「決壊(上)」
前に読んだ「葬送」がとても良かったので、同じ作家が現代日本を舞台に書いた渾身の力作というので、早速買って、ただいま上巻を読み終わったところです。
期待に違わず、ワクワクしながら読み進める、読み応えのある作品です。帯ではバラバラ殺人事件を描いた推理小説みたいなPRがしてありますが、それが直接登場してくるのは上巻も読み終わろうというころ。
たしかにそれまでのところは何が起きる、ってわけでもないから、帯にはなりにくいでしょう。でもちっとも退屈ではありません。ぼくらの身近な世界、どこの家庭でもありえるような出来事、親子、兄弟といった家族の間のちょっとした齟齬、ちぐはぐさ、行き違い、そんなものを描きながら、それが私小説や家庭小説のようなものとは全く違った質のものだ、ということはその文体が最初からずっと示しています。
でも、推理小説的なサスペンスがないかといえば、ちゃんとある。崇と義妹佳枝のちょっとした目配せと、それをめざとくみとがめるふうの崇の弟で佳枝の夫良介の眼差し、そのちょっとした亀裂のようなものが、直接には良介のブログを佳枝が内緒で見て匿名(ハンドルネーム)で書き込みをし、そのことを佳枝と崇だけが知っているという構造によって、またより本質的には、存在自体がぶつかり合うかのような兄弟の潜在的な葛藤と良介と佳枝夫婦のぎくしゃくした関係の傷口として大きく開いていき、その傷口からおそらくは下巻にいたるおどろおどろしいものがあふれ出してくる、という予感。
そんなささいな内部の傷口がある種の違和感のように私たち読者をサスペンドすることで次へ展開していく。決してエンターテインメントのような外部的な動因によってではなく、内部的に成長し、あふれ出すような展開の巧みさ。 もうひとつ、この小説は崇という頭のよい理屈屋さんを登場させることで、会話や独白の中で自在に思想がずいぶん論理的な言葉で違和感少なく表現されています。「葬送」の中でもドラクロワたちが思想的な言葉を応酬しあうシーンは少なくありません。これはこの作家の特色なのかもしれません。
こんなに身近な会話の中に小難しい論理を持ち込むことは、日本の小説の中では珍しいのではないでしょうか。埴谷雄高のような例外はありますが、埴谷のようにこの世ならぬ仮説舞台の上で透明人間たちが氷の刃のような思想をたたかわせる、というのとは違って、この作品では私たちのみなれたいまの日本の社会、私たちの身近な世界の中に、論理の言葉をぶっちゃけています。
いまの若い人はこういうところを、生硬だ、難しい、理屈っぽい、カッタルイと感じるかもしれませんが、私にはそういう感じはありませんでした。
むしろ、そこに次々に繰り出されるのは、私たちがみな青春時代に置き忘れてきた素朴な疑問やそれについての過度に熱を帯びた奇怪な思考、いや妄想に、ある種の懐かしい感じを呼び起こされます。
埴谷雄高の「死霊」が刑務所の独房で青年期の長い時間をすごした著者の青春の書であるのと同じような意味で、「決壊」もまた平野啓一郎の青春の書であるかもしれません。
2008年07月05日
「決壊(下)」平野啓一郎
下巻も上巻のテンションが最後まで維持されて、すばらしい作品になっている。ちょっと暴力シーンがすさまじいので、R指定をしてもらわないと、というところはあるけれども、ハードボイルドの残酷ではない。なんというか、形而上学的な残酷とでも言おうか。
現代日本社会の深部に錘を下ろして、そこに巣食う根源的な暴力と正面からわたりあっている。ネットを支配する暴力を肯定する言葉の数々、人々の胸の底に潜む悪意を荒れ狂う竜巻のように吸い上げて巨大な悪魔の形になったかのようなそれらの言葉の暴力の様々な局面に、著者は果敢に戦いを挑む。
この目に見えないすさまじい暴力との戦いを制するには、敵のどんな徴候を鋭敏にとらえ、克明に記述することによって解体するしかないと思い定めたかのように、直接手を下す「悪魔」たちの背後の、無数の人々の悪意や、最も信頼すべき身内の胸に忍び入って根を張っていく不信、正義の味方の仮面の下で繰り出される警察の暴力にいたるまで、この作者は出来事の細部と心理の襞までしなやかに侵入し、自在に、繊細に、克明に記述していく。
友哉がテレビニュースで初めて被害者の母親を目にしたときの感想。
犯人は、憎まれているな、ウム。??そう考えてみて、そりゃ、そうだろうと吹き出した。なんでそんな当たり前のことを、勝ち誇ったみたいに、調子に乗って言っているのだろう?なんのヒネリもなかった。そんなことを、なんでテレビがわざわざ取り上げる必要があるのだろう?それが彼にはフシギで仕方なかった。
子供が殺されて、親が怒っている。フツーだろう、と彼は思った。・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・
謝られたら、気が済むんだろうか?「ゴメンナサイ」と頭を下げられたら、うれしいんだろうか?ただ、「ゴ、メ、ン、ナ、サ、イ」と口にするだけで?途中の「ナ」が一文字、「マ」に入れ替わると、やっぱりダメだったりするのだろうか?「ゴメンマサイ」とかw 全然意味が分からなかった。「マ」を「ナ」と聞き違えるくらい小さく発音したら、相手も赦していいかどうか、迷うのだろうか?まるでパソコンのパスワードみたいだ。そして、その類似に気がついた自分に、彼は「烈しく感動」した。(下巻62ページ)
おしかける記者を拒みながら母の背を抱くようにして先を急ぐ崇の思いを記述した、ほんの一行の繊細な表現にも目がとまる。
彼は、問いかけには答えないまま、先を急いだ。腕の中で、母がまた泣いているのに気づいた。その背中から伝わってくる熱は、小さくか弱い生き物が、自らを盛んに消耗しながら発する光のように感じられて、彼の感情を一層掻き乱した。
母親を連れて家に帰った崇が幻影を見るところ。こういうシーンも本当にハッとするほどうまい。母親が海に入っていて「どうしてっち、崇が良ちゃんを、あんなふうにしてしまったんやろ?」というシーン(382ページ)など、ゾクッとする。
階段を踊り場まで登ったところで、彼はふと足を止めた。そして、なんとなく気になって下に目を向けると、そこにはまだ小学生になったばかりの幼い良介が立っていた。・・・・ 良介は、急に心細さが解けたように、小さく笑ってみせた。そして、
「・・・おにいちゃん、どこいきようと?」
と自分も一緒に連れて行って欲しそうな顔で尋ねた。
決定的な暴力シーンをDVDで観る場面。
「なぜ、お前が選ばれたのか。??分かるか?」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「検索してみたのだよ。??私とお前とを結びつけたのは、その<幸せ>という言葉だ。」
良介は、怪訝そうに目を細めた。
「テクノロジーにも、悪魔の住処はある。私はネットで、世界の<幸福>な表情を一望して、殺されるべき人間を物色していた。そこで、お前の日記を見つけたのだよ。そう、<幸せ>という語句から!お前を私に紹介したのは、グーグルだ。悪気はなかっただろうがね。」
男は、水に浮かんだ虹色の油のような薄ら笑いを見せた。
この作品を読んで本当にインターネットのウェッブを通じて徐々に浮かび上がってくる無数の悪意に背筋が寒くなった。でもこれはそれだけにおわる小説ではない。悪意の竜巻にドンキホーテのように正攻法で堂々と渡り合って、負け戦を戦い抜く過程で、敵の手の内を私たちのために克明に記録してくれている。
2008年07月08日