忠海病院で毒ガス傷害者医療に尽くされてきた行武正刀医師が、そのカルテの余白に書き留めていた患者の証言をまとめた本『一人ひとりの大久野島』が長女則子さんの手でまとめられ出版された。そのことが『中国新聞』『読売新聞』で報じられたので、抜粋して紹介しよう。
「大久野島毒ガス工場で働いていた工員や動員学徒たち277人の証言集が刊行された。毒ガス患者の診療に生涯をささげた行武正刀医師(2009年3月死去)がカルテの余白に書き留めた文章を、出版の遺志を引き継いだ長女則子さんが約3年半かけて編集した。題は『一人ひとりの大久野島』。島を望む竹原市の忠海病院に40年余り勤めた行武医師が付けた。それぞれの証言がつなぎ合わさったとき、パズルの完成のように毒ガス島の実像が浮かぶ。
行武医師は1962年、28歳で同病院に赴任。激しくせき込む患者の波に衝撃を受けた。69年から医師1人となり翌年、院長に。障害認定に欠かせない体験や心情を、カルテの余白に記し続けた。
『化学兵器は核兵器と同じ』と廃絶を訴えた行武医師。引退後、08年春に肺ガンが見つかる中、約4200人分のカルテのうち2千人余のメモを起こし、出版準備に身を削った。則子さんは08年秋、文章整理の手伝いを頼まれた。その後、病状が悪化。亡くなる直前まで病室で一緒に章立てをした。
証言は生々しく、不安や恐れに満ちている。『このまま働くと危険だと感じた』(工員)『咳もひどくて夜眠れないほど』(会計倉庫掛)『何の皮膚病ともわからずこの小さな体で耐えた』(女性工員)『この世の生き地獄でした』(戦後処理の従業員)-。
工場開設の29年ごろから終戦後までを16章に分類。徴用工員や女子挺身隊員、戦後処理にあたった民間人の証言、被爆体験の載せた。
出版に向け、遺族も含め、それぞれに承諾を得る膨大な作業を乗り越えた。『重い話ばかりだけれど、郷里の真実を残したかった』と則子さん。父がどれほど頼りにされ、感謝されているかをあらためて知った。『本になったのは皆さんの力。長く読み継いでほしい』 工員の告白に突き動かされ、言葉を書き留め始めた行武医師。序文に『島の歴史は今も続いている』と記す。」(『中国新聞』この記事を書いたのはかつて竹原支局にいて大久野島のことをたびたび取り上げていた広田恭祥記者)
また『読売新聞』も2013年10月25日付の記事「毒ガス工場カルテの叫び」という見出しで『一人ひとりの大久野島』の発刊を紹介している。その記事の中でも「カルテなどに書き込まれた患者らの主な証言は次の通り。」と毒ガス患者の証言が紹介されている。
「高熱と激痛が起きた。やけどのガーゼを交換する時は、あまりの痛さに意識を失った。病院のベッドで『殺してくれ』と泣き叫ぶ状態が数十日続いた」(戦後の工場解体作業で、毒ガスが漏れた海中で大やけどを負い、昨年8月に80歳代で死亡した男性)
「機械の故障で毒液が首や腕に付き、医務室に2日間入院した。全身に倦怠感が残り、せきやたんが出た。後に塩酸を頭からかぶって左目を失明した」(イペリット製造に携わった90歳代の元工員男性)
「終戦前、工員12人が下宿していた。朝夕、せきをして入院する人もいた。戦後10年余りで全員が亡くなった」(戦前、家が下宿屋をしていた80歳代の男性)
「工場での仕事は親兄弟にも一切話すなと言われた。退職の時は念入りに荷物を調べられた」(動員学徒として従事した女性)