『終の住処』(磯崎憲一郎 著)
以前に「肝心の子供」という一風変わった作品を読んだことがあるが、そのときは、文藝賞受賞作というその作品、個性的だとは思ったものの、あまり良さが分かったとは思えなかった。
今回、芥川賞受賞作となった、「終の住処」(ついのすみか)は、「肝心の子供」とは違って、私たちの身近な世界に、いまではありふれているとも思える夫婦の姿を夫の目で描いている、という意味では、素材的な特異性はないけれど、その描き方(文体)は一層個性的でユニークなものになっている。
「それぞれ別々の、二十代の長く続いた恋愛に敗れたあとで、こんな歳から付き合い始めるということは、もう半ば結婚を意識せざるを得ない」という三十歳過ぎた年齢で付き合い始めた時点で既に、「疲れたような、あきらめたような表情」だった二人が結婚し、「新婚旅行のあいだじゅう、妻は不機嫌」で、その理由を尋ねるたところ、妻は「別にいまに限って怒っているわけではない」と答える。
こう引用すれば、ずいぶん変わった夫婦のようにもみえるが、人生にも恋愛にも「負け組」のトウの立った男女が成り行きで夫婦になればこんなもので、いまどき身近なところに幾らでもこういう夫婦はいるのではないか、と思わせる。
夫の実家を訪れると、妻と母が彼をほったらかして、夜遅く沢山の買い物をかかえてほろ酔い加減で仲良く戻ってくる。夫は怒りながら、「大きな満足感」を覚え、「彼本人が疎外されれば疎外されるほど、この喜びは大きく、強くなる」ことを実感する。こういうところは、あぁ、あるある、そういうことってあるよな、と「どこにでも居る夫婦」の感を強くする。
夫は職場でダメ男だったかもしれないけれど、年数を勤め上げるうちに、客観的にはそれなりの位置を占めるようにもなるし、人並みに家を買い、人並みに浮気もし、そういう自分をその都度少し意外に思いながらも受け入れ、案外図太く居直って、家庭では子供ももうけて、「フツーの家庭」を営んでいる。
ところが、読んでいくうちに、この普通の夫婦が得体の知れない不気味な存在に見えてくる。「彼は」というふうに三人称で書かれているが、ほとんどその「彼」は「夫の一人称」で、夫の目線で妻を見ているのだが、とりわけその妻が得体の知れない存在に見えてくる。
いや、妻だけではなくて、わが子も夫のその目から見れば得体の知れない存在に見えてくる。 ひるがえって、このようにどこにでもありそうな妻や赤ん坊がかくも得体の知れないものに見えてくる、その目線自体に不気味なものを感じ始めると、この夫自身が私たち読者にとって、得体の知れぬもののように感じられ始める。
”・・・抱き上げようと左手を差し出したときだった、子供は足で布団を蹴るようにして、昆虫を思わせるすばやい動きで彼の手を逃れた。どうしてなのかそれは、起こるはずのないことが起こったように思われた。気を取り直してもう一度、左手と右手を両側から互い違いに差し出してみた。自らの身長ほど、子供はシーツのうえを音もなく滑らかに移動した。じっさいには子供はとっくに泣き止んでいたのだ。何度捕まえようとしても駄目だった、よろめきつつも彼は必死に追いかけたのだが、仰向けに寝たままの子供には指を触れることすらできなかった。そしてそのまま前のめりになって、畳のうえへ突っ伏した。二時間後、銀色の粉のような冬の朝日のなかで静かに眠る妻と子供を見下ろしながら、猛烈な睡魔のために彼の全身はとろけてしまいそうだった。このとき、彼の方こそが幻影なのかもしれなかった。そして朝食もお茶も取らずに仕事へと向かった。”
赤ん坊の泣き声にも関わらず、死んだように眠る妻を横目にみながら、眠れない夫が早朝に赤ん坊をあやそうとしている、ごくありふれた日常的な場面だが、これは現実なのか夫の妄想なのかも定かでなく、作者は「猛烈な睡魔」のせいで見た幻影のようにも解釈できるアリバイを用意しているものの、「夫の一人称」的な「彼」の三人称的文体が、こうした幻影に冒されて、妻や赤ん坊のみならず、それを描く夫自身の輪郭がゆらいでいる。
そして、この夫婦が、さらには子供まで含めた家族みなが、得体の知れないものになっていくのが、本来なら句点を打つべき文章を、読点でつないでいくこの文体のうちに鮮やかに表現されていく。
小説のラストで、アメリカから帰国した夫が、「何かが足りない」と思い、娘がいない、と気づいて、妻に尋ねると、妻は「去年からアメリカへ行っているのよ」という。
”彼は愕然とした、何ということだろう!自分が昨日までいたのと同じ国に、じつは俺の娘も住んでいたというのか!”
”いったい何が隠されているのか。「もうずっといないわよ」どうしたことか、妻の態度はまるで平然としていて、娘などそもそも最初からこの家にはいなかったといわんばかりなのだ。驚きのあまり次の質問が継げずにいる彼は、まず自分の頭をしっかりと固定し、朝日がまだら模様を描く居間の床板を一歩ずつ踏みしめながら前に出て、妻の両肩を思い切り強く掴んだ、そしてその顔を正面から見つめた。”
こうして彼は、この女と結婚することを決めたときに見た、あの「疲れたような、あきらめたような表情」をそこに見出し、またその表情が自分のものでもあることに気づく。そして、彼は、この家のこの部屋で、死に至るまでこの妻と二人だけで過ごすのだということを覚る。
前にもそういう小説の幾つかに出会って連想したことがあるが、この作品を読んで、横光利一の「機械」を連想した。
「機械」は産業社会の最下層で疎外労働を担う工場労働者の内面の腐蝕を通して、資本主義社会を成り立たせているシステムの根源に切り込んだ「倫理の書」(小林秀雄の「機械」評)と言われるが、磯崎憲一郎のこの作品も、横光の深く鋭利な切り込みと比較するのは気の毒だとしても、ひとりのありふれたサラリーマンであり家庭人である男の視線で、妻を、家庭を、職場を描きながら、その視線自体が腐蝕していくのを文体として表現した、作者の「倫理の書」と言っていいのではないか。
2009年07月31日