「野火」(塚本晋也監督) 2014
これは例によってDVDを借りて来てみたのですが、小さい画面で見てもきつい映画でした。原作はもちろん昔読んでいましたが、活字で読むのとこういう映像で見るのとでは大違い。
戦争を描いた映画は無数にありますが、これほど肉がちぎれ飛んで大量の血が噴き出し、目が飛び出して蛆虫が溢れ出し、裂けた腹から濁った液体が流れ出す映画というのもそう多くはないでしょう。現実の戦場はホラーよりコワイぞ、と言いたげな映像です。
私はこの映画を観ながら、あるときに職場の同僚と交わした短い議論を思い出しました。たしか共産党などが各地につくろうという運動をしていたのではないかと思いますが、平和博物館みたいなものを作ろうという動きについて、あるいはすでに作られたその種のミュージアム、あるいは資料館の類で、展示物の選択やその取扱いについてたぶん反共的な団体からだと思いますが、注文がついたりした事件が報じられたころだったかと思います。
直接にその種のミュージアムがどうのこうの、という話ではなかったのですが、平和博物館とか平和祈念館とか平和資料館とかいうけれど、実際には欧米でいう戦争博物館だよね、中身は違うかもしれないけれど、戦争と平和って表裏一体のものだから、欧米の戦勝国みたいに自国の人殺しの道具を誇らしげに展示するようなことは日本ではタブーかもしれないけど、或る意味でそれは隠蔽であり、きれいごとであって、平和ミュージアムっていったい何なんだろう?みたいな話はしたような気がします。
論点になったのは、わたしは、別にミュージアムでなくてもいいけれど、若い人も戦争体験者も含めて、互いに戦争と平和について、あるいは国を守るとか愛国とか自衛とか、そういうことについて自由闊達に議論できるような場を積極的にそういう場につくればいいのにね、というようなことを言ったと思います。
そうすると、私の少し先輩の同僚であった彼は、とんでもない、という顔をして、「議論するっていったい何を議論するの?平和ミュージアムでは、戦争は怖い、と感じさせるような展示をすればいいんだよ。徹底的に戦争の怖さを戦争の遺したものを使って展示して、感性にたたきこめばいいんだ」という意味のことを言ったのです。
彼はそういう「議論」をしたがるのは、いつも国防とか愛国とか言って軍備増強をしたがる右翼的な政治家たちであって、そういう「議論」の土俵にのせられること、市民を巻き込むことは、忌むべきことだと考えているようでした。彼によれば、戦争経験者の死去、高齢化にともなって、どんどん戦争体験が風化し、その悲惨さも忘れられていく中で、戦争の経験を次代に伝えていくためには、とにかく戦争はコワイ、戦争はイヤだ、と身に染みて感じさせるような、感覚に訴える展示、実物教育、体験者の実体験の語りなどをすべきで、「議論」なんかしたってなんの意味もないんだ、敵の土俵にのるだけだ、ということだったのでしょう。
私はもう何十年も前のことですが、当時もそして今も、彼の考えには不賛成です。そして、今回観たこの塚本晋也の映画を観て、彼のような考え方と似たものを感じて、違和感を覚えたのです。
これは映画作品で、表現芸術ですから、直接反戦メッセージを唱えるものではないけれど、明らかにメッセージ性を持った反戦映画だと思います。そして、私のかつての同僚と同様に、戦争の怖さ、恐ろしさを伝えよう、とにかく戦争になったらあなたが、あるいはあなたの子や孫がこういう目に遭うんだよ、というのを、その肉ちぎれ血がとぶほとんど狂気のような映像で観客の目に焼きつける、という意志が非常に明白だと思います。
実際、ネットでちらっと見た、塚本監督がこの映画ができてからだと思いますが素でインタビューに応じた記事で、彼はたぶんいまの安倍政権を批判して言っているのだろうと思いますが、日本が戦争へひきずられていくような事態にいまなってしまっている、というふうなことを語っていました。まことにストレートな考え方であり、彼の映画という媒体による表現も、とてもストレートなようで、この作品は非常に直截な形で戦争そのものの激烈な暴力性が視覚に強く訴える形で描かれています。
こういう映画を観て人がどう感じるかは知りませんが、少なくとも私はいままで話題になったこの映画を観なかったのは、あまり見たくなかったからです。そして、たまたま見ても、少なくとも愉快な気持ちにはなりませんでした。あるいはそれが作り手の意図どおりかもしれませんが、不快な気分になりました。もちろん感動などしようがありませんでした。
戦場は敵とみなした人間を殺す場所ですから、どこのどんな戦争でも、多かれ少なかれこの種の激烈な暴力の本質がむき出しになって個々の人間を襲うのでしょう。それはこういう擬似映像を見なくてもわかるし、見たからといってわかるものでもない、と私には思えます。
この種の擬似体験がどんなに悲惨な絵柄を見せるとしても、はたしてそれが戦争体験の本質を次世代に伝え、反戦平和につながる力になるのでしょうか。私にはとてもそうは思えません。最初からそれはどこか現実と表現芸術との関係を見誤っているようにしか思えません。
私がかつての同僚に「議論」すべきだと言ったのは、私たちが受けて来た戦後教育の中で、戦争も防衛も愛国も何も議論されてこなかったということがひとつの現実としてあります。また、私たちの親の世代は戦争を経験しながら、その経験を私たちに少なくとも積極的に伝えようとはしてきませんでした。むしろ貝の如く口を閉ざしてきたのが一般ではないかと思います。そして、そういうことを議論すべきだと言うのは、たしかにいわゆる「右」あるいは復古的な思想の持主であることが多かったせいか、「左」あるいはいわゆる進歩主義的な思想の持主のあいだでは、平和は叫んでも、それと表裏一体の戦争についてはただ語ることを忌避するだけで、まともに見据えて議論する姿勢はなかったと思います。
一人一人の身体性と結びついた感性は人間の認識の原点であり源泉であり、きわめて重要かつ決定的なものだとは思いますが、私は戦争の映像的な擬似体験で戦争はこんなに怖い悲惨なものだぞ、と感性に訴え、思い知らせれば戦争体験の本質が伝えられるとは信じられません。そこにはやはり「見えない関係」をとらえる方法が必要なので、それはそういうものをとらえようとして互いに言葉を交わし合い、議論し、少しずつでも近づいていくしかないものだと思います。それは必ずしも知識人的な方法ではないかもしれませんし、あんな程度の低い議論をして何になる、敵の土俵に上げられるだけだ、と思う進歩的知識人はあるでしょうが、それでいいし、一般庶民としての私たちにできる方法でいいと思います。
そういう観点から、私はこの作品を生み出した(と私には思われる)思想には懐疑的です。若い人はこの映画を敬遠するだろうし、観たとしても、ただ怖いと思うだけでしょうし、中には私と同じように不快な体験をしたと考える人もあるでしょう。それでいいんだ、というのが作り手の意図かもしれないけれど、それなら表現芸術について、とてもこの作品の作り手の基本的な姿勢にそもそも私はついていけません。
ただ、この作品には戦場を彷徨う逃亡兵士の目に映る美しい自然、空の雲やジャングルの緑の美しさも映し出されています。それが唯一の救いといえば救いです。戦闘場面の壮絶さは数多い戦争映画でも屈指のもので、映像技術的にはひとつのピークをなすような業績なのかもしれません。
Blog 2018-9-12