「田舎司祭の日記」(ロベール・ブレッソン監督) 1951
田舎の村に司祭として着任した重い病に冒された若い司祭が、子供たちを教え、村人たちに融け合おうし、領主ともうまくやっていこうと志してきたのではあるけれど、この田舎の人々のそれぞれの頑なで閉鎖的、排他的な態度に傷つき、ようやくラスト近くで、はじめは反抗的だった領主の娘や教室の生徒の一人と、わずかな心の回路が開かれようとしたときはすでに手遅れで、彼の悪戦苦闘による心身の疲労が着任のときから彼の身体を深く蝕んでいた胃癌を悪化させるような形で彼を斃す、という暗いお話です。
金が人から人へ渡るにつれて悪を広げていく「ラルジャン」や、ラスコーリニコフ的な「思想」にとらわれた「スリ」の青年のもひとつ前にこの作品を置いてみると、なるほどこの監督がカトリックの作家で、人間の生き方とか人と人との接触、関係のありようを、神様を参照して倫理的に考えようとしてきた人らしいということは、わかりよくなります。
この作品ではそれが正面から扱われていて、普通に考えれば司祭として賞賛していいような、きまじめな青年司祭が新しい任地で誠実に人々の中に入っていこうとし、神の道を説こうとし、悩める人々の相談にのり、助けの手を差し伸べようとするのですが、そのことごとくが意地悪な拒絶に遭うわけです。
彼が教える教室の子供で、彼の話が心に染み入るように理解している女の子がいたので、彼女を教室に残して言葉をかけ、ほめた上で、なぜ私の話を熱心に聴くのかと問えば、彼女は妖しい笑みを浮かべて「あなたの目が綺麗だからよ!」と言い捨てるや背を向けて教室を駈けだしていき、戸口の外で聴き耳を立てていた彼女の友人たちも、してやったり、と喚声を挙げて少女と一緒に逃げていく、という場面が最初のほうにあります。
子供らは若い男性としての彼を、自分たちのまだ幼い「異性」を小道具にしてからかっているわけで、たちの悪い、意地悪な対応の仕方です。まして大人たちはもっと陰険だったり、露骨だったりして、彼の善意をことごとく踏みにじるばかりか、彼が差し伸べる手を何かよからぬ魂胆によるものであるかのように噂を立て、彼を追い詰めます。
彼が相談する別の先輩司祭の助言やなにかで辛うじて息をつきながら、自分の使命と信じる行動を続ける司祭ですが、そのストレスや大変なもので、もともとかかえている病魔の力を増したことは疑いもなく、とうとう彼は文字通りぶっ倒れてしまいます。
このとき彼に救いの手を差し伸べるのは、上記の彼を最初にからかった女生徒であり、また彼を拒んでいた領主の娘なのです。彼女はこの司祭と、彼女がアンビバレンツな感情を持つ母親との会話を立ち聞きして、彼について、母親の死を早めたというような、よからぬ噂を広げた張本人でもあるのですが、実は司祭との会話によって母親がそれまでになかったような表情に変わり、心穏やかに死んでいったことを知っていて、そのことを彼に告げに来るのです。
こんなふうに最後に救いがなくはないけれども、全体としてはひどく暗い映画です。希望とか救いとかを描くには、たぶんこれだけの不幸のボリュームと重量を必要とするのでしょう。
最後に近いシーンで彼は自分が「聖なる苦悩の虜」だと自覚し、涙を流すところがあります。彼を、十字架の上で、「神よ、なぜ私を見捨てたもう?」と叫んで死んでいったイエスになぞらえることもできるでしょう。
モノクロの映像がとてもよく生きる作品で、司祭の表情が光の当たる部分と影になる部分との対照を際立たせて美しくみえるシーン、部屋の中で領主の妻の死を顧みて日記を書いている司祭を窓の外からとらえた映像とか、光と影をうまく使った美しい映像がいたるところにあります。聖職者の黒い服装が、雪に覆われた村や林の風景や貧しい司祭の住まいを背景にとても美しく見えます。
村人や少女たちの排他的で意地悪な対応に翻弄され、跳ね返され、病に刻一刻深く冒されて、傷つき、悩み、苦しみ、恐れながらも、強い信仰心に支えられて純粋さを失わず、日々の出来事と思いを日記に書きつけていく彼が、わずかな救いを見出そうというときに、ついに矢尽き、刀折れて斃れるまでを克明に追う、暗いけれどすぐれた物語になっています。
Blog 2018-10-14