新・平家物語(溝口健二監督) 1955
貴族の支配する世で、権力あらそいに明け暮れる貴族たちのいいように使われる番犬にすぎなかった武士階級が、次第に実力を蓄え、やがて来る武士の時代の主役として躍り出る、その境目の時代に現れて新しい時代の礎となった平清盛の若き日を描く作品で、清盛を演じたのが市川雷蔵。貴公子顔の雷蔵が荒々しい田舎侍らしく太い眉をつけて演じているのが可笑しかった。
彼は伊勢平氏の棟梁で上皇に忠実な生真面目な武士・平忠盛の嫡子で、その正室となるのが忠盛に肩入れして藤原一門から排斥される貧乏貴族藤原時信の娘時子(久我美子)。清盛の母は、もともと白河上皇の寵愛を受けた白拍子で、比叡山の悪僧とも交わるような女で、妊娠したことを知った上皇が、いったん公家の家に預からせたうえで、忠盛の妻にさせた者で、自ら身分の高い公家の出のごとく武士階級を蔑んで不平不満を言い立ててはやがて実家へ帰ってしまう泰子(木暮実千代)。その折、孕んでいた子というのが清盛で、成人した清盛は自分が後白河法皇の子であるという噂を聞き、自分の誰の子かと苦悩する。
乱世の世で上皇と天皇が対立し、比叡山の坊主たちは僧兵として武装し、神輿を担いで朝廷に強訴し、武士階級を公家に飼われる番犬として蔑むありさまで。たびたび公家と武士、坊主たちと武士たちの間でトラブルが発生し、そのたびに社会階級として下位に甘んじている武士たちが屈辱を味わう。
自分の出生の秘密を聴き、上皇の子であると知った清盛は、抑圧された武士の分に従いなおも上皇に忠実な父に疑問をもち、何かトラブルがあれば一身に責めを負う父を助け、その暗殺の企みを防ぐが、父はそんな中で扇に清盛が白河上皇の子だと示唆する言葉を残して自害する。清盛は公家や坊主たちに屈せず敢然と立ち向かい、神輿をかついで朝廷に強訴に及ぶ僧兵らを迎え撃って追い返す。
強気の清盛に御所の中にも彼の味方をするものが出始めた。清盛は父の墓参を済ませ、帰途、野外で公家たちがの遊びをするのを見る。泰子が白拍子にもどって楽し気に遊んでいる。母は元の水に戻った、と清盛は思う。そんな公家の宴を遠目に見ながら、清盛は思う。「公家たちは踊っていよ。明日は俺たちのものだ」
武士がまだ公家に頭があがらず、命がけでいいように使われ、徹底的に差別され見下されており、坊主にさえ好き勝手されて頭を下げているような姿、というのが時代劇でもちょっと珍しく、面白かった。
ただ時代劇としては、鎧甲冑を身に着けても、戦闘場面はなくて、坊主とのちょっとした小競り合い程度なので、物足りないといえば物足りない。焦点は上皇の息子かもしれないし、母が交わっていた比叡山の名も知れぬどこぞの悪僧かもしれず、そんな母から生まれた息子清盛の苦悩にあり、その因縁をひきずった、清盛ら平氏一族と公家や坊主との争いが、そのまま貴族階級や旧勢力を代表するもうひとつの精力である比叡山の坊主どもと清盛らが率いる武士階級の争いを象徴し、その意味を拡張されて描かれているわけで、そこはうまくできています。
清盛に賭ける商人伴卜(ばんぼく=進藤英太郎)のようにちょっと面白い人物を配したり、当時の市場の賑わいを再現しているところとか、ほんとの比叡山の山道のようなところを松明をもった大勢の僧兵たちが下山していうところとか、シーンとしてなかなか面白いところもありました。久我美子が貧しい武士の家計をやりくりするために糸を染めたり機を織ったりするところも面白く、糸の染め方を清盛に説明するようなシーンもありました。これも撮影は宮川一夫、脚本には依田義賢氏が加わっています。
比較的近年テレビの大河ドラマでも清盛をやったと思いますが、あのドラマでも清盛始め武士たちはひどく誇りまみれ、泥まみれの低い身分の被支配者、被差別階級という感じを出していました。いつもの小ぎれいな時代劇の小ぎれいな主役たちとはずいぶん違っていたのを記憶しています。この映画は古いけれども、いくぶんかそういう武士のまだ勃興する前の姿をとらえて、垣間見せてくれます。
だから、そういうまだ権力をもたない力の弱い、公家たちに支配され見下される、薄汚い武士を、市川雷蔵が演じてふさわしいか、というと疑問なのですが・・・
Blog 2018-12-10