沖浦和光著『瀬戸内の民俗誌』(岩波書店)は次のように述べている。 「能地のすぐ裏山に善行寺がある。家船漁民は年中〈船住居〉だったが、年に二回、 正月と盆には必ずこの能地に帰ってこなければならなかった。能地に帰ってきてもそこに家があるわけではないので、大半の漁民は船に寝泊まりした。旅先の海 で死んでも、そのむくろは塩漬けにされてここまで帰ってくる習わしだった。葬式や追善供養もこの寺で行われたが、貧しい家船漁民のむくろは寺の墓地ではな くて浜辺に埋められたと言われている。
こういう方式は、檀家の数を減らさないために、善行寺が漁民たちに義務づけたのだが、正月と盆に帰ってこなければならぬ最大の理由は、檀那寺の宗門改帳に登録されないと「帳はずれの無宿」と見なされたからだ。(中略)
臨済宗の善行寺は、1469(文明元)年に、土地の豪族〈浦〉氏によって建立されたと伝えられている。浦氏は沼田小早川家の庶家(分家)で、小早川家の 有力な一族だった。〈浦〉を名乗ったその姓からも分かるように、小早川勢の瀬戸内海進出の先駆けとなったが、特に水軍史上で名を残したのは浦宗勝で、 1576(天正4)年の木津川口海戦では毛利方水軍勢の総帥をつとめた。能地と二窓の海民がこの浦氏が建立した寺の檀家になったのは、瀬戸内海を縦横に駆 け巡って奮戦した浦氏の直属水軍として働いたからである。」(沖浦和光『瀬戸内の民俗誌』P180~181)
これまで家船の研究書として著名なのは、河岡武春著『海の民』(平凡社)や羽原又吉著『漂海民』(岩波新書)等であるが、忠海の歴史家である倉本澄氏は、先述の河岡武春や羽原又吉らの家船の研究について、次のように述べている。
「家船の研究者が少数のためもあり、近世漁業史、漁村史、瀬戸内地域の中でも家船に対するイメージは民俗学や人類学の視点をそのまま受け、原始的漁民の 形態を色濃く残す漂泊漁民=家船として括られ、きわめて零細な漁業を行う特殊な存在として片付けられ、まともに取り上げられていなかった。最近になって、 これまでの研究の視点の批判が行われるようになり、『漂泊漁民』『家船』像の再検討がなされている。能地、二窓の盛んな出漁を幕府や藩の政策との関連等、 近世史的文脈の中で論じようとする研究も出てきた。」(忠海歴史民俗研究会における倉本澄レポート)
そこで最近刊行された山口徹編『街道の日本史42瀬戸内諸島と海の道』から能地・二窓漁民についての記述をひいてみよう。
延宝7(1679)年7月、小豆島土庄村で「『他国小てぐり』がこれまで入漁料を支払ってやってきている。今後はわれわれが入漁料と同額を支払うから、 『他国小てぐり』は禁止してほしい」という趣旨の願書がみえる(『香川県史10』近世史料Ⅱ・1987年)。「他国てぐり」とは安芸国二窓浦の漁民のこと であり、二窓漁民は天和3(1683)年まで備前国児島郡田井村(玉野市)に小屋を建て、そこを拠点に直島や小豆島に運上銀を支払い、漁業札を得て手繰網 を操業していた(瀬戸内海歴史民俗資料館所蔵三宅家文書)。寄留地域で操業する場合、その地域での漁業権を取得する手続きをおこなっていたのである。けっ して「自由」な漂海民ではなかった。
「人別帳」によると、能地・二窓の漁民が瀬戸内海各地に出漁し、寄留が本格的に展開しはじめたのは、十八世紀初頭からであった。これはじつは江戸幕府の 中国への輸出海産物である煎海鼠の原料のナマコの捕獲と関係があった。幕府は全国の浦々に煎海鼠生産を課してそれを廉価で買い上げた。課せられた浦は能地 などの浦からの入漁を許す代わりに割り当てられたナマコを捕獲させた。そのような事情の積み重ねで能地・二窓浦が瀬戸内海各地に寄留地が広がったという (小川徹太郎「近世瀬戸内の出職漁師-能地・二窓東組の『人別帳』から」『列島の文化史六』日本エディタースクール出版部・1989年)。
この煎海鼠と二窓浦について倉本澄氏のレポートを紹介しよう。
「幕府の俵物輸出奨励により、山陽道においては忠海、二窓でも煎海鼠を製造していた。製造業者は堀井直二郎、生海鼠の買い集めは二窓東役所。輸出品の集荷先である長崎奉行への運搬は東役所でおこなった。生海鼠は乾燥すると二〇分の一となる。
繁栄はいつまでも続かない。二窓から出向いた漁師たちも直島庄屋三宅家文書によると、入漁者のことを『数代当地にて御公儀江御運上差し上げ、御鑑札頂戴 之者共に有り之』『御公儀半御支配之者共』であるとしている。長年にわたり、直島で幕府への運上を納めている者たちであるので幕府、代官には彼らを半ば支 配する道理があり、直島には彼らを差配する道理があるというのである。
そして二窓漁民たちは『年々御用煎海鼠請負方申し付有之者共』であり、2月から7月までは稼ぎの期間であるため、『只今罷り下し候而、御用方差し支えに 相成る』として断っている。直島そして幕府にとっては、二窓漁民の存在は『御用煎海鼠請負方』のためになくてはならないものであり、『御公儀半御支配』を 主張されるほどの存在であった。
幕府の政策に乗って真面目に海鼠を捕っていれば、収入もあり、直島に幕府から割り当てられた義務も果たすことになり、双方が力をいれたのだった。
それからは元村二窓には帰ってこなくなった。直島庄屋は往来手形を発行し、直島寺院の檀家になる者が現れたこと、直島庄屋には二窓漁民を『帰らせない』 という意志を二窓浦役所に対して表明している。 二窓漁民がなぜ定着していったか。まず年貢を二重に納めなくても済むという経済的理由があり、漁場利用に 対する運上を納め、勿論本籍地の二窓にも年貢を納めなければならない。入漁地の住人として認められる事になれば、二窓とは何の関係も持つ必要がなくなる。 結局二窓浦役所に納税しなくなった者は、直島260人の他、小豆島、塩飽、備前、田井内の者たちであった。」(忠海歴史民俗研究会倉本澄レポート)