2020年01月19日
ジャファル・パナヒ監督「ある女優の不在」を見る
原題は "3 faces" というらしく、原題のほうが邦題よりもこの映画の語ろうとしていることが、よりよく表現されているような気がします。素晴らしい作品でした。
新聞で評判になった映画をたまに見る程度の私はイラン映画というと日本でもよく知られたキアロスタミ(「友だちのうちはどこ?」「オリーブの林をぬけて」「桜桃の味」)とかモフセン・マフマルバフ(「サイクリスト」「ギャベ」「サイレンス」「カンダハール」)など、ほんの数本を見ているだけで、他は全然知らないと思っていました。
ところが今回出町座のこの映画のチラシを見ていたら、パナヒ監督が「白い風船」の監督だと書いてあったので、はるか昔に見たあの映画のことが突然また目の前に置かれたように思い出されて、これはぜひ見ておきたいと思ったのです。
「白い風船」は少女を主人公にした子供の世界を描いた作品でしたが、それでも彼女の生きる世界が実に手触りのきく抒情的なタッチで描かれて、すごく印象に残っていました。
あれは、たまたまテレビで放映したのを見て、私が大好きなフランス映画「赤い風船」を真似た中近東の映画かいなくらいに思って見ていたら、どんどん引き込まれて、見終わると深い感動を覚えていたので、記憶に残っているのです。そんな偶然の出会いでしたから、監督の名前も、どんな人なのかも知らないままで、その後どんな映画を作っているかも知りませんでした。
今回この映画を見て、パンフレットに目を通して、遅まきながら、あの「白い風船」がこの監督のデビュー作だったことや、その後素晴らしい作品をとりつづけながら、イラン社会の古い因習や強固な女性差別にユーモアたっぷり鋭く切り込む作品のために、イラン現政権に逮捕されたり、映画製作を禁じられたりして、それでもなお映画を撮り続けて、それがいずれも海外の映画祭で受賞するなど高い評価を受けている、ということを知りました。
映画を撮るのを禁じられて、「これは映画ではない」という作品を撮っているところなど、この監督の真骨頂で、まだ残念ながら見ていないけれど、今後見る機会があればぜひこの監督の作品は全部見たいと思いました。今回のこの「ある女優の不在」も素晴らしい作品でした。
ストーリーはネット上などでも紹介されていますが、イランで人気の女優ベナーズ・ジャファリ(本人が本人を演じています)のところへ、映画女優を志してテヘランの芸大へ合格しながら、親や周囲の猛烈な反対にその道を閉ざされた少女マルズィエというファンから、夢がかなわないならもう死ぬしかない、あなたしか助けてくれる人はないから、親を説得しに来てくれ、と親友に動画を託すメッセージを自撮りしたようで、そのラストは首をつって自死する動画になっている、そのメッセージを送りつけられ、連絡を試みるも連絡がとれず、少女の身を心配し、事の真偽を確かめるために、撮影現場を放り出してまでして、監督パナヒ(この映画の監督本人が演じています)とその少女の住むイランのアゼルバイジャンの村まで車で出かけます。
有名女優と映画監督が来たというので、村人たちが集まり、口々に歓迎の言葉をかけますが、マルズィエを探している、と言ったとたんに、あんな馬鹿娘に会いに来たのか!と罵りの言葉を放って散っていきます。どうやら少女が死んだ(とすれば)ことを村人たちはまだ知らず、しかも有名女優は歓迎するそぶりだったのに少女が女優を夢見ることに関しては、まるで女優など役立たずの人間の屑で、村の恥さらしだ、と言わんばかりの偏見に満ちた態度で強く否定しています。
少女の妹の案内で少女の自宅を訪ねると、少女の弟だという巨漢の青年が、姉を村の恥さらしだと憤っていて、二人に出て行けと威圧しますが、母親が彼を閉じ込めて、二人を招き入れ、マルズィエがもう3日間も帰宅せず、心配していると告げます。しかし彼女もまた娘の女優志願には反対で、あきらめさせるために、どうせ合格しないだろうと結婚と引き換えに芸大受験を認めたのですが、合格してしまったので困惑しているようです。
マルズィエの親友の少女も、マルズィエの行方を知らないというので、少女が送っていた動画に映っていた自死したと思われる場所、近くの洞窟のありかを聴いて、パナヒとジャファリは洞窟へ行き、少女が動画の中で首を括るときロープをぶらさげた木の枝をみつけますが、ロープもないし、死体も見当たりません。やはりお芝居なのかというジャファリに、パナヒは、いや家族の恥だと思っている彼女の家族が片づけてしまったのではないか、と言います。このあたりまで、ずっといわば推理小説仕立てと言っていいようなところがあって、冒頭の少女の自死の衝撃的な場面から、ぐいぐい引っ張っていく手際は、純文学的映画というより、上質のエンターテインメントというほうがいいような感じです。
しかし、その後マルズィエ本人がジャファリの前に現れ、ジャファリは自分を騙して村まで誘い出したマルズィエに怒り狂って、こうするほかになかったと言って謝罪しつつなお救いを求める彼女を激しくひっぱたきます。
ジャファリとパナヒは村を出て行こうとしますが、途中村の出入り口にあたる長い九十九折りの一本道で崖から落ちて傷つき、うずくまる巨漢の牛に遮られてしまいます。牛を連れた男は、その牛がただの牛ではない、稀有の精力絶倫なる種牛で、ちょうど十数頭の雌牛に種付けするために行く途中だったなどと物語ります。
この辺りは、そんなセリフを言ってる男は大真面目だけれど、観客の私たちが聴いていると思わず笑ってしまう、ユーモラスな場面です。
また、ほかにも、ジャファリが誘いをうけてちょっと寄る村の老人の家の縁で接待を受けながら老人が息子の割礼についてとくとくと語り、そのときの息子の包皮を皮袋か何かに入れていて、これを自分がほとんど崇拝するようにポスターを何十年も大切にしまい込んでいたイランの男優ベヘルーズ・ヴスーギに渡してほしい、とジャファリに依頼する場面も同様に、爺さんはその包皮を埋める場所が好運や不運をもたらすという俗信を固く信じているような爺さんで、大真面目なのですが、それを困惑しながら受け取るジャファリとのこの場面も、大いに笑えてしまう場面です。
このベヘルーズ・ヴスーギという男優は、この場面で爺さんが言うように、もともとイランを代表するマッチョやヒーロー役を演じて人気のあった男優らしく、三船敏郎みたいな俳優だ言っている人もあるらしいのですが、私も近年ビデオで見た、亡命監督バフマン・ゴバディの映画「サイの季節」というイラン革命の創り出した社会状況に批判的でシリアスな作品の中で、革命の混乱の中で30年間投獄された詩人サデッグ・キャマンガールがモデルのサヘルを演じていたことが、パンフレットを読んでいるうちにわかりました。現在は米国在住です。
もともとなじみのないイランの俳優の名など記憶に残らない上、今回見た作品で老人が語るような役柄をやって人気のあった男優というのと、「サイの季節」のようなシリアスな作品で政治犯として獄中にあった詩人のようなインテリのイメージとの落差もあり、また名前の日本語表記が情報によってひどく違っているので、最初同じ人と思わなかったのですが、今回の作品のパンフレットに出演作の記述があったので、ちょっと調べてみたらこの人だとわかりました。ただ、今回の作品には老人の語りと彼が持っていたポスターの写真でしか登場せず、出演はしていません。
さて、牛に妨げられたこともあって、村へ引き返すことになったとき、パナヒはジャファリに、さっき少女に激しい怒りをぶつけてひっぱたいたのは、少々やりすぎじゃないか、どうせ村へ引き返すなら仲直りした方がいい、と言います。
こうして二人は少女がかくまわれている家へ行き、パナヒは車にとどまり、ジャファリだけが家へ行きます。少女をかくまっていたのは、往年の伝説的なイランの女優シャールザード(実在の女優。この映画では名前の使用を許諾し、自作の詩の朗読をして協力していますが、女優としては出演していません)で、イラン革命後は女優としての活動を禁じられ、村人たちに、女優なんてものになったら、あんなふうにみじめになる、などと言われながら、意に介さず、村人たちと接触することもなく、毎日絵を描きながら孤高の生活を送っています。ジャファリはマルズィエと共にシャールザードの家に行き、歓待され、彼女からパナヒへの贈り物だと、シャールザードの詩の朗読CDを車で待っているパナヒのところへ持ってきます。一人になったパナヒがそのCDをかけて、私たちはシャールザードの自作詩の朗読を聴くことになります。
この映画で、シャールザードはこの自作詩を朗読する声として登場するほかは、ただ車で待つパナヒの目で、夜の闇の向こうに遠く、明かりのともる家の中にいるらしい影としてしか姿を垣間見せるだけで、その表情も姿もどんな人かはわかりません。けれども、この作品では、ジャファリ、マルズィエとともに3人目の女性、3faces の一つとして、その要の位置を占めるような非常に重要な役割を与えられているように思います。おそらく、それを表現しようとして、邦訳は「ある女優の不在」と、彼女の欠落を強調したのでしょう。
しかしもう少し客観的にみれば、ジャファリがイラン映画史の「現在」を体現する女優だとすれば、シャールザードはその「過去」を体現し、また女優志願の少女マルズィエはその「未来」を体現するものでしょう。そして、ふつうの映画で言えば主人公として彼女のための物語が語られているかのようにこの作品が見えるジャファリは、村人たちも歓迎し、敬意を表する人気女優だけれど、そもそもの物語の発端を形づくるマルズィエを追い詰めるのは、女優を志す「未来」の女優と言っていい彼女に襲い掛かる、彼女の家族や村人たちの根強い偏見、いわれない侮蔑感、理不尽な敵意ですし、「過去」の女優シャールザードに対する視線も同様に彼女を忌避し、村八分的に孤独に追いやる力学が働いていて、実際には「過去」も「未来」も、従ってまた当然「現在」も、一つも変わることのない、その種の抑圧的な共同体の力学が働いているわけです。
ここで描かれているのはそういうイラン映画史の過去、現在、未来にわたる抑圧ですが、それを通してもちろんパナヒ監督が描こうとしたのはイランの政治的抑圧と同時に、それに正確に響き合うように根強く民衆の間に存在する共同性の抑圧力のようなものでしょう。それをジャファリに寄り添って村を訪れるパナヒ監督という、非常に微妙な距離感をもった視点から見、物語って、3人の女性、しかもその一人は姿も現さないのに要の位置に置くようにして、時間的な奥行きを鮮やかに浮かび上がらせていく、この脚本の見事さんには本当に感心しますし、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞したというのもうなずけます。
当初の推理小説的なストーリーに惹かれて物語をたどろうとすると、ジャファリが入っていったシャールザードの家で何が起きたのか、またその後、車にとどまるパナヒを残して、ジャファリとマルズィエの二人だけでマルズィエの家に入っていって、荒ぶる弟やテヘランへ娘を探しに行って帰ってきていた頑迷な父親をどんなふうに説得し、どんなやりとりがあったのか、全然観客には知らされないので、肩透かしをくらったような気がするかもしれません。
でもこの映画は推理小説のように、こうなってああなって、実は犯人がこいつで、こんな風につかまりました、と物語る映画ではありません。物語を起動し、次にどんな危機が待ち受けているかと私たちをハラハラさせ、引き込んでいく仕掛けとして、それは実にうまく仕組まれていますが、マルズィエが生きているとわかり、シャールザードが姿こそ現さないけれども、この物語の中に存在感を持って登場するあたりから、この作品の真に語りたかったことが明確に私たちの前に姿を現します。
シャールザードの家でのできごとは、遠く離れた位置にとめた車で待つパナヒの目を通して見える夜景の中の明かりのともった一軒の家の窓に映るわずかな影の動きしかわからないし、ジャファリとマルズィエが招き入れられたマルズィエの家の扉が閉ざされると、外の車で待つパナヒ同様、私たち観客にも中で何が起きたかは分かりません。
その間、マルズィエの荒ぶる弟は両親によって外に締め出され、車で待つパナヒと距離を置いて向き合う形になります。パナヒは弟の敵意ある視線と間の悪さを避けるかのように、車を降りて垣根の隙間越しに開けた風景が見える場所にやってきて、たまたまそこにシャールザードが一人、キャンヴァスに向かって座り、無心に風景画を描いている後ろ姿を目撃します。シャールザードの姿がはっきりとらえられるのはこの場面だけです。顔かたちも分からないけれど、一心にキャンヴァスに向かう彼女の姿は孤独ではあっても絵を描く自分の世界に没頭してやまない凛とした姿で、パナヒと共に私たちが聴いた彼女の朗読する自作詩と同様に、鮮やかに彼女の持続する立ち位置を示して、私たちに深い感動を与えます。
マルズィエの家で二人が両親とどんな話し合いをしたのか、そんな場面はありません。再び村を出る一本道に車を走らせ、村人の約束事通り、クラクションを鳴らし、行く手の道から姿の見えない対向車が急いでいるから先に通せという合図の二度のクラクションが聞こえ、それに対してこっちも急いでいるから、とさらにクラクションを長めに鳴らすパナヒ。それにまた遠くから、さらに長めのクラクションが聞こえ、パナヒは車をとめたまま待機し、同乗していたジャファリは、少し歩いてみるわ、と車を降りて長い九十九折の道をどんどん歩いていきます。その時向こうから、前日の牛男が言っていた、十数頭もの牝牛を載せたドラックが数台連なってやってきて、ジャファリとすれ違うようにこちらへやってきます。
ズイズイと歩いていくジャファリの背に、待って!と声を挙げ、駆け出して追っていくマルズィエ。彼女はジャファリに追いつき、二人の女、「現在」の人気女優とおそらくは「未来」の女優である少女とが手を携えてパナヒの視野から遠ざかっていきます。
この二人の女性の姿を、それを見送るように眺めているパナヒの位置に私たち観客が置かれて彼と共に眺めていると、シャールザードの家で二人が何を授かってきたのか、そしてマルズィエの家で二人がどんな風にふるまい、どんな結果におわったのか、そしていま二人がどんな未来へ踏み出そうとしているのかが、推理小説の種明かしとは違った形で、じわっと胸に迫るようにして全部わかるような気がします。本当に見事なラストです。