『ナラタージュ』
島本理生の『ナラタージュ』を読む。いい小説だ。
出版社はいま流行の純愛小説ブームに乗せて売ろうという魂胆かもしれないが、この着実に成長してきた若い作家の作品は、たしかに純愛小説ではあるけれど、それらの消耗品とは一線を画す、丁寧に書き込まれたしっかりした文体を持っている。
ただ、危惧はある。高校生や高校を出たばかりの女の子の視点から一回りも年上の男性への恋愛を描くとき、どんなに主人公が大人ぶっても見えない相手のずるさやしたたかさが、語り手や作者の視点からきちんと押さえられていないと、作品の世界そのものが未熟な少女の世界にとどまってしまう。
離婚していないことを黙っていた男の裏切りを描いても、少女の視点から描く限り、男の像は甘くなる。
もう一つ陥りやすい罠は、同年齢の友人たちとの、いかにもいまふうの若者らしいつきあいかたや会話が、ほんとうにその辺の若者が言いそうな言葉、やりとりであればあるほど、文体としては上滑りしていく危険だ。現実の若者どうしのやりとりであれば、気のきいた言葉としてその場を盛り上げ、面白い!といういまの若者の最高の褒め言葉が与えられるようなことであっても、作品の中では、読者をしらけさせ、うわすべりに滑っていく印象を与えることがある。
この二つの罠に対して、この作品は、ときどき危ないところはあるけれど、あやういバランスをとりながらきわどいところで踏みとどまり、なんとか終わりまで引っ張って行ったと思う。
ただ、どちらの罠からも自由ではなく、ときどき、主人公の少女が相手の男の孤独を語り、彼が自分を必要としていると語るとき、少女の認識の限界を感じることが同時に作品世界の限界を感じることと重なるように思えたり、友人とのやりとりの部分の通俗性が退屈に感じられたりするところはある。
しかしそれ以外では、登場人物たちのふるまいや感じ方が、微細に、丁寧に書き込まれていて、納得しながら引き込まれていく。
ところで、同じ年長の男性との「恋愛」(?)を女性の視点から描いた川上弘美の長編では、上記のような二つの罠を巧みな仕掛けで、鮮やかに免れている。
女性の年齢自体がもう一回り以上高く設定され、成熟した大人の視点が与えられている。と同時に、相手を高齢者に設定して飄々とした風のような透明な存在にして、全体をメルヘン的な語り口にしてしまう。
それにしても、この種の作品は、私の立場では学生に読め読めとは薦めにくい。もともと読書などというのは自分で手当たり次第に読んで、自分なりの読み筋を発見していけばいいと思っているので、こちらから薦めることはめったにないが、訊かれれば自分なりの感想は言う。
そのとき、これらの作品を薦めるのは、相手が小説を読みなれているかどうかを確かめてからでないと危ない。フィリップ・ロスの近作や谷崎の名作や、悪名高い(?)ナボコフの古典の名を簡単に口にしてはならない(笑)。
女性の側から描かれた作品はロマンチックなオブラートがかかっているけれど、これらの男性作家の作品は身も蓋もないところがある。かといって、作品としてできが悪いかといえば、そうではない。
世俗の取り上げ方がどんなに誤解に満ちたものであれ、谷崎もナボコフも古典の名にふさわしい。
母の世代は源氏物語のような古典でも、親に隠れて読んだらしい。そういえば、授業で近松の「曽根崎心中」を紹介して感想文を書かせたときも、「心中というようなことはよくないと思う」というふうな道徳的裁断を書いた学生が一人二人いた。
また、若い映像作家たちに来てもらって上映会をした中で、幼児虐待に反対するメッセージをこめたアニメや、人型の手足が人形のようにポロポロとれていく、私たちの普通の感覚に持続的な軽い異和感を与えながらハイスピードで展開していく短編アニメを見せたときも、「こういう残酷な映像は見たくありません」的な感想を書いた学生が何人かあった。
芸術作品に接し馴れない若い人に作品を紹介していると、しばしばこの種の硬い「道徳的」拒否反応に出会う。現実の人間関係の世界とは異なる、表現の世界だということを、そういう人に実感的に納得させるのはそう簡単ではない。
マグリットの「これはパイプではない」という絵を見せて、ここにフランス語でそう書いてあるのだけど、なぜこれはパイプではないの?と訊くと、一クラス数十人の受講生がいても、「だってそれはパイプじゃなくて、絵じゃないですか」というふうな応えが返って来ることはめったにない
人間は観念的なので、絵をみるより、ありもしない絵の向こう側を見てしまう。
そこに描かれたものと現実との固い結びつきを疑わず、それを媒介する作者の意図を疑わない。 考えてみると、これはとても恐ろしいことだ。
Blog 2005年04月28日
島本理生著「ナラタージュ」(2018年の再読時の感想)
島本理生の小説は、「リトル・バイ・リトル」を刊行当時読んだ記憶はありますが、それ以降たぶん1作も読んでおらず、「ナラタージュ」も評判だったので単行本を買ったものの、長いあいだ本棚の隅に置いたきり、なんとなく手に取る気になれずに来ました。たぶん最初の著作で、自分には性の合わない作家だと感じたからではなかったかと思います。
今度レンタルビデオ屋に映画化された作品がDVDで1週間レンタルってことで幾つも函が立っていて、しかもみな空っぽでレンタル中となっていたので、たぶん女優さんのせいだろうとは思いましたが(笑)、一度借りてみようか、と思ったので、映画で登場人物のイメージができてしまう前に文庫本になっている原作は読んでおきたいと思って、単行本のほうは売り払ってしまったのか、地下の段ボールの中に埋もれているのか、本棚に見つからないので、仕方なく文庫本を買ってきて昨日読んでみました。
読んでみて、やっぱり最初の自分の直観があたっていたのをあらためて確認する結果になりました。高校生ぐらいの若いときに何か文芸の賞をもらって、何度かメジャーな賞の候補にもなっている、すでに実力を認められた作家の、おそらくまだ若いときの作品でしょうから、いま読んであれこれ違和感を言うのもどうかとは思いますが、どこがひっかかるのかはメモしておきましょう。
これは高校を卒業してまだ間もない主人公工藤泉が、高校時代に想いを寄せていた三十代の男性教師との間で、実は教師のほうもその気があって卒業時に彼のほうからキスをするという積極的な踏み出しが一歩あった上で、演劇部の先輩として部員の足りない後輩たちのために芝居作りに参画してくれという要請があって、同期の友人たちとともに参加するうちにやけぽっくいに火がついて、教師のほうは教師だからというだけでなく、自分のせいで心身を病む妻がいる負い目もあって、泉を求めながらあからさまにはなれず、そのくせ間歇的にその抑えた恋情を噴出させて彼女にアクセスし、ほうっておけば離れられもする関係に縒りを戻してしまうし、他方泉のほうもそんな男に翻弄され、気持ちは一貫して変わらないが、現実にひとつになることは無理と考えて別れたままで自然に離れていこうともし、無理に同世代の男の子の思いに応えようともするけれど、そのたびに男の求めに引き寄せられて、自分の思いを吹っ切ることもできず、ずるずると行ったり来たりの関係を続ける・・・
そういう、ちょうど映画なら成瀬巳喜男が「浮雲」で描いてみせた、だらしない男と女の互いにもたれあい、ふっきることができずに、ずるずると関係をつづけて共に自壊していくような関係、そして小説なら岩野泡鳴が描くような同様の男女のずるずるの関係みたいな世界が描かれています。ただ、片方が大人っぽく背伸びはしていても、まだ高校生ちょっとプラスくらいの若いというか幼い子であること、教師と生徒という関係であることを、もっぱら女子高生の目で描いていくので、「純愛」であるかのようにみえるだけで、中身は弱くてずるい三十男と彼に憧れた女子高生の間の、ずるずるの関係に陥るパターンどおりのメロドラマです。
それは女子高生の目を通すことで美化され、理想化された、女子高生と教師の「恋愛」ですが、もしこれを客観的にみれば、あるいは実際には年齢相応の狡猾さも備えているかもしれない、しかし性格的には弱い三十代の家庭を持つ男性教師が、或る意味でその弱さを武器にして、背伸びしているけれども実際には精神的に幼い女性を夜光灯に吸い寄せられてくる蛾のようにとらえて、放してやるかにみえてなかなか放さずに糸をつけて、自分が必要なときには手繰り寄せ、ずるずると関係を続ける、そんな話になってしまうかもしれません。
女性のほうは、自分が実際にはまだ精神的に幼い、未熟な女性であることへの自覚もなく、もう冷めた大人だと思っているにすぎないのですが、そのことに作者自身が気付いていないようで、背伸びし、突っ張って見せるこの女性に同化してしまっているようなので、ヒロインは、身体的には成熟していても、精神的にはその幼い憧れの延長で、男を美化し、理想化する自分から脱皮できず、蜘蛛の網にかかった蝶のようにもがいて、網を破って脱出したいのか、したくなくて、むしろいっそ毒蜘蛛の毒にあてられて食われてしまいたいのか、自分でも定かでなくなっていく、そんなお話ですね(笑)。
もちろん片方はまだ女子高生だし、自分がさめた大人だと思っている彼女の目を通して描かれる世界なので、どんなに美化された男に描かれようと、大人になりきれない時期のありふれた初恋が純愛物語として理想化されようと一向にかまわないわけですが、書き手である作者がどこへ行ってしまったのか、この精神的にまだ幼い女子高生のまなざしと作者が一体になってしまえば、批評性を欠いたメロドラマになってしまうのは火を見るより明らかだろうと思います。
妻とは離婚もしていないことをこの自分がすでに関係を持った女子高生(プラス)に隠していたことが明らかになるあたりで、そういう男性の客観化ができるのかな、と思いましたが、それは果たされず、彼はあくまでも生徒思いの優しい先生で、彼女のことも純愛で愛しつづけていて、彼女のためを思って自分の愛情をあからさまにすることを抑えていただけということのようです。
教師として彼がいかに生徒思いだったかとか、優しかったか、ということが、ヒロインの口からだけではなく、本来ならそういうヒロインの幻想を別の視角から相対化すべき友人など周りの目からも、ヒロインと何もかわらない生徒思いの良い先生という賛辞が繰り返されます。そのような良き教師であることが事実だとしても、そのことと男としての女性との関係のありようとは全然別問題ですよ、と思わず作品の世界にもぐりこんで忠告してあげたい気がしますが(笑)、そういう良い先生だからヒロインに対しても絶対的な愛情をもちつづけていることになっています。
私なら、最後の最後で、この教師がいつまでもヒロインに自分がキスした彼女の高校卒業の日に撮ったツーショット写真を後生大事に持っていた、なんていう嘘っぽい話をもってくるのではなく、この教師があれから何年もたった今も、かつてのヒロインと同じ年頃の別の女子高生だったまだ若い卒業生と深い関係になっていて、奥さんはまた精神を病んで入院しているらしい、という話を、そのかわりに置いたでしょう。
映画がこういう原作に対峙して、原作にない批評性を具えた作品になっているか、単なるメロドラマに終わっているか、監督の力量が問われるところでしょう。
*追記
何年か前に一度読んで感想を書いていたようですが、読んだことも感想を書いたことも完全に失念していました。矛盾した感想を書いているかもしれません ^^; まぁいまの読後感は今の読後感(笑)、仕方ないでしょう。
blog 2018年6月