「さよならも出来ない」~第12回大阪アジアン映画祭で~
第12回大阪アジアン映画祭の一環として、シネ・リーブル梅田4で今夜(6日)、一回限りで上映された映画「さよならも出来ない」を見てきました。
多摩映画祭で受賞した作品とはいえ、一般の方を対象に京都市などが支援して旧立誠小学校で開いているワークショップで作られた作品なので、知る人もほとんどいないだろうし、会場はがらがらなのではないかと思って行ったら、パッと見たところほとんど満席のような状態で、まずそのことに驚きました。
ほとんどが若い人だけれど、中には中高年の方もちらほら、上映後、監督と出演者4人が前に並んでの質問タイムのとき、なぜ1回しかやらないんですか、と尋ねたりしていらしたから、こういう作品も熱心に見に来て下さる方があるんだな、とあらためて映画ファンっていいな、と思いました。
作品は初っ端から、良くも悪しくも自主製作映画系のとっつきにくさはあるけれども、テーマははっきりしていて、話の中身は主人公と言っていい若い女性が、いかにもいまどきの草食系的男子である「もと彼」と一つ屋根の下で境界線を引いて互いの領域に立ち入らないようにしながら、3年間もズルズルと同棲生活をつづけている状況のもとで、それぞれの職場の異性がからんだり、女の子のほうの親に頼まれて伯母(と伯父)が二人の日常に闖入したりでさざ波が立ちます。
つまり二人にとってはルール、あるいは明確にルールとして合意されたわけでもなく勝手にそれぞれこれがルールと思っているだけかもしれない黙契のもとで、境界線を引くことで「同棲」が可能になっているこの関係が、ほとんど何十年も一緒にくらしてきた夫婦の関係のように自然に転化しそうになっているとき、外部の人間の闖入によって、それが自然な形とは言えないよ、ということがあぶりだされることで、二人の黙契の上に辛うじて成り立ってきた関係が失われる謂わば危機に見舞われます。
出演者の一人が、辛気臭い話でしょう?と笑いながら、好意的な文脈でだけれど言っていたように、また司会者が最初に、「別れるならさっさと別れりゃいいのに」3年も「もと彼」と同棲するっていう、どうしてこういう話になったんですか、という意味のことを監督に訊いていたように、「別れた」筈の男女がその後3年もズルズル同棲している、という「不自然な」形がストーリーの基軸になっています。
でもその「不自然さ」自体が、比較的「自然」に描かれているのがこの作品です。 その意味で、出演者、とりわけ「もと彼」を演じた草食系男子はその「不自然さ」をまったく「自然」に生きている人物を演じるにふさわしいキャラクターであり演技でしたし、主人公の女性はその「不自然さ」を「自然」として体現しているような存在感がありました。
先の司会者の冒頭の質問に対して、監督はこの映画を制作した経緯として俳優コースのワークショップで出演者一人一人と色んな話をしてたくさんのことを話しあってきた中で、映画に描いたものとは違うけれども、或る核になるような話の示唆を得たという意味のことを、それほど明確にではないけれども発言していました。
出演者の一人も、この作品に参加する過程で、ずっと他者と向き合うという経験をくぐってきたように思う、という意味のことを言っていました。いまの若い人の他者との関係のありようが、この一見「不自然な」設定に映し出されていることは疑うべくもありません。
ラストに近い場面で、この「もと彼」の男の子がずっと歩いて行って橋を渡っていく、あのシーンはとても良かった。そのあとのシーンで、誕生日の彼を崩れたケーキにロウソクを立てて待っている彼女のところへ帰ってきて、「このままずっと歩いて行ったら、さよならも言えずに・・・」というセリフを言うことで、あのシーンが観客の頭にぱっとフラッシュバックのように浮かんで、すごく印象的でした。
もうひとつ、主人公を演じる男女のデスマス調のセリフがとても印象的でした。もちろんそれは境界線がそういう言葉遣いをさせているんだ、と形の上では言えるでしょうけれど、ほんとなら、普通よりも一オクターブ低いなれあいの乱暴な言葉になりそうですが、まったく逆に一オクターブ高い、二人の黙契のちょっと現実離れした「不自然な」関係を「自然」とする仮構線で語られる言葉にふさわしい響きに思えました。
(Blog 2017.3.7)
「さよならも出来ない」~立誠シネマで
この夏で幕を閉じる、京都の映画発祥の地とされるもと立誠小学校跡で、上映会やワークショップなど様々な映画イベントをつづけてきた立誠シネマで、きょうから30日まで(26日を除き)、「さよならも出来ない」が連日上映されるというので、その初日に見てきました。
部屋の両端にいすを並べ、最前列に座椅子を並べなどして、精一杯キャパを増やしても、60人くらいが精いっぱいの仮設の小屋みたいな小さな劇場に満席のお客さん。仮設の小屋へ小演劇を見に行ったときのことを思い出しました。そうマイナーな映画を見る機会はないので、映画でこういう経験は珍しい。
とうとう入れなかった方もあるそうで、この知る人ぞ知る小さな劇場スペースでの、監督も出演者もほとんど無名の人たちの作った映画を上映するマイナーなイベントとしては異例の満員御礼に、あとで挨拶に立った監督や出演者、スタッフからも口々に驚きと感謝の言葉が聞かれました。
私自身は大阪アジア国際映画祭で一度見た作品でしたが、二度目に見て、一層いい作品だと思いました。前回はどうしても物語を追い、全体としての映像の印象に意識が向いて、細かな点に気付かないでいたことも、今回は少しゆとりをもって細部まで見ることができました。
特に、一人一人の出演者の演技をよく見ることができたような気がします。タマキを演じた主演女優の土手さんはスクリーンの中では実に存在感のある「大きな」女性に見えました。表情も豊かで、とても難しい役柄の女性の気分を自分の気持ちがぴったり重ねられるところで演じているように感じました。
ところがホールを出てロビーで挨拶している彼女はほんとうに可愛らしい小柄な女性で、スクリーンで見るのと全然印象が違いました。笑顔のちょっとシャープな生き生き輝く目がとても素敵な女性で、たちまちファンになりそうでした。
お相手役の主人公カオルくんのほうは、役者さんは映像の中よりさらに純真そうな青年で、こんなにたくさんのお客さんに来てもらって、という挨拶のとき涙を流しているように見えたのが印象的でした。
初回の時の感想にも書いたのですが、冒頭からこの二人の世界に入って行くときには、その「不自然な」二人の関係の設定に、若い人の自主製作映画にありがちな、少々理屈っぽい青臭い映画かなという気がしないでもなかったのですが、きょうは見るうちに、それは二人の主役の若い男女の現在の宙ぶらりんの状況、二人の気持ちの状態のいまというのを正直に描こうとするときに、どうしても世間のありきたりの割り切り方では描けない、無理にあっちかこっちかと決めつけることだけはすまい、という作り手のこの映画にかけるモラルのようなものが作り出す必然的な仮構線として、このような設定、あのような二人の間に引かれ二人を隔てるテープの線があるのだな、と納得することができました。
それさえ受け入れれば、あとはその仮構性に沿って、過不足なく二人の自然な日常と気持ちの微妙な変化とが丁寧に描かれて行くことに引き込まれて行くだけです。おばさんの役の出演者の演技が達者だなぁ、と思いましたが、どの出演者もそれぞれに自分が演じる役柄の人物の気持ちが自分の気持ちに重なり、逆にある成り行きの中で生身の自分がそう感じ、そう振る舞うだろうように、劇中の人物が次第にそういう生身の人物に近づいていくかのように、自然に重なって行くまで待つことを厭わずに過ごされた時間が感じられる自然体の演技が見られるような気がしました。
前のときだったか、監督がワークショップで長い期間一緒にいて、一人一人がいろんな話をしあい、またみなで時間をかけて聞いていく中で、この作品をつくってきた、と言っていました。彼は黒澤明監督のような独裁者型の監督ではなくて、きっと大林宣彦監督のようにみんなでワイワイ語り合う中で作品を作って行くタイプの監督なのでしょう。
それは長所でも短所でもあり、Ghost of Yesterday のときでも、完成後の打ち上げの席で、カメラを担当した監督の友人である名カメラマンが、そりゃ俺はやり易かったよ、でもね、ともう少し監督が自分の色を明確に押し出して、こうしろ、ああしろ、とぶつけて来ても良かったんじゃないか、というニュアンスのことを言っているのが耳に入ってきたことがありました。そのときにも、あぁ、そうなんだろうな、そこにこの彼の監督としての強みも弱みもあるのかもしれないな・・・と思いました。
今回の作品では、そのみんなでじっくり自分を語り、相手の話を聴き、議論しあい、それぞれの出演者やスタッフの中で登場人物が生成し、熟していくのを待つという作られ方が、好ましい結果に結びついたのではないかという気がします。出演者の多くが演じるのも初めてというワークショップの受講生であったこと、制作のプロセス自体がワークショップのプロセスであったことが幸いしたと思います。
二人のこの不思議な関係を身近に彼らと関わる人々が、つまり職場の人、かつての友人、叔父や叔母、姉などがそれぞれの視点から裁断し、否定的な立場からの忠告めいた言葉や振る舞いで二人の世界に闖入してきます。でも二人はそんな他者の物差しで自分たちを律することなく、また気負うこともなく、そんな他者の裁断の「正しさ」を認め、それとの距離感を十分に認識しながらも、自分たちの内心の「ルール」を破ることなく、その律するところに従って微妙な位置取りを保っていきます。
周囲の人の言葉が鋭く良識的で説得力のあるものであればあるほど、この二人の関係の特異性が際立ち、彼らがなぜ別れてしまわないのか、という問いが私たちの胸底にも深く静かに降りてきます。
妊娠している友人の言葉なんか、さりげなく言う、それって男にとってすごく都合のいい状況ですけど、っていう、あの言葉なんか本当に普通で聴けばそのとおりだよなぁ、と思わざるを得ないほど強力なものですよね。やれるし、食えるし、なんとかだし、って、ちょっと皮肉っぽく「・・ですけど」、なんて、ほんとに小憎らしいほど適切なタイミングでの適切な言葉ですね。おばさんも、お姉さんも、タマキに告白する同僚も・・・それぞれに説得力がある。二人のそう言われてみればみるほどまことに奇妙な関係。
この二人のありようにとって、棒読みのような、でもやさしく丁寧なデスマス調の言葉遣いでの落ち着いたやりとりは、ふさわしいものに思えてきました。また、他律的な支えに拠らず自分の気持ちに正直に一人で立とうする者が必然的に抱え込まざるを得ない、どこにも頼るもののない不安や孤独感や心許なさの影を帯びながら、他方では自分たちの内面のルールを守る者に固有の確乎とした強さ、胸を張り、首筋を伸ばした、凛とした姿が一貫していて、この二人を周囲のプレッシャーの中で暗く惨めで卑小な存在にさせずに、傷つきやすい心を持ちながら自分たちの行くべき道を手を携えていけるような存在であることを感じさせてくれます。
話はコロッと変わりますが(笑)この映画に登場する犬はどこかの「俳優犬」としてトレーニングされたワンちゃんなんでしょうか。職場のビルの谷間でのもう一匹のワンちゃんから、タマキとカオリくんとの犬を飼えばの会話、そしてひとりでいるカオリのところへやってくる素敵なワンちゃん、いい伏線、いい「演技」、いい登場の仕方でしたね。あんなワンちゃんなら飼いたいな。
それから本屋さんだったっけ、壁に中島敦の「文字禍」の文章らしいのが大きな壁紙として貼ってあったのに今回初めて気づきました。先日円城塔の「文字渦」の感想で触れたばかりだったので、こんなのがこの映画に登場するのを見つけて、まったくの偶然とはいえなんだか妙な因縁を感じました。
やたら登場する小説などの本も、わざわざタイトルを見せ、中の一節を登場人物が口にしますから、いちいちは解釈できないけれども、監督は結構こういう細部に思い入れを持っているような気がします。
たとえばカオリくんが職場のカワイ子ちゃんに、誕生祝いに貰う本。その子は、その子のことが好きな男の子に、「重い本をあげちゃったから」みたいなことを言います。男の子は言葉通りに意味を取り違えて、広辞苑でもあげたの?みたいなことを言います。どんな「重い」中身だったのか、気になるところです。
同じ客の中にいいた私たちの知り合いは美術に詳しい人でしたが、彼女は、この作品で美術が凝っていた、と言っていたそうです。音は今回は監督自身がつくってはいなくてほかの方に任せたようですが、前にYouTubeの予告編でほんの一部の音だけ聞いた時、いい音だな、音に凝ったな、と感じました。
まだまだ細部に色々ありました。叔母の不意の電話を受けて動揺したタマキが、友人の夫が塗りたての板の白いペンキに手を置くシーン、その手の長映し。彼女が砂場で見ている砂山のとんがった先が崩れて手が出て来るシーン・・・
ラストはまた別のシーンでありえたかもしれません。ストレートに向き合う二人でなく、境界線が消えることで暗示することはできるから。またそれをもっと遠い時間の向こうへ延長してしまうより苛烈なラストもイメージできるかもしれません。現実にはそうしたことはよくあることですから。
でもきっと物語の中の二人も、それを演じる二人も、それを望まなかったのでしょう。ここまでの時間の中で、二人はそれぞれに境界線を自分で越えていくことのできる自分を見出したのでしょう。
映画を撮るには本当に大勢の支え、協力してくれる人たちが必要なんだな、ということを、今日のような場で痛感します。出演者もスタッフもこの上映会のためのプロモーションに協力して一所懸命PRして下さったようです。
この力が次の、また次の、より大きな、より優れた作品となって、力を貸してくれた人たちが、本当にあのとき一緒にやれてよかったなぁ、と思って下さるような映画づくりを続けてほしいと心から願わずにいられません。
(blog 2017.6.25)