆救援活動に入った。広島では各所で種々の任務に就き、忠海への帰投は八月十六日以降であった。
八月十四日午後「明十五日正午に重大放送がある」とのことで当日正午前に集合した。ところが用意されたラジオが不調でピーピーガーガーと雑音が多く、放送は殆ど聞き取れなかったが、何故か終わり部分の「汝臣民それよく朕が意を體せよ」だけが聞き取れた。
これは「特殊爆弾にもめげず一致団結して頑張るように」、との陛下の励ましの言葉と当初は解していた。ところがしばらくして「どうやら日本は敗けたらしい」、との情報が流れ、「どうも本当らしい」と言うことになった。そのうち「終戦決定、地方の流言蜚語に注意せよ」と治安の面を考慮してからか達示があった。(『若潮三期の絆』P197~199)