ヨーロッパ横断特急(アラン・ロブ=グリエ監督) 1966
出町座で昨日見てきました。
なつかしいですね。といってもこの映画を50年前(!)に見たわけではありません。ロブ=グリエは私にとっては何よりもヌーヴォーロマン(アンチ・ロマン)の作家で、映画はたまに娯楽として見るほかさして観ようともしなかったので、映画監督ロブ=グリエについては何も知りません。
「消しゴム」や「嫉妬」などいくつかの代表的な作品を読み、「新しい小説のために」というエッセイ集をかなり熱心に読んだことはおぼえていますが、自分がそこから何を学べたかは定かではありません(笑)。要は判らなかったということでしょう。
あのころ、ロブ=グリエだけではなく、サルトルやカミュのような作家の次に来た新しい世代の文学、という感じで、ナタリー=サロート、ミシェル・ビュートル、クロード・シモン、マルグリット・デュラスなどの新しい小説が次々に翻訳出版されて、けっこう付き合ったのを覚えてています。たまたまその少しあとで国外へ出たので、邦訳のなかったものは英語のペーパーバックで、というのはフランス語が読めないものだから仕方なく英訳で読んだりしたのを覚えています。
そういえばフランス語のできない私がはじめてフランス語で全文を読んだ小説というのはロブ=グリエの短編La Plage (浜辺)でした。なぜかといえば、その数年前に出たペンギンブックの「French Short Stories」という対訳本をたまたま本屋でみつけて、これなら英訳付きだし、ロブグリエのその短編はほんの数ページの短いものでしたからこれなら読めそうだ、というので買ってきて、ロンドンの英語学校の同級生だったフランス語のよくできるスペイン人の可愛いお嬢さんに、休み時間に毎日繰り返し呼んでもらって復唱し、うまく読めるとほめられるのがうれしくて、なんとか全部読んで、意味のほうは英訳を参考にして理解できたのです。それがたぶん私が原文で読んだ最初で最後のフランスの小説でしょう(笑)。私が彼女の前では優等生だったので、ご褒美に彼女は、私が日本語で主著をほとんど読んでいたバルザックが面白いと言っていたのを覚えていて、なんとフランス語のペーパーバックで「ゴリオ爺さん」をプレゼントしてくれたのですが、さすがにこれは私の語学力ならぬ語学無力と根気では歯が立ちませんでした。彼女がずっとそばで付き添っていてくれたら、私もフランス語が読めるようになったと思うけど(笑)、彼女とはわずか数カ月のおつきあいでしたから・・・
そのときのテキストはいまも思い出に持っているのですが、頁がバラバラになって、ロブ=グリエの「浜辺」の冒頭がある最初のほうのページが紛失してしまっています。あの最初のページは繰り返し読んでもらった(し、読んだ)ので、ほとんど丸暗記していて、簡単な単語さえ忘れてしまったいまでも調子だけはおぼえていて、カタカナフランス語(笑)でなら声に出して言えるほどです。むかし有村ナントカって数カ国語ペラペラみたいな出鱈目「言語」を喋るお笑い芸人さんがいましたが、あれと変わらないですね(笑)。それじゃあんまりだから、ちょっと調べて懐かしい原文の冒頭だけ記しておきます。
Trois enfants marchent le long d'une greve. Ils s'avancent, cote a cote, se tenant par la main. Ils ont sensiblement la meme taille, et sans doute aussi le meme age; une douzaine d'annees. Celui du millieu, cependant, est un peu plus petit que les deux autres. ・・・
3人の子供が浜辺を歩いている。並んで手に手をとって進んでいく。3人は同じくらいの背丈で、おそらく歳も同じ、12歳くらいだ。しかし真ん中の子はほかの二人よりもすこし小さい。・・・
何でもない情景の描写です。はじまりだからではなくて、大体しまいまでこういう淡々としたシンプルな描写がつづきます。ははぁ、こういうのがヌーヴォーロマンなのか、とそれでも当時はなにか特別な文体のような感じで読んでいたように思います。
邦訳でいろいろ読むと、ひとくくりにできない多様さがあるけれど、古典的な小説のような物語性や心理描写がないとか、客観的で透明な描写のようでいて、実はその全体がある人物の主観の歪んだレンズをとおして見られた光景なんだとか、その種の仕掛けについては、様々な評論と併せて読むことで、その実験的な試みらしきものは一応理解できた気にはなりました。
けれども、すくなくとも私が読んだそれらの作品の中に、ほんとうに惹かれるものはひとつもありませんでした。端的に面白くなくて、読んでいてつまらなかったのです。はじめのうちはそれでも、いや自分にはまだ新しい小説がわからないだけかもしれない、と思って、同じ作家でも別の作品を、また別の作家をと手に取って読んでみましたが、どんなに多様性があっても、つまらない、という意味では共通していました(笑)。なんだか、これが新しい小説だからこれが分からなきゃいまの文学はわからんぞ、とまるで教師に宿題で読むことを強いられるように、面白くもないテキストを読まされているような感じになってきたので、きれいさっぱり全部売り払って(さきほどの仏英対訳本だけ例外)、それから半世紀、結局文学の世界では、すくなくとも今の日本の文学には何の痕跡も残していないのではないでしょうか。
古い世代の作家には影響を受けた、と言う人もあるでしょうし、実験小説的なことの好きで「方法」ばかりが先立つような頭でっかちな作家がまだいるとすれば、いやいや深甚な影響を受けた、あれは小説を一変したんだ、とおっしゃるかもしれないし、日本の文芸批評家は昔からおフランスびいきなのでとんでもない、と目を剥くかもしれませんが、事実を見れば、いつもと同様、「おフランス」の流行にとびついて、これがなければ夜も日も明けない大騒ぎをして、あとはたださぁーっと潮が引くように引いて、何も残らなかった、というのが本当のところではないでしょうか。まぁ、その流行の間にいちはやく翻訳を量産したりときには翻訳より先に「紹介」したりして、ちゃっかり儲けは出ているかもしれませんが(笑)。
さて閑話休題。感想を書くはずだった(笑)映画「ヨーロッパ横断特急」をいまみると、とても古めかしく感じられます。小説でも実験小説、なんて言われて新しがられたものほど、時がたつと読めたものじゃなくなるものでしょうけれど、映画も同じなのかもしれません。頭でっかちにあれこれ不自然な操作をしてこの仕掛けが分かるか?みたいな小説というのは、文字で書かれた小説の場合、まったとりえがないけれど、映像の場合はそれ自体が感性的に直接訴えてくるものだから、抽象的な言語とは違って、また意外な出会いがある場合だってあるのでは?と思って観ていましたが、なんだかつまらない楽屋裏を見せられて、しらけてしまうところがあります。
ヨーロッパ横断鉄道に乗り込んだ、映画監督らしい中年男ともう一人の男、それに中年の女性の3人が、この映画と同じ「ヨーロッパ横断鉄道」という映画を制作しようと企画していて、彼らがストーリーを考えそこに配置しようとする登場人物が実際に列車に乗り込んできて事件が起き、その進行を話し合う中でストーリー自体に変更を加えていくと、この映画の中で起きる現実も変わっていきます。3人がこの映画の中で現在進行形でこの映画自体を制作しており、その映画がただちにこの映画の中の現実として進行もするけれど、またその進行自体が3人の構想にフィードバックされて、彼らがつくりつつある映画自体が変えられていく、という仕掛けです。
それは入れ子構造として語れることがあるけれど、マトリョーシカや入れ子のだるまさんみたいな、より大なる要素がより小なる要素を完全に含むようなツリー構造ではなくて、言ってみれば同時に逆に小が大を含みもするリゾーム構造になっていて、古い言葉で言えばフィクションと現実とが相互浸透するような状態で進行する映画です。
彼ら3人がつくっている映画、「現実に」この映画の中で進行するドラマというのは、007のパロディみたいなスパイものかギャングもの、あるいはもちろん列車ですからオリエント急行殺人事件のパロディみたいな推理劇で、そこに語られる物語の断片や登場する人物は浴場のペンキ絵、芝居の書き割りみたいな、或る意味で典型をなぞった、うすっぺらでいかがわしいものばかりですから、観る者は誰もそんな物語をまじめにたどったり、「推理」したりはしません。むしろそういう生真面目な見方をからかい、嗤って、現実とフィクションの間を往還しながら、どんなところへ連れて行かれるか分からないぞ、というプロセスを楽しむことができるなら、それは「面白い」という方もあるでしょう。
こういう仕掛けをあれこれ詮索したり、また仕掛けたりすることが知的な行為だと考えておられる方々は、こういう映画を知的でおしゃれで面白い、と思われるのでしょうが、私には全然そうは思えないので、なんてつまらない映画だろう、と思いました。私は相手がいて知恵をしぼって戦術を考え、ああでもないこうでもない、と駒を置いて競ったり戦ったりするゲームは好きだけれど、コンピュータ・ゲームおたくがはまっているような、空想的な物語りをベースに、その主人公を自分が生きて冒険して怪物をやっつけてお姫さまや宝物をゲットするみたいな、オタクの人たちがはまる暇つぶしゲームのようなのには全く興味がなくて、面白いとも思わないので、あれと同じじゃないかな、と思いました。
今はやっているようなそんなコンピュータゲームも、これまで一世を風靡してはあっという間に消えてしまったゲームソフトのように、じきに視界から消えてしまうことでしょう。手を変え品を変えてまた新たなゲームが流行はするでしょうが、基本的にそういうものは「古い」ものだと思います。「宗方姉妹」の姉が言っていたように、「古びないものが新しいもの」なのではないでしょうか。
Blog 2018-12-10