広島の中央郵便局の向かい側にに小さな古本屋が共同で開いた「古本交差点」という古書店が誕生した。その中に郷土史関係の本が出品されているので、楽しみに通っている。そこで竹原高校教諭であった能島正美著『小早川一門の研究』という本を見つけた。この中に中世の浦氏と忠海について興味深い著述があるので紹介しよう。
「浦氏の祖氏実は、小泉氏平、生口惟平と同じく小早川家惣領貞平の弟であり、沼田川下流域の西岸にあたる田野浦に拠ったが、海上での活躍は、康永年間に小泉氏平らとともに東寺領弓削島に出没した以外は見当たらない。
浦氏が再び海辺に現れるのは、天文二十三年(1554年)大内氏から、安芸国東西条仁賀田村(現呉市仁方町)を安堵されてからであるが、黒瀬川河口の東側に位置する仁賀田村は、浦氏の海上発展の起点としての役割を果たしたかどうか疑問が多く、むしろ、小泉氏が活躍の舞台を伊予大島に置いたのに代って忠海浦を掌握したことによるのではなかろうか。浦氏がいつごろ忠海に入ったかは明らかでないが、忠海港には、すでに文明十九年(1487年)惣領家の家督相続安堵に対する礼銭調達に関係して忠海の二郎右衛門の名が見えており、西隣りの高崎浦とともに内海水運の要津の一つであったと思われる。
現在、忠海宮床に鎮座する床浦神社は、永禄八年(1565年)浦宗勝が海辺の小丘城山にあったものをここに移し社殿を造営している。海神を祭るこの古社を海上発展の守護神として崇敬したのであろう。とくに賀儀城址から床浦神社にかけては絶好の船泊りの地であり、背後の山腹に営んだ氏寺勝運寺の存在とあわせて、忠海浦が浦氏の海上活動の起点であったと考えるのが妥当であろう。」(「小早川庶家の海上発展」P55~56)
「浦氏は惣領貞平の弟氏実を祖とし、南北朝期に浦郷に分立した惣領家の庶家である。浦郷は、沼田川河口の西岸の田野浦から須波、幸崎さらに忠海付近まで含んだ海岸部を占め、分立当初から海上発展の条件を具備していた。さらに氏実の弟氏平(小泉氏)や惟平(生口氏)が活発な海上活動を展開していったことに影響されるところも大きかったといえよう。
乃美賢勝は、大永四年ごろにはごろには東西条仁賀田(呉市仁方町)へ進出しており、竹原小早川弘平らとともに大内氏に属する海上勢力としての地歩を保っていたようである。大永四年三月ごろの能美兵庫助出奔事件の調停をはじめ、翌年四月の呉千束要害・大歳山の武田方攻撃には呉衆を指揮して活躍しており、同じく六月佐西の陣における武田方警固衆との海戦に際しては竹原小早川弘平のもと、「倉橋右馬助一艘、能美兵庫助一艘、長浜一艘、桧垣大四郎神兵衛両人一艘」ほかの軍船の指揮して警固に当っており、倉橋衆・能美衆・呉衆を統率して参戦していることがわかり、芸南海域から広島湾東部の海域にかけて、かなりの勢力をもっていたことが推察される。
乃美氏が、この海域に海上権益をもっていたことは、次の竹原小早川弘平から乃美賢勝にあてた書状によって明らかにされる。
只今南上野介彼方へ下候、上乗之儀能々被仰付候者可為祝着候、頼存候、将又領内仁保嶋辺上乗事不可然候由、度々能嶋より申事候、無余儀子細候、向後之儀堅被仰付候する事肝心候……(略)
この書状の年代は明らかでないが、恐らく大永五年前後のものであろう。これによると、竹原小早川氏より大内氏へ仁保島辺りから乃美氏に上乗を依頼する慣例があったのに対して、能島村上氏より異議を申し出ている。上乗権をめぐっての乃美・能島村上氏の対立があって、竹原小早川氏が双方の間に立って折衝したのであろう。同じように竹原小早川弘景から乃美賢勝にあてた数通の書状があるが、これによると、乃美氏が海上諸権益を保持する海域は、蒲刈から音戸瀬戸、倉橋島・能美島さらに仁保島にかけてであったようで白井氏や伊予海賊衆との諸権益が錯綜する海域であったことがうかがわれる。
天文二十年二月二十八日毛利水軍基地の一角である佐東郡矢賀之内二〇貫の地が乃美宗勝(賢勝の子)の弟の乃美万寿に与えられており、毛利氏のもとで警固衆としての重要な役割を担っていることがわかる。やがて宗勝は厳島合戦に三島村上水軍の来援を成功させるなどして毛利方勝利の立役者となるのである。」(「呉湾及びその周辺の海上勢力」P121~123)