福山駅前に古くからある古書店児島書店に立ち寄った所、二冊の『日本の海賊』という本を見つけた。一冊は長沼賢海著『日本の海賊』(至文堂・昭和30年発行)もう一冊は村上護著『日本の海賊』(講談社・昭和57年発行)である。早速購入して読み進めると沼田荘と小早川氏についての記述がそのどちらにもあるので、紹介しよう。
「瀬戸内海中央部の海賊の大勢には二つの勢力がある。伊予河野氏を中心とするものと、安芸豊田郡(沼田郡)を根拠とする小早川氏を中心とするものとが相隣して内海を制圧した。河野の勢力はその部下又は同族と称するもの、忽那島を経て安芸の江の内の島々に達して、同国の懐深く食いこんでいる。能美島の山野井氏、江田島の土肥氏、豊田郡のうち、、もと沼田郡に属する海岸地帯の林氏等は皆河野氏の分賊といわれ、これらの諸氏は後には多く毛利の家臣となった。伊藤博文は長州藩のこの林氏の出、同藩の伊藤家の養子となった人であるから、河野の海賊党の子孫であるといわれる。小早川氏の根拠地、豊田郡沼田付近に居た鎌倉時代以前の源平の合戦に平氏に味方して所職を没収され、その跡に小早川氏が這入った。爾来豊田郡の山間部から会場の島々に拡がり、南は伊予上島に属する野島(大島)弓削島に及んだ。一族には真良、土倉、船木、小泉、生口、梨子羽、椋梨、小田、上山、浦、乃美、清武、秋吉等の諸氏がある。各家は又それぞれ相当の勢力を有していた。宗家小早川氏は沼田(本荘)及び竹原(新荘)に土着したが、小早川氏として後長く栄えるのは竹原家である。一族の中早く分家して自然勢力のあったのは小泉氏、椋梨氏などである。小泉氏の苗字の地は忠海の北小泉である。康暦元年(1379年)10月5日、幕府は小泉氏(小早川安芸守)に対し、伊予国越智郡越智大島(野島)の地頭職を与えている。椋梨氏の苗字の地は沼田新庄の内にあり、豊田郡椹梨村字椋梨に当る。これも南北朝時代から室町時代の初めに至る家の文書に拠って、相伝又は新加により、海上の島々への発展のあとを挙げれば、香(高)根島南方、備後三津荘(因島)、安芸波多見島(倉橋島の東部、江田島の北)等があげられる。これより後、文安3年(1446年)6月、椋梨円春の書状に拠れば、当時大崎下島大条(今大朝又は大長といい、御手洗瀬戸に臨む)を所有している。更に宝徳の頃には下大崎島の属島である見賀多島(三角島)に及び上蒲刈島と下大崎島の間にある豊島にも及んでいる。総じて一族一党の拡がった海陸の地域を瞥見すれば、陸上では豊田郡及び賀茂郡の一部であるが、海上方面では複雑である。今広島県安芸国豊田郡の海上の島々では伊予(愛媛県)の大三島を中に、その東に連なる鷺島、高根島、生口島、それから大三島の西に連なる上大崎島、下大崎島、豊島それから広島県備後国の因島、次に愛媛県越智郡弓削島、大島(野島)等の島々に及んでいる。勿論これらの島々の全島を支配したというのではない。因島には村上あり、能島にも村上が居たが、その中へ食い込んで行ったのである。」(長沼賢海『日本の海賊』P158~159)
「瀬戸内も古くから開けた、水運交通の大動脈であった。沿岸の河口には多くの商業市場が繁栄していた。その一つ沼田市場は、三原湾港にそそぐ沼田川を少々さかのぼったところにひらけていた。その地方を治めるのは、地頭の小早川氏であった。
沼田荘は現在でいえば、三原市と広島県豊田郡本郷町にまたがる一帯である。本家は蓮華王院(京都の三十三間堂)で、下司は開発領主の沼田氏であった。源平合戦のとき、沼田氏は近隣の都宇竹原荘、生口島の荘官をしたがえて平氏に味方して敗れた。このあとに入ってきたのが東国武士の小早川氏である。」(村上護『戦雲たなびく水軍旗・日本の海賊』P44~45)
「東国武士の西国支配は、あたかも占領軍が進駐するのに似ていた。けれど彼らは、新たな施政を打ち出すということはなく、初期の頃はいずれの家も東国流に土地をこつこつ開墾することに専念していた。それが最も堅実な方法であったが、いつしか無骨な東国武士たちも、商品貨幣経済にまきこまれていく。」(前掲書P46)
「鎌倉時代も半ばをすぎると、政治のタガはゆるみ、瀬戸内は不穏な空気につつまれる。やがて海賊が活発に動き、悪党とよばれる連中が蜂起する。こうなれば幕府が頼りにするのは、西国に領地をあたえた関東御家人たちである。小早川氏も海賊追捕の重任を負おわされた。そのために伊予国高市郷(今治市南部)に拠点となる所領もあたえられた。
正和3年(1314年)には、小早川朝平が海賊を退治して、幕府から賞せられている。元応元年(1319年)には、内海海賊のいっせい取締りに力を入れ、幕府は内海12カ国の地頭・御家人に起請文を出させ、海賊取締りに協力を誓わせている。また要所には警固詰所をもうけ、海上警固にもあたらせているが、さほど効果はなかったようだ。小早川氏はその後も、しばしば海賊追捕で名をあげている。同時に内海に巣くう海賊衆は容易ならぬ相手であることも知ったのではなかろうか。」(前掲書P49~50)
「三原市の本市あたりは、今はのどかな田園風景である。ここが船着場としてひらけ、市場でにぎわっていたとは、容易に想像しがたい。ただ昔をしのぶ手がかりをさがすなら、沼田祇園神社の存在だろう。その北、道路をはさんで徳寿院という寺がある。その裏手には中世の五輪塔や宝篋印塔などもある。これまでに発表された研究によって、ここが鎌倉時代のころからひらけた、沼田荘の安直郷本市であったことを知ることができる。いつそこに祇園社が創建されたかはわからないが、防災厄除けのために祀る神社である。この系統で有名なのは京都の祇園社(八坂神社)であろう。陰暦6月7日から14日に開かれる祭礼は、貞観11年(869年)の疫病流行のとき、国数66本の鉾を立て、御霊会を営んだのが起源となっている。祭神は牛頭天王だが、ここでは漁業神として信仰されていたらしい。これについては歴史学者の石井進氏が実地に調査した貴重な証言がある。それによると『もと沼田荘のなかの浦郷にあたる忠海・二窓・能地などの漁民は、神社の御神木であるサカキの葉を海に浮かべれば、不漁のときにもたちまち豊漁があると信じていたという。瀬戸内漁業がまだ潰滅しない以前、夏の祭礼のときには何艘もの舟がつらなって沼田川をさかのぼってきたそうである。いまは内陸部になってしまっている本市の祇園社が漁業神としての性格を強くもっていることは、かつてここが入海だった時代のからの伝統と考えるべきであろう。』と書いている。」(前掲書P55~56)