「かけら」(青山七恵 著)
昨日の「白い紙」と同様に、新聞かなにかで、川端康成文学賞受賞作として紹介されているのを見て、以前に「窓の灯」を読んでいた作家だったので、掲載誌『新潮』を買って読んでみた。 この作品は読み始めてすぐに優れた作品であることが分かった。
「綿棒のようなシルエットの父がわたしに手を振って,一日が始まった。」という最初の一行で、「綿棒のよう」に見える父の像と、そのように見えてしまう「わたし」に既にある種の手がかりがあって、読者はその比較的めずらしい比喩にある種の予感をおぼえる。
次の「イチョウ並木の下、すぐ脇にそびえる幹とまったく同じ角度で、父は背中から朝日を受けて立っていた。」と繰り返される手がかりに、その予感がかなり確かなものだということを実感する。
父と高校生だった兄が殴りあいの喧嘩になり、華奢な父がたくましい兄ととっくみあう姿が「幼稚園児が本物の相撲取りを相手に奮闘しているみたいだった。」ことを「わたし」が思い起こすことで、読者はいまの「わたし」の目に映る父親像を明確に手にする。
そのあとバスの出発を待つ女たちに囲まれて手を振る父の姿を描いて、もう一度、「首もとまできっちりボタンをとめたポロシャツ姿の父は、そういう風景に貼り付けられた一枚の切手みたいだった。」とダメ押しがくる。冒頭の一節わずか30行足らずの間に、この作品における「わたし」にとっていま見えている父がそのようであらねばならない見え方が、少しずつ表現を変えて念入りに、けれど過剰でもなく、まさに過不足なく描かれている。
大学生の「わたし」が父と行きたいわけでもない「さくらんぼ狩りツアー」に二人で行くはめになる経緯も、「わたし」が写真教室に通っていて、その課題の写真をとるという設定とそうした撮った写真の小道具としての使い方も、心憎い巧みさだし、年頃の娘の目で描かれた父娘のやりとりが、二人のあいだのちぐはぐさ(それは娘の「わたし」が父を拒んでいることからきているのだけれど)を際立たせていく手並みも見事なものだ。
そして「起承転結」を踏むような律儀な構成の「転」にあたる、階段でつまずく老婦人を父が助けるエピソード。「あれほど機敏に父が動けることに軽いショックを受けていた。見てはいけないものを見てしまったような気がして」云々、この巧さはどうだ。
その次の節にくる、おばさんたちに囲まれて背が高いので頼まれてさくらんぼの実を落してやっている父を見ながら、「わたし」がつぶやく内心のことば。「先ほどの老婦人の一件といい、父が一人前の男として人の役に立っているのを見るのは、突然人間の言葉を話し出した犬猫を見ているようで、好奇心が勝って目が離せない。」・・電車の中で読んでいて思わず笑ってしまった。この喩えはどうだ(笑)。
作者はほんとに憎らしいほど女子大生になり切っている。 老婦人を助ける光景を見てしまうと、「わたし」の脳裡にその光景がいついてしまう。父のちょっとした動作に誘発されてその光景がまた呼び起こされる。「今日はなぜだかこの光景がなかなか記憶の襞になじまず、頭の片隅に居座っている。」
「これは、かけらだ」と父が唐突に言う。いま見ているものが全部「かけら」だという。「ここにあるものの全部が何かのかけらだとすれば、その何かとはどんな形をしていて、どれほどの大きさをしたものなのか。」と「わたし」は思う。
この一節は、「食後の散らかったテーブルだとか、ベランダのクッションがやぶけた椅子だとか、階段の下に置いてある荷物置きの台とか、そんなもののあいだにすっとなじんで、そのまま同じ風景になっていた」り、「駅へ向かう人々の中にすぐにまぎれてしまう」父、「決してあのなんとかアルプスのようにくっきりとした形では、見えない」父に触れたあとに続いているのだ。ほんとうに心憎い。
最後に、さくらんぼ園で撮った写真に映っていた、自分も気づかなかった父の姿。冒頭の2行と呼応するラスト3行の見事さ。
この作品は一行一行を読んでいくのが楽しみで、父と娘のさくらんぼ狩りツアーを描いた「だけ」の、地味といえばこんなに地味な素材で小さな世界にも思える父娘のやりとりだけを描いた作品なのに、電車の乗り換えの度に、読みかけのページを開いたまま鞄の外ポケットに放り込んで歩きながら、次の行はどんな言葉が立ち上がるのかワクワクしていた。短編でこんな体験をするのも珍しい。
そして、最初の予感から最後の感動まで、一度も期待が裏切られなかった。
blog2009年05月16日