三浦哲哉『ハッピーアワー論』を読む
先日、濱口竜介さんの「ハッピーアワー」のDVDを買ってきた時、隣に並べてあったこの『ハッピーアワー論』も買ってきていたのですが、とりあえず先入観なし見たいと思って、映画のほうをブルーレイで見て、5時間以上の長尺を退屈もせずに楽しめたので、とりあえずの感想をこの欄に書いたのですが、一昨日からは安心して濱口さん自身のこの映画のメイキングを明かす『カメラの前で』と、この三浦さんの作品論を一気に読みました。
どちらもたまに世間で評判の映画を愉しむ程度の、まったく映画オタクではない私にも、とても面白くて、それぞれもう一度ずつこの映画を楽しむような感じで読むことができました。映画のメイキングの内幕を垣間見るだけで、この作品がこれまでの普通のプロの映画作家の作品の作り方を踏襲しないで、作品に即して一から作り方自体を作っていったものだということがよく分かりました。
三浦さんの評論は、もしこれを先に読んで映画を見ていたら、きっとこのようにしか見れなかっただろう(笑)と思ったので、読まずに見てよかった!と思いました。そのおかげで彼が作品をこれ以上ないほど緻密に、丹念にあとづけていく仕方を自動的に唯一の正解みたいに刷り込まれてしまうのでなく、おや、ここは自分では全然きづかなかったなぁ、とか、面白い所に着目するもんだなぁ、とか、う~ん、ここはそうかなぁ、とか自分なりに「違い」を意識しながら映画の残像をたどりなおしてみることができました。
彼は鵜飼のあのいかがわしい何とか教室がテーマとした「重力」をめぐる話を作品全体に決定的な意味をもつものとみなして、この作品は「登場人物たちの人間関係の総体が変容していくプロセスを『重心』の劇として造形」したものだという言い方をしています。4人の30代の女性お互いの関係、またそれぞれの夫など周囲の人との関係において、ゆらぎのうちに何とか倒れずにその関係を安定的に維持していくための「正中線」を見出そうとして自分を変えていくプロセスが描かれているということでしょう。
こう言われると、素直な私などは、すぐにこの映画に登場するあらゆる人物の関係がすべてそのように見えてきてしまいます(笑)。もちろん重心の劇である、というのは独断的なテーゼではなくて、それを自分としてはこう読むしかない、というところへ追い詰めるまで、この映画の中での4人の女性や周囲の人々の「身ぶり」のひとつひとつが、また「せりふ」の一言ひとことが、実に丹念にたどられ、それがいかなる意味で「重心の劇」であるかが「実証」されていきます。その細部の観察と読みのプロセスはまことにスリリングで、不用意に一回観ただけの私などは、ハァ~ッと感心するばかり。
この作品を見た人なら誰もがそう思うだろうように、私もあの「重力」のいかがわしい教室のエピソードが全体の喩になっていることは分かりましたし、感想にも書きましたが、登場人物ひとりひとりの「身ぶり」や「せりふ」を「重心」というこのキーワードで丁寧に解きほぐし、そのありようを綿密に計測・計量して全編すみずみまで解き明かしていく手腕というのか粘り強さというのか、ほとほと感心しました。
ただ、こう綺麗にこのキーワードで鮮やかに解き明かされてみると、かえって何か抵抗を覚えるところがあるのは天邪鬼だからか(笑)・・・異常に長々と挿入される「重力」教室のエピソードが全体の喩だとは感じながら、私は三浦さんのように肯定的にその挿入を観ることができなかったところがあるのです。
もちろん、あの教室のエピソードは抜群に面白い。あれだけ独立して短編を撮っても面白いのができるんじゃないか、と思うくらい面白かった。でも、それがもし三浦さんの書いているように「ハッピーアワー」全体の構造を縮約したような(とは三浦さんは書いてはいないけれど)喩だとすれば、そういうエピソードをこの作品に外挿することに、私は疑問を覚えるからです。
たとえばカフカの「掟の番人」のエピソードはたしか独立した短編(未完だったかもしれない・・おぼえていませんが)としてあったはずですが、そのテーマは長編「城」全体のより大きな構成のうちに繰り返されていると思えるので、突拍子もない連想だけれど、「掟の番人」のエピソードを「城」の中へ、全体の喩として埋め込むことができるのではないか。
でも、仮にそんなことがあったとしたら、それは「城」という作品にとっては無用の外挿であって、ひとつの作品世界として完結している「城」の世界に、作者がその世界の外部から手を突っ込むことになるんじゃないか。たとえ一方が他の喩であり、「城」の世界の本質的な構造を正確な比例で縮約した構造をもつミニアチュアで、テーマが響き合っていたとしても、それは余計なものではないか、と言えば少しは分かってくださるかたがあるでしょうか。
4人の女性やその周辺の人間との関係が、「重心」のありかをさぐり「正中線」を求めて揺らぎつつ、変化していくプロセスとして描かれているのだとすれば、そういうテーマはその4人の女性とその周辺の人間の間からのみ生れ出てくるべきものだし、そこからあらかじめ作者がその関係の本質を抽出して椅子や人形のごとき教室の生徒を駒に使ったシミュレーションしてみせる必要はないのでは?
もしそういうことをするなら、映画の作り手が或る意味で作品に対する一つの読みを強制することになるのでは? そういう評論家におあつらえ向きのキーワードを、なぜあらかじめ作り手がしつらえておく必要があるのか、そこは疑問なのです。
だから、私はあくまでもあの重心教室というのは、鵜飼というけったいな、いかがわしい男性と、4人の女性の一人であるあかりとの具体的な関係を描いて、あかりがひとつの転機を迎え、どう変わっていくかという、ほかの3人の女性についてそれぞれ描かれたようなプロセスを描くためのきっかけにすぎない挿話であるべきだし、そういうこの作品で4人の女性や周辺の人物が生きている世界にあくまで拘泥する限り、あかりと鵜飼との関係というところでしか意味を持たない、という書き方を感想にしたためた次第です。
あれは「重心」に変に抽象的な意味を帯びさせたり、全体の喩であったりすべきではなかった、というのが私の思いです。だから、作り手が作品の内部世界に外から手をつっこまずに、ただ登場人物たちの具体的な関係の延長なりきっかけなりとして、あの場面が登場するのであれば、あのシーンはこの作品の中で異常に長すぎるのです。なんでこんなのをえんえんとやってるんだ、と思います。ただ、そのエピソード自体は面白いから困ってしまう(笑)。
もうひとつ、この作品の中で、バランスを欠いて長ったらしいな、と思ったのは(退屈はしなかったけれども)、新進女流作家能勢こずえが自分の作品「湯気」を朗読する場面です。もちろんそのあとピンチヒッターのゲストとして純の夫公平が登場して、彼女の作品への批評それ自体としてはかなりいい線いくような批評をする対談から打ち上げ会までのシーンのために、或る程度は作品の中身が伝わってこないといけないでしょうが、それでもやたら長い。
ただ、これについては三浦さんの著書によれば、この場面はフィクションとしてのこの映画作品が外部の世界に開いた開口部なんだ、というなかなか面白い解釈があって、たぶんそのことと関わって、普通の作品世界の作り方としてのバランスを欠くことは作り手も承知の上でやり切っているんだろうな、とは思いましたが。ほんとのところは分からないけれど。
私は1回見ただけなので、ひたすらストーリーを追っかけて、ということはつまり、男性なので、彼女たちよりも彼女たちのむしろ夫の立場で彼女たちの言動を追っかけていて、え?なにそれ?わからん、うそやろ!それはないやろ!などと思いながら見ていたので、なぜ彼女はここでこういう事を言ったんだろう?なぜそういう唐突にみえる身振りをするんだろう?といったことをじっくり考えるいとまもなく見ていたわけです。
だから、その肝心の4人の女性それぞれの身ぶりやせりふを場面に即して、なぜ彼女たちはそうしたのか?そう言ったのか?と問い、それに鮮やかなひとつの解を与えられると、はぁ~っ、そうなん?!ともう感心し、驚き、めちゃくちゃ新鮮でした。
4人それぞれのキーワード、「せやな」(純)、「わからへん」(桜子)、「なんやねん」(あかり←この人だけはちょっと??もあるけど)、「これか」(芙美)の読みなんかは、ひとつひとつが目から鱗。
私は三浦さんに鈍感だと書かれている拓也よりもずっと鈍感なので(笑)、こういう女性たちの気持ちは彼女らの旦那と同様、まったくわからなかったし、旦那に同情して見ていましたね。いや、そりゃこいつは女性の気持ちに鈍感やな、とか、仕事に打ち込んでいることが自己肯定のよりどころだったり、独りよがりな愛情を愛情と思い込んでいるような男の身勝手さは、ちゃんとわかるように或る意味で紋切り型の「アルアル男」たちに描かれているから理解できるけれど、女性のあぁいう身ぶりやせりふの真意は、見ている間はまるで分らなかった(笑)。
とくに私にとって難解だったのは、芙美の「これか!」でしたね。
哲哉ってほんとにいい旦那じゃないですか!(笑)。鈍い?・・・そうかなぁ。ちゃんと調理もするし掃除もするし、家事万般こなしていそうじゃないですか。奥さんに対してもやさしく丁寧で、穏やかで、旧来の男の社会的な固定観念からとうに脱皮した若い世代の典型のように見えますけど・・・。編集者として若い才能の芽がある子を育てたい、という情熱は立派なものだし、普通の男女関係でいえば彼は何も奥さんにやましいことはしていませんよね。
たしかに自分を好きだと告白した若い女性新進作家とファミレスで一晩つきあって朝帰り、というのは誤解を招くことだけれど、彼は正直に淡々とそれを妻に言ってるわけで、妻のほうも疑ったり嫉妬したりするのはわかるけれど、もともとその作家のことを語る彼の声が高揚しているように聞こえたからって、自分が傷つけられた、それが分からずにずっと傷つけつづけたのは許せないから、別れよう、ってのは理解を絶しています。でもそれさえ彼は受け入れて出ていくわけですね。これじゃあんまりだ(笑)
でも三浦さんによれば、この二人の関係では、一方的に旦那に問題があるようには描かれていない、と。芙美のほうが4人の中でも最も頑固で、ひとりよがりなんだ、ということですね。「これか!」というのは、彼女が夫が朝帰りしたとき、どう言い、どうふるまうかについて、ありとあらゆるシミュレーションを頭の中で繰り返していた、そして現実に哲哉がもどってきてとった態度に対して「これか!」だったわけで、ちゃんとそれも彼女の想定範囲に入った振る舞いだった。
彼女はいつも人と人との関係にリスクを冒して踏み込むことを回避して、一歩引いて距離を置いたところで行動しながら、人がどうするだろう、どう思っているだろう、というのを自分の中で全部シミュレートしているような女性なわけですね。だから冷静で、客観的で、人がよくみえて、気が利いて、よく人の面倒を見てくれる、そんな女性に見える。でも本当は私は人一倍わがままで頑固なのよ、というようなセリフを温泉宿だったかで桜子や純に言うのですね。そしたら聞いた彼女たちが即座に、わかってるよ!と笑う。(すごくいいシーンです。)
友人にはお見通しなわけで、彼女は人の面倒は見てくれるけれども、自分の弱みは人に打ち明けようとしない。どうせ分かってもらえるとは思わないから、と言うのですね。これは実際上、自分が殻をもっていてそこから出ようとせず、コミュニケーションを拒否するような姿勢です。
だから夫の哲哉に対する態度も、自分が殻をやぶって彼のはじめての言葉や身ぶりにで出会い、受け止めようというところがない。すべてが彼女の中で完結してしまっている。「傷つく」のも自分の想定で傷ついているわけです。だからこそ哲哉は最後の言葉として、君は傷つく必要はない、という、ちょっと変わった言い方をするのでしょう。
芙美をはじめ、私も唖然とした桜子、あかり、純たちのせりふや身ぶりをこうして、ひとつひとつ丹念にひも解いて、コンテクストの中でのその意味を解き明かしてもらうと、ほんとうに初めてこれらの厄介な(笑)女性たちが一体何を想い、何に傷ついているのかが、ようやく私のように「鈍感な」男にも少しは分かるような気持ちになるのでした。
巻末の、「ハッピーアワー」のあとに見たい映画リスト、というのは、この手の評論では珍しい読者サービスで実に親切。70+ の手習いで、少しこういう映画も見ようかな、という気になっています。
blog 2018-7-4
”「『ハッピーアワー』論」を読む”・追記
昨日書いたように、三浦哲哉さんの「『ハッピーアワー』論」を感心して読みながら、映画の作り手が作品全体の喩として外挿した(こういう言い方はもちろん三浦さんのではなくて、私の言い方で、そういう見方自体が間違っているかもしれないけれど)「重心」をめぐる何とか教室のワークショップシーンを手がかりに、この「重心」というキーワードで鮮やかに作品全体を解析していくとき、その的確さ、登場人物のセリフや身ぶりを丹念に跡付けて、その意味を解き明かしていくスリリングな手つきに感動しながら、そうやって自分の脳裡の映写幕に残っていたあの映画の記憶をすっかり三浦さんの言葉で塗り替えられてしまうような体験をして、なんだかすっかりこの映画がわかったような感じをもった途端に、いや、なんだかおかしいな、これでいいんかな?と天邪鬼な強い抵抗感をおぼえもしました。
それは三浦さんの解釈や議論がおかしい、というのではなくて、たぶんこういう映画の作品と、その魅力を解き明かそうとする評論の関係について、こちらが直接に具体的な作品から自分なりの感覚をもとにして「論」を立てるまで見ることをしないままで、ひとの評論を読んで、その認識の枠組みで作品を見てしまうことから来る、自分がひとの眼鏡を借りていることへの違和感であり、まだ言葉にならない自分の感覚との齟齬だけは感じ取っているための苛立ちなのかもしれません。でも・・・という胸のうちの天邪鬼の書きつける小さな文字として読んでください。
以前に文化事業企画演習みたいな授業で、街づくりや商店街の立て直しや建築の改修なり再利用なり、あるいは一過性のイベント等々、なんでもいいから文化的な要素をコンセプトの核に据えて街を活性化しようとか、古びた店や公共施設に新しい命を与えようとか、文化的な付加価値をつけて集客しようとか、そんな事例をみつけて、自分なりにその魅力を分析してごらん、というような課題を出していたころのことです。
対象領域が無限なほど広いので、取り上げる対象もそう重なることはないだろう、とタカをくくっていたら、女子大生の関心は思いのほか非常に狭いところに偏っていて、中でも毎年一番多かったのが「東京ディズニーランド」(あるいはディズニー・シーを含むディズニー・リゾート全体)でした。
そして、この課題に応えようとする女子大生たちなりの考察は、素朴だけれど、なるほど若い女の子らしい好みだな、とか面白い発想をするな、とか読む方としてはそれなりに楽しめるものが少なくなかったのですが、一番多いディズニーランドを対象に選んだ提出物がどれもきまって面白くなかったのです。
なぜだろう?と考えてみると、たしかになぜディズニーランドが自分たちにとって魅力的なのか、を一所懸命考えて書いてはいるのですが、行き着くところは全部、ディズニーランドをつくった人たちが考えたであろうプランで、それをはみ出す要素はまるで皆無だったからです。
それは幼いころからアニメで脳裡に物語を刻み込み、キャラクターのお姫様を自分の夢としてきた女の子たちをひきつけてやまないマルチメディア戦略から、カイヨワが類型化してみせた眩暈(イリンクス)だの模擬(ミミクリ)だの遊びのあらゆる要素を取り込んだエンターテインメント、低い建物を先細りさせて高く見せる遠近法マジックのようなハード設計、徹底した独自の従業員教育など、おそらくプランやマニュアルにしたら何百何千ページにもなりそうな工夫がディズニーランドには仕掛けられているでしょうし、その一部を彼女たちが自分のディズニーランド体験からか、他人様の発見をコピーしてかは分かりませんが(笑)、取り出してきていることは確かでした。
もちろん、ディズニーランド全体の設計意図はそれをつくった側の企業秘密でしょうから、ソフト、ハード両面にわたって洗いざらい公表されたりはしていないでしょう。だから、その魅力を生み出している要素を分析して論じたような本なり論考なりというのは、マーケティング分野の専門家などの手でたくさん書かれていたかと思います。私もそのごく一部は目を通したりしていました。
それらの考察の中には、もちろん自分の知らないことがいっぱいあって、なるほど、そういう仕掛けか、そういう意図でこんなことをしているのか、というようなことがたくさんあり、それはそれで「発見」であり、面白く読んだものです。ただ、それはみなディズニーランドを作った人たちには最初から分かっていたことで、ただ彼らがビジネス的見地から公開しなかっただけで、それにもとづいてつくられた現実のディズニーランドに、彼らの構想・計画をはみ出したり、超えたりするようなものは、たぶんないでしょう。
そうすると、プロであれ私の学生さんたちのようなアマチュアファンであれ、ディズニーランドの魅力を考え、探求する、ということは、現実のディズニーランドを手掛かりにして、ディズニーランドの作り手たちの意図(プラン)を明らかにする、という行為であって、それが隠されているから、その試行錯誤が市場で商品価値をもつかもしれないけれど、もし作り手が、いやあれはこうこうこういう理由でこう仕掛けたんですよ、と洗いざらい公開したら、それで終わってしまうようなものでしょう。
つまりディズニーランド論っていうのは、どんなに鮮やかに天空を翔けて千里を飛んだように見えても、実はお釈迦様の大きな掌の上であった、という孫悟空と同じように、ディズニーランドを作った人たちの掌の上で踊っているにすぎず、お釈迦様が指を立てたところまで行けば行き止まり、そこがゴールだということですね。
「ハッピーアワー」という映画で、もし私がそう感じたように、作り手たちがこの作品のテーマを縮約するような喩として、あの「重心」ワークショップを置いたのだとして、その「重心」をキーワードにこの作品全体を隅々まで丹念にたどって鮮やかに読み切った三浦さんの「『ハッピーアワー』論」は、映画の作り手の意図を読みといてみごとゴールにたどり着いた、千里を飛んでお釈迦様の何だったか文字の書かれた指までたどりついた孫悟空の鮮やかな、けれどもあくまでもお釈迦様の掌の上での飛翔のように見えてはこないか・・・・
なぜこんな印象を覚えたかといえば、それは間違いなくあの「重心」ワークショップのせいであって、もしあのエピソードがなければ、「重心」というキーワード自体が三浦さん自身がつくりだした、この作品を切り裂いていくためのメスのように、一層スリリングに思えたのではないかという気がします。もちろんあのワークショップがこれこれこういうテーマを要約的に語ったものでしてね、なんて映画の作り手が説明するなんてことはしていないので、ここに置かれた「重心」というキーワードを夜道を導くランタンの灯りのように使うことに何ら問題はなく、むしろそういう使い方をしたことは称賛されるべきことかもしれません。大切なのは、そのランタンで明るく照らし出される夜道なのであって、何の文句があんの?と言われればございません(笑)。
でも、そのランタン使って夜道をつぶさに照らし出して歩いた結果、もとの場所に戻ってくるように、この映画作品の作り手が用意したランタンの「重心」のところへ戻ってくる、という構造にちょっと違和感を覚えたのです。
つまり、もしこの映画の作り手が、作品全体の喩としてあのワークショップを措いたのであれば、最初からゴールはここですよ、このランタンを使って夜道を照らして歩いてきてくださいね。そうすればまたここへ戻ってきますよ、と言っているような気がして、どうもしっくりこない(笑)。それはもう暗いランタンの灯りで、よくぞここまで夜道を隅々まで照らして、道筋を鮮明にしてくれたものだと舌を巻くほど感心させられた上での話なのですが。
だから三浦さんのせいじゃなくて(笑)、これはどちらかと言えば映画の作り手のせい。濱田さんが悪い(笑)。いや、もしあの「重力」ワークショップという超面白いエピソードを全体の喩として置いたのだとすれば、です。
この映画作品は4人の女性とそれをとりまく夫ほかのさまざまな人間の間の関係とその揺れ動く関係の中で自分の位置を変化させながら変わっていくプロセスを描いたもので、それ自体で自立した作品世界を作っていて、映画の作り手が、もしもこれを「重心の劇」として作る意図を持っていたとしても、あの椅子やワークショップ参加者たちのシミュレーションに要約されない、登場人物たちそれぞれが織りなす人物たちの劇としての現実性と存在感を持っていて、作り手たちの意図をはみ出す余剰を孕んでいるから面白いのであって、その余剰の分だけ、悟空がお釈迦様の指の間からはみ出して飛んだ距離なんだと思います。三浦さんのみごとな作品論を読みながら、欲をいえばその余剰にまで触れてくれたら、たぶん私の天邪鬼な抵抗感は消えたんだろうな、と思いました。
もうひとつ昨日書き忘れていたことは、この評論の最初のほうで、東北大震災のこと触れて、重心とゆらぎをテーマの核心にもつこの映画が、震災に直接言及はなくても、明らかに震災を深く経験した作り手による「震災後」の作品だという意味のことが書かれていることに、なるほどな、と思ったということでした。文芸のほうでは、敗戦直後に戦中戦後には作家として名をなしてはいなかった、椎名麟三、野間宏、武田泰淳、埴谷雄高らの「(第一次)戦後派」と言われる若い作家が輩出して、必ずしも戦争を描かなくても、あきらかに戦争をくぐらなくては出てこない文体をもって登場したけれど、あれと同じような意味で「震災後」文学というのもあれば、「震災後」映画というのもあるのでしょう。
是枝監督が「万引き家族」でカンヌのパルムドールを受賞したとき、審査委員長が、今年のすぐれた作品の多くが、インヴィジブル・ピープルを描いている、というようなことを肯定的に述べたことが伝えられていて、そのときにまだ私は「万引き家族」を見ていなかったけれど、是枝監督の作品がどうこいうというのではなくて、カンヌ映画祭自体が、その種の「社会的問題」を直接扱ったメッセージ性の強い作品を高く評価する傾向があるじゃないか、と思ったことをこのブログに書いたことがありました。
だけどたとえ男女の恋愛を描いた映画であっても、それが現代社会の底をえぐるような優れた作品であることは、ちっとも矛盾しないでしょう、と。そのとき念頭にあったのは、テレビで一時はカンヌでも受賞するんじゃないか、と紹介されていた、濱田監督の「寝ても覚めても」が念頭にあったのです。もちろんその作品もまだ見ているわけじゃないけれど、直接震災やその後の震災にまつわる光景を描かなければ震災に深く影響を受けた映画づくりだとは言えない、なんてことはない、という同じことを思っただけだったので、今回三浦さんのハッピーアワー論に、この映画が ”「震災後」映画 ” であるという意味の言い方に共感を覚えたのです。
Blog 2018-7-5