誰も知らない (是枝裕和監督 2004年)
前に書いたと思っていて前回書かなかったのですが、もちろんこの作品を抜かして是枝作品を語ることは不可能だと思うので、あらためて作品を見て、どこかで書いた感想とダブるかもしれませんが今回感じたことを書いておきます。
映画は、都内の2DKに引っ越したアラサーの女性が12歳の息子(明)と2人で大家夫婦のところへ手みやげを持って挨拶にくるシーンから始まり、子供は一人で、学校の成績も良いおとなしい子だというようなことをごく自然に言って、賢そうな男の子も素直に挨拶するので、おだやかな滑り出しですが、実はこの母親が大変な母親で、父親の異なる子供を4人も連れていて、部屋に運び込んだトランクからは、明の2人の妹(京子、ゆき)と1人の弟(茂)が隠れていたのでした。この母親は母親とは名ばかりで、次々に男をとっかえひっかえして子を産んできたのですが、いまでは長男明に3人の妹・弟の面倒を全部みさせて、自分は間歇的に不意に消えてはどうやら男のところへ転がりこんでいるようです。明をはじめ兄弟姉妹はみなそんな母親でも、つまり大人になりきれない幼稚な頭脳と精神性しか持ち合わせず、母親としての責任感のかけらも持ち合わせないけれども、その分、子供たちとも自分も子供仲間であるかのように接してきたこの母親が好きで、恨みも非難したりもしません。明などは調理をはじめ妹弟たちの一切の面倒を文句も言わずに日常的にやっていて、学校へ行きたい気持ちも友達と遊びたい気持ちも抑えて、いまではそれが自分の当然の義務であるかのように食料を手に入れ、調理し、弟妹たちの世話を一手に引き受けています。
子供たちは少なくとも上の3人は学校へ通う年頃なのに、この母親は「学校なんて行ってもしょうがないよ」と学校へはやらず、家事万端をやらせる兄明以外は人の目から隠し、子供らには部屋から出ないように、ベランダにも足を踏み入れないようにと、半ば幽閉しているようなありさまです。
消えてもこの母親、たまに子供たちを思い出すのか、突然現金を送ってきたり、また突然帰ってきたりするので、なんとか子供達も生きていけるのですが、その金も途切れると、明はいまは無関係に生きているかつての母親の夫、自分や妹・弟の父親(だった男たち)を訪ねて小遣いをもらったり、コンビニの店員に賞味期限がきたような食料品を分けてもらったりして、なんとか弟・妹たちを食わせています。
そんな無責任な母親に、明が「母さんは勝手だと思う」と言うと、母親は「何言ってんのよ、勝手なのは出ていったきりのお父さんのほうでしょ」と平然と反発する始末です。
そして或る時とうとうこの母親は、家賃といくばくかの生活のための現金と、明への妹弟たちをよろしく、というメモを残して消えたきり、待てど暮らせど帰ってこなくなります。
以前にも増して明は弟・妹たちの食糧を手に入れるために奔走しますが、現金もなくなっていき、ガス・電気・水道などもとめられ、水は公園の水道をペットボトルで汲みにいって生活する始末です。それだけ金に困り、着たきりのTシャツもボロボロに破れ汚れていても、彼は知り合った同世代に勧められた万引仲間に加わることを拒む潔癖さは失いません。
明もすぐ下の妹・弟も学校へ行きたいし、友達と遊びたい年頃で、明は偶然知り合った同世代の男の子2-3人と友達になり、アパートに連れてきてテレビゲームなどしますが、それは妹や弟を脇へ追いやることになり、心理的にも明と妹弟たちとの間に溝ができ、明もいら立つことが増えてきます。友達と思っていた子たちも中学へ入るとそれぞれ新たな友人をもち、用も増えて、もう明とはつきあってくれなくなります。
孤独な明は、ちょうど学校で級友たちにいじめられて孤独だった女の子紗希と偶然出会い、彼女が明のアパートにも出入りするようになります。しかし、彼女が彼らのためにお金を得ようとして中年男との援助交際をして得た金を渡そうとすると、ただ一緒にカラオケを歌いに行っただけだと彼女が言うにもかかわらず、明はその金の袋を払い落として受け取ることを激しく拒み、やり場のない気持ちをぶつけるようにして町をどこまでも駆けていきます。このシーンは、限りなく純粋でけなげな少年の魂がぎりぎりのところで耐えているものの重さをひた走りに走る彼の映像だけで力強く表現した、とても素敵なシーンです。
そして最悪の悲劇が訪れます。明が食物を求めて駆け回るあいだに、アパートで一番下の妹ゆきがベランダで、不安定な椅子の上に立っていて落ち、打ち所が悪くて死んでしまいます。弱い子供たちと言う存在の中でも、もっとも弱い、まだ自己主張もできない、誰にも愛されるだけの一番年下の小学校にもまだあがる年にならない、可愛い幼い女の子にこそ、大人たちの身勝手な生き方の招いた運命の神、死神の鎌が振り下ろされるのです。ほんとうに笑顔の可愛い幼い子だったので、死にざまがえんえんと映されるわけではないけれど、とても切ない場面です。
明は、ゆきの死体をトランクに詰め、彼女が見たいと言っていた飛行機の飛び立つ空港へ、紗希とともに埋めに行きます。もはや手遅れでしたが、母親からはまた気まぐれな現金書留が届きます。電気も水道もガスもとめられ、公園で水道の水を汲み、相変わらずコンビニの残り物をわけてもらう生活が続いていきます。誰にも知られることもなく。
この映画は、1988年に実際に起こった事件をモチーフに是枝監督みずからが書き起こし、着想から15年を経て結実した作品ということです。
わたしは、これまで見て来た作品の中では、この作品がたぶん是枝監督の最高の作品ではないかと思います。
ことしのカンヌの審査委員長が言ったような、現代社会の影の部分で、依然として貧困、差別、戦禍、暴力等々の恐怖や不安、現実的な飢えにさいなまれながら生きることを強いられた「invisible people」を描く作品、私が苦手な、あきらかな社会的メッセージをもった作品ではありますが、この作品のすぐれているところは、徹底して映画の作り手が登場人物である子供たちに寄り添っていることです。
それは映像作品としての本質的な方法そのものとしてそうなので、すべては子供たちのうち年上の少年明の目を通して世界が見られています。彼はほかの3人の弟妹たちと同様にわがまま勝手な母親と知りながら、その母を愛しており、彼女の頼み通りに素直に家事をこなし、料理をつくり、弟や妹の面倒を母親に代わって日々こなし、学校へ行きたい気持ちも、友達と遊びたい気持ちも抑えてそういう日々を過ごしています。どんなに貧しさにおいつめられてもコンビニで「友人」のする盗みに加担せず、親しくなった少女紗希が彼らのために、中年の客との援助交際で金を工面してくると、ただカラオケを一緒に謳っただけだよ、と少女が言っても、その金を払い落して拒否して、言いようのない、ぶつけようのない憤りを発散するように街をひた走ります。
明確なメッセージをもった作品ですが、映画の作り手のそのメッセージは、ただこの少年の目に映るあるがままの情景自体が孕む批評性と、その彼や弟、妹たち子供らの愛らしいけなげな表情やいたいけな行動によってのみ表現されており、作品の世界に外から持ち込まれるよけいなものは何ひとつありません。
映画の作り手といえども、この作品の世界に外部から介入することはできないのです。これは優れた映画の最低条件であり、この作品がつまらない社会派的メッセージ映画から画然と区別される優れた作品であることを証していると思います。
子供たちの視線を通してこの世界を描くために、またそのような世界の混乱のただなかで漂流する子供たちの姿をあるがままにとらえるために、カメラは監督やカメラマンの表現意識で対象を選択して先鋭に絞り込んでいく方法をとってはいません。語弊を恐れずに言うなら、子供の視線がとらえるまま、或る意味で視線が拡散していくようにアドランダムな対象をカメラがとらえていくようにみえます。
作品にとって外在的な視点に統御されたものたちではなく、ただそこにあって子供たちの視線を逆にもののほうがとらえ、子供たちの視線がそのつど引き寄せられ、それらの上を漂流し、次々に移っていくアトランダムな対象のように、カメラがとらえていくように見えるのです。
そこではストーリーに回収されるような対象の洗練された捉え方ではなく、ストーリーにとって重要か重要でないか、重いか軽いか、大きいか小さいか、は問題ではなく、ただ子供の目線でそれらはまったく対等なモノとして、その視線を引き寄せる限りにおいて同等の価値をもつものとして映像のうちに捉えられていきます。
このカメラのありようが、この世界を突き放してみれば、本当に貧しい、汚れた、不潔などん底の閉ざされた世界を、子供たちの想い、皮膚感覚、息遣い、触れた跡等々をそのひとつひとつにとどめた、多様多彩で豊かなモノたちにあふれた世界に変えています。
それはいまの世の中で考えられる限りの貧しい生活情景なのですが、それを映しとったこの作品の映像は限りなく豊かで多彩多様なものを孕んだ世界になっています。その豊かさこそが私たちを感動させてくるのだろうと思います。
カンヌで史上最年少で、日本初の、主演男優賞を受賞した柳楽優弥の演技についてはもう多弁を要しないでしょう。しかし彼だけでなく、子供たちはみなすばらしい。長女を演じた子がなにかの拍子にあれは公園のベンチだったか、弟か妹の靴底の砂がついていたのだったか、立って行ったあとを、サッとその汚れを拭うような仕草をするところでは、ちょっと鳥肌が立つような感じがしました。つまりそれは監督が演技指導をして、弟か妹がどいたあとを拭きなさい、と指示してやったようには見えなかったからです。あれはもし監督の指導だとすれば過剰な演出です。あんなことはよほどしつけのいい家庭でごく当然のようにそうするように躾けられて、もうそれが自分の意識さえしないとっさの行動スタイルとして資質と一体になってしまっている場合にしか考えられない仕草で、ちょっとこの作品で想定されているような母親に育てられたああいう境遇の子ではありえない、言ってみればいいうちのお嬢さんの身に沁みついた自然な反射としての身のこなしだったからです。一瞬の何でもない動作のシーンですが、あの映像を残すのは作品としては小さな瑕疵になるところを監督が残したのは、子供としてのその反射的な行為が、子供の自然な「演技」のありようとしてそれ自体が私に強く印象づけられたように、一つの表現価値と感じられたからではないか、という気がします。
多かれ少なかれ、これに類した「自然な」子供たちの演技を引き出した監督や周囲のキャスト、スタッフたち全体が作り出していただろう作品づくりの磁場のようなものの水準をいたるところで感じることができる作品でした。
しかし、これをいま書いている二、三日前に東京目黒の5歳児が親に虐待され、事実上拷問と言っていい暴行を日常的に受けた末に餓死させられるという事件が起き、親の指示で毎朝4時に起こされて、一所懸命にその子が書いた平仮名の練習ノートに記された親への詫び状を読んで涙がとまりません。是枝監督はこの「誰も知らない」のような、あるいはおそらくは今度カンヌでパルムドールを獲得して日本でも上映された「万引き家族」でも、カンヌの審査委委員長が行ったようなinvisible people を描いてきたけれども、現実はさらにどうしようもなく絶望的で救いがない思わずにいられません。
もうパパとママにいわれなくてもしっかりとじぶんからきょうよりもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがい ゆるして ゆるしてください おねがいします
ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできなかったこと
これまでまいにちやってきたことをなおします
これまでどれだけあほみたいにあそんでいたか あそぶってあほみたいなことやめるので もうぜったいにぜったいやらないからね ぜったいぜったいやくそくします(朝日新聞6月7日朝刊より、亡くなった5歳の結愛ちゃんが書いたノートから)
こんな言葉に拮抗できる映像や小説の言葉を私たちはいつか持てるのでしょうか・・・
blog 2018/06/09