昨日書店に出ていた、ハルノ宵子さんの『隆明だもの』を買って来て一気に読んでしまいました。
前に読んだ『開店休業』や『猫だましい』もとても面白かったけれど、後者に関しては、著者が格闘中の病の描写など、凄絶な光景が或る種のブラックユーモアとでも言うべきシャープな、漆黒の笑いが行間から湧き上がってくるようで、「面白かった」という言葉を使うのは、無責任な一読者としても憚られるほどの凄みがありました。
今回も著者でなければ絶対に書けない吉本家の家族とそこに関わって来た周囲の人々にまつわるエピソード、吉本隆明さんを中心とする世界でしか起こり得なかったと思われる、様々な特異な出来事がユーモアを交えて語られていると同時に、それらの出来事を受け止め、やりすごしていく家族の側の凄絶なドラマが終始見え隠れしていて、本の帯に書かれている「薄氷を踏むような”家族”」の劇の主役である吉本隆明さんの生々しい姿が、肉親のリアルな、あまりにリアルな眼で容赦なくとらえられていることに、吉本ファンとしての興味本位のスケベ心で読み進めながら、正直のところ、いささか戦慄を覚えながら読了しました。
詩人にして思想家である隆明さんに対しても、父親としての彼に対しても、著者が深い敬意と感謝の気持を持っていることは、過去の著書からも十分窺えるし、今回も老いた父親のありのままの姿を容赦なく描き出してはいるけれど、そもそも娘としての父親への深い愛情なくして、こうした追憶の書をものすることはなかったでしょう。
そのことに疑いはないけれど、さすがに「そこまで書くか!」と、ところどころでタジタジとならざるを得なかったのは、たぶん著者の匙加減の誤りによるものではなくて、読者である私が吉本さんに抱いてきた幻想の分量によるのかもしれません。
あとがきにもあるように、この本の原稿を書きながら、それが「吉本主義者」の幻想を粉砕するだろうということは著者も意識していて、むしろ書いている時はそういう、かつての彼女(をはじめご家族)にとっては迷惑この上ない存在でしかなかっただろう「吉本ファンのおじさんたち」、いまや老いさらばえた「吉本主義者」に対するリベンジというのか、父・隆明さんに対してではなく、そういう厄介な連中に向けて、あえて「これでもか!これでもか!」と追い詰めるような気分のノリがあったのではないか(笑)と私などは勘ぐっているところです。
ただ、私個人は、世間で非吉本主義者が「吉本ファン」をからかい、嗤って言うような過大な「幻想」を吉本隆明さんに対して持っていたとは思っていなくて、思想家としてはやはりほかのいわゆる「思想家」などとは違って、格段に冴えた独創的なホンモノの思想家だったことは「幻想」ではなくて「事実」、いや正確に言えば「客観的に見て、正当な評価」だったと思っているし、彼が家庭人としてここに描かれたような人であったとしても、そのことは彼の思想性や人間性(思想家としての生き方)に対する評価をいささかも変えるものではないと思っています。
もちろん父親としての彼の時々の振る舞いや、考え方や、言葉には、私の常識的な家庭人としての感覚からは想像を絶するような奇妙奇天烈なところもあれば、とうてい同意できないところもあり、違和感をおぼえるところも多々あるけれど、そこに彼の思想や人間性(生き方)と矛盾するようなことは何ひとつないし、それこそ吉本さん自身が明確に切り分けてみせた、個人幻想(個人の思想等)と対幻想(家族との関係)とは別の次元の世界であって、ただ吉本隆明さんが家庭人として、父親としてはこういう人だったのだな、と受け止めるだけです。
著者もこの本の中のどこかでちょっと言及していたと思うけれど、吉本さん自身が、昔、高橋和巳が亡くなってから、高橋和巳夫人だった高橋たか子が、そのころ、かなり厳しい視線で、夫がこういう人で、「可哀想な人だった」、みたいな回顧の文章を公表していたことに触れて、対談か何かの中で、「自分が死んでから、配偶者にこういうことを書かれるというのは、高橋(和巳)さんもちょっとまずったんじゃないか」(正確に記憶していないので、別の言い方だったかもしれません)というふうなことを語っていたことがありました。
高橋和巳は政治的な主題をもった作品を次々に書いていたけれど、そういう配偶者との関係を含むいわば対幻想の世界については、漱石の晩年の諸作品のように正面から向き合うような作品は書いてこなかったと思います。漱石の言動を、「主人は少し頭がおかしくなりまして」というような理解でシャアシャアと回顧録を書いている漱石夫人のような配偶者をもち、そういう家庭生活を営んできたとすれば、作家ならばそれをも包括し、自身が生きたそんな世界の総体に作品の中で向き合うべきだった、ということでしょうか。
吉本さん自身は自分のそうした言葉どおり、人間のもつ幻想の三つの異なる次元の構造を明らかにする『共同幻想論』を書き上げ、さらにそれを拡張する試みをずっと継続していました。作家のように家族の似姿を作品の上に登場させて劇を構成することはなかったけれど、このハルノ宵子さんの著書の語るような家族の想いも言動もそうした関係のありようも、吉本さんが原理的に正面から取り組んできたことの中に確実に包括されていることは疑いようがありません。
おそらくハルノ宵子さんもそれがよく分かっているから、なにをどう書こうと、隆明さんが、「好きなように書けばいいさ」と言っている声を、心の奥深くで聞きながら書いていたに違いありません。
この本を読み始めて最初に面白いと思ったのは「党派ぎらい」という文章です。ハルノ宵子さんが小学生の頃、学校で「赤い羽根募金」の集金があり、それで寄付をして、胸に赤い羽根をつけて、子ども心にも何か良いことをした証のように誇らしい気持ちで帰宅し、両親に見せると、"二人とも「フフフン」と鼻で笑うだけ"(笑)だったというのです。
ハルノ宵子さんは、この時の両親の反応がずっと小骨のように引っ掛かっていて、この時から、皆で一斉に何かをやる時は、疑わなければいけないんだ、たとえ”良いこと”であっても・・・と刷り込まれたようだと書いています。
吉本さん(奥さんともども)の党派嫌い、同調圧力に対する生理的ともいえる激しい拒否反応は、ここまで徹底していたんだな、ととても興味深く思いました。
それは吉本隆明さん自身が戦争中に、内心でいやだな、と思いながら軍国主義的な勇ましい周囲の友人たちの空気に明確な拒否の態度を示せなかったことに対する内省とも、きっとはるかにつながっているでしょう。
また、戦後の勤め先の組合での労働運動で、既存政党に拠る党派的な組織に個々の組合員の意志を蹂躙されて苦い思いをし、そういう党派性と悪戦苦闘してきた経験にもつながり、さらにその後思想家として多くの論敵と激しい論戦を交わす中で、党派的、組織的に個人の思想を潰しにかかる連中と孤独な闘いを繰り広げてきた経験の際にも守り続けて来たことと一貫するものだったでしょう。
それにしても小学生の娘のささやかな募金にも、そうした「みんなで」の<うさん臭さ>を嗅ぎ取ってしまうというのは、或る意味、過剰・過敏なことで、それは晩年、認知症的な症状が現れたころに、娘が銀行の預金を共産党へ流している、といった途方もない妄想となって、自ら銀行へ確認に赴くという行動にまでつながっています。
こういうところを読むと、吉本さんがどうこう、というより、人間というのは本当に厄介な、吉本さん自身が言った「関係の絶対性」に囚われた<業>の深いものであると同時に、平生は理性や常識に覆われた日常的な姿の下にどんな得体の知れないものを潜ませているか分からない、実に不可解な存在だという思いを禁じ得ません。この本がここまで書くことによって、一人の父親の老いの姿を描いたにとどまらず、或る普遍的なものを感じさせ、考えさせるところがあるのは、そういうところにあるのでしょう。
「ヘールボッブ彗星の日々」という章に書かれた吉本さんと奥さんとの間の危機的な出来事も、そのきっかけとなった対談の記述がどういうものだったか、書かれていないし、私には(たいていの対談は読んでいると思うけれど)どの本のどういう記述だったか思い当たるところがなかったので、決定的なことは分からないけれど、多かれ少なかれ吉本さんと夫人との関係は、やはり本来なら二人とも物書きとなるべき資質をもった男女の間の宿命的な緊張を孕んだ、まさに本の帯のいうとおりの「薄氷を踏むような」夫婦としての面をもっていたのだな、ということがよく分かります。
しかし、考えてみれば、吉本さんがよく言っていたように、どこの夫婦の間にも、ふだんはおくびにもあらわすことがないようだけれど、そういう深い闇が潜んでいるのではないか、という気もします。であれば、ここに吉本家の特異な出来事のように描かれていることもまた、極端な様相を見せてはいても、夫婦の間にひそむ普遍的なものを示唆する姿にも見えてきます。
それにしても結婚の際に、「君も文学をやるつもりなら、結婚しない方がいいと思う」と隆明さんが奥さんに言ったというのには驚きました。
高村光太郎論を書いた人だし、ともに表現者の資質をもった男女の宿命的ともいえる修羅についてよくよく熟知した吉本さんだから、そういう確信をもって言ったのでしょうが、それはある意味で(個人幻想に関する限り)精神的に死ねというに等しい宣告にも聞こえます。その後の「薄氷を踏むような」夫婦の姿のかなりの部分が、この端緒のところに由来しているのではないか、という憶測を避けられないように感じながら読みました。
私の両親にあっても(父は物書きではなく、ありふれた中小企業勤めのサラリーマンでしたが)似たような契機が母のほうにあったので、それがその後の夫婦関係や母の生き方の姿勢みたいなものを決めていった部分が少なからずあったと私は考えています。
京都の俵屋に家族で宿泊されたときのことを書いた「Tの悲劇」も面白く読みました。
私も半世紀以上京都に住んでいるけれど、もともと「京都人」ではないし、半世紀たとうと一世紀、二世紀生きてここで暮らしても、たぶん「京都人」にはなれないので、こういう京都の特異性、明確な眼に見える強制力ではない強制力のようなものはよく分かります。私は俵屋も柊屋も泊まったことはありませんし、泊まろうとも思いません。
たまたま縁あって江戸時代から続く薬屋さんであった伝統的な町家「秦家住宅」の方と親しくしていただき、おうちの中へ入り込んで、紹介本を編集する役をしたことがありますが、最初はこの町家へ足を一歩踏み入れるのも怖かった(笑)。もちろん住んでいらっしゃる方はとても素敵なかたで、いつも温かく迎えて下さったのですが、その住まいの空間自体のたたずまいが、またお住いの方自身の凛としたありよう自体が、ふだんそういう世界から全く縁遠い生活空間の中にあるグータラな人間として、とても緊張を強いるところがあったのですね。そんなことを思い出しました。
「科学の子」では、父・隆明さんのことを、「父の本を読んでいると、つくづく『理系の文章だなぁ~』と、思う。」と書いています。「とにかく不親切なのだ。発達障害の理系のように、説明をすっ飛ばす。他人も当然周知のこととして話を進める。感覚も理解度も、学習レベルも、自分と同等とみなしている。そこ部分を遍く懇切丁寧に、人々に説明し広めるのが、(父の大嫌いな)”啓蒙”というヤツだから、わざと避けていると思われるかもしれないが、違う。天然だ。」・・・と手厳しい。
しかし、吉本隆明さんの「難解な」著作を眉寄せて読み解こうとしてきた「吉本ファン」にとっては、とてもよく分かりますね(笑)。吉本さんの敵たちからは、普通の語彙で言えるところをわざわざ独自の奇異な語彙を使って難しいことのように見せかけているとか、さっぱりわからないとか、それほど悪意のない評論家などからは、「特異なターミノロジー」などと言われてきた文章です。
それを「理系の文章」と言ったのはハルノ宵子さんが初めてかもしれません。そういえばそうかもしれません。「発達障害の理系」ではないにしても(笑)。
私がいま思いつく説明としては、まず第一に語彙のいわゆる「特異性」の問題ですが、吉本さん自身には言いたいことがあって、自身のうちでは具体的な形象としてその概念が自明のものとしてあるのだけれど、それを論理の普遍的な言葉で語ろうとするときに、既存の語彙では尽くせない、という思いがあって、独自の概念、独自の言葉を創り出さざるを得ない、という場合がありますね。
それがたとえば「自己表出・指示表出」だとか「関係の絶対性」だとかいう言葉。後者はのちにインタビュー記事などでは、「客観性(あるいは客観的な関係、客観的な構造)」などと言い代えられることがありますが、だからといって、それなら最初から「関係の絶対性」などという訳の判らない言葉で言わずに、「客観性」と言えばいいじゃないか、というものではありません。
「関係の絶対性」と言う言葉でしか言い表せない、あるいはこの言葉だからこそ、言いたかったことにピッタリはまる、という表出の意識があったからこそ、そういう言葉を使ったわけで、吉本さん流に言えば、「意味」が同じだからといって言葉の「価値」も同じではないわけです。
それが分からずに、吉本さんが、こう言い換えてもいいかもしれませんね、と会話の中で後日明かしたからといって、それなら最初からそう言えよ、と揚げ足をとって得意がっているのは、言葉というものがまるでわかっていない者だけです。
もうひとつはそうした「特異な」語彙をキーワードとして展開される論理の進め方から生じる「難解さ」でしょうか。
ハルノ宵子さんも触れているように、吉本さんはあることを論じていく場合にも、頭の悪い哲学者のように普通の意味で「論理」の筋をただ辿って説明的な論じ方をするのではなく、論じていることに関して自身のうちに直観的に把握された或る具体的な形象があって、それはいわば公理のような自明のこととして彼自身には確信されていて、これを普遍性のある論理の言葉に置き換えていくときにしばしば飛躍が生じたり、先にこうだ、と断定して進めていくので、その論理の進め方に、読者にとっては分かりにくい局面が生じる、ということです。
その点はハルノ宵子さんが指摘するように、吉本さんは説明的な論理で補って進めていく「親切」さはあまり持ち合わせていないので、飛躍があってもそのまま進めていき、先に断定した命題を別の言い方で(ただし説明的ではないので、最初の言い方と同様、直観的に理解できないと、理解しにくい)繰り返したりすることが多いように思います。
別の言い方で重ね塗りするような記述は、ある意味で吉本さんの親切心かもしれないのですが、二度目、三度目の重ね塗りも、最初の表現と似たりよったりの直観的、あるいは飛躍のある断定であることも多いので、繰り返されたからといって分かりよくなるとは限りません。
いずれにせよ、吉本さん自身にとっては何の不思議もなく、自分のうちにあって確信をもって直観的、形象的に把握している事柄を、できる限りわかりやすく普遍性のある論理の言葉で精一杯表現しているだけで、必然性のある言葉だけれど、他人である読者にとっては飛躍があったり吉本さん固有の「特異な」言葉であったりして、難解だ、という印象になってしまいがちだ、ということでしょう。
「悪いとこしか似ていない」に出て来るエピソードは既によく知られたものですが、あらためて当事者の一人から証言されてみると、一般的な「常識」からは驚愕するような吉本さんの「論理」に衝撃を受けます。
ハルノ宵子さんが京都にいた学生時代に、同じ下宿の友人がアルバイトしていた一乗寺(本文では「一条寺」とありますが誤植でしょう)のスパゲッティー屋に誘われて自分もアルバイトしようかと思って、「一応家に電話をかけて、お伺いを立てた」ところ、父・隆明さんはこうノタマワった、といいます。
「イヤ・・・キミ飲食店で働くということは、次に酒を出す店で働くということになる。そして次にはホステスなどの水商売になる。そこから体を売る商売までに、段階は無いのだ」!!
この話は以前に別の誰かが書いているのを読んだことがあり、そのとき誰だったか別の著名人が吉本さんの言を批判して、飲食店の店員と酒を出す店の店員とホステスなどの水商売の女性との間に段階は無いという吉本さんとは違って、庶民はそれらの間の差異にそれぞれのアイデンティティの拠り所を求めて生きているものだ、というようなことを言った、ということも同時に読んだ記憶があります。これは批判者のほうが正しい、とそのとき私も思ったものです。
吉本さんも人の親。遠くで一人下宿生活をしている愛娘がわずかでも危険な道に近付くことのないように、という気持ちが人一倍強いために、なにか屁理屈でも、もっともらしい「論理」を組立て、あたかも普遍的な論理であるかのように、説得材料にしようとしたがゆえの勇み足でしょうか。こういうときも形だけみると「論理」の体裁をとるところが、いかにも吉本さんらしいといえば吉本さんらしい。
ほかにも興味深く読ませてもらったところがいっぱいありました。
夏の海でのあやうく溺死するところであった例の事故の前後の話、それまでに毎年海へ行って、吉本さんのファンあるいはそれらのファンが連れて来る初対面のような人たちまで含めた大勢があつまってくる異様な光景、あるいはまた初対面の読者であっても、来客として迎える開放的な吉本家を遠慮なく訪れる無数の「吉本ファン」の人たち・・・どうみても傍から見れば非常識な人たちに見え、異様な光景に見えるのですが、本人たちはそうは思っていないのでしょう。
あるいは吉本さんの「遺品」を、どうぞと言われて遠慮なく、喜んで持ち帰るひとたち・・・・そこにはちょっとこの本の世界を離れて普通の私たちの平凡な日常と平凡な人間関係の世界に立ち戻って、あらためて眺めてみると、まことに異様な世界に見えるのですが、それは私の思い違いなのでしょうか。著名人(とその家族)というのは本当に凄まじく大変なものなんだなぁ、と思わずにはいられません。
そういえば、私が昔勤めていた会社の、東京分室の同僚も、かつて吉本さんに会わせてやるという知り合いに、吉本さんのお宅に連れていかれて、部屋に上げてもらってしばらくお喋りしたというようなことを言っていたことがありました。彼も別に「吉本ファン」なんかではなかったと思いますが・・・
私は「吉本ファン」を自任する者ですが、かりに東京で吉本さんのお宅から遠くないところに住んでいたとしても、お宅へお邪魔しようとは思わなかったでしょう。もともと親しい友人だとか知り合いで、招かれでもしたのであれば別ですが、会ったこともない人で、ただ著書を読んでファンである、というだけで、あれだけの仕事を自宅でしているような人の時間を奪いに自宅へ押しかけるようなことは、私にはとても考えられないからです。それは超有名な俳優の自宅へ、ファンだからというだけで押しかけて、相手が開放的でwelcomeな態度をとるのをよいことに、ずけずけと上がり込む図々しさと変わるところはないと思います。
ほかには、さきごろ亡くなった坂本龍一さんが、たしか吉本さんの最晩年、既に福島の原発事故が起きてからのことだったと思いますが、一人で吉本家を訪ねてきて、吉本さんが原発についてどうおっしゃっているかと訊いて、ハルノ宵子さんが相手をしてそれに応えると、また一人でトボトボと帰って行った、というエピソードも、とても印象に残りました。彼も「吉本ファン」の一人でしたからね。
村上一郎さんの横顔も近くで接した人ならではのものだし、私もよく見かけた、京都のいまは亡き三月書房の店主だった宍戸さん(アナキストだったと思いますが)の横顔なども、とても懐かしく、いいなぁと思って読ませてもらいました。
そして何よりも、著者・ハルノ宵子さんが、『猫だましい』に書かれたような病を克服されて(あるいは病と闘いながら?)、こんなにもユーモアに満ち、それがクールな家族の眼差しと同居する、非常に興味深い、そう言ってよければ「面白い」本をお書きになる健筆ぶりを発揮されていることに安堵し、これからのご健勝と益々のご活躍を祈念してエールを送りたいと思います。
前にも別の所で書いたことがありますが、ハルノ宵子さん、こと吉本長子(さわこ)さんは、京都で下宿しておられた学生時代に、父・吉本隆明さんに言われて、私の長男の誕生祝いを自宅まで持って来て下さったことがあります。
私が職場にいる昼間だったので、御目にかかることはできませんでしたが、パートナーが驚き、感激していました。きっとご自身が会ったこともない「吉本ファン」のおじさんの自宅を訪ねていくなんて、大いに気が進まなかったに違いないので(笑)、ほんとうに申し訳なかったと思いますが、こちらは憧れの銀幕のスターからいきなり直接手を伸ばして握手されたような不意打ちに驚き、感謝したことでした。
いただいたのは素朴な木の肌もあらわな、一枚板を幾通りかの擬人化された動物の形に刳りぬいた上で、それらの動物たちが汽車に乗って座っているように一列に嵌め込んだ玩具で、その後長い間、幼児期の長男が押したり引いたり齧ったり(笑)して遊ばせてもらったものです。いまも(少し欠けた部分などあったと思いますが)子供たちのメモリーボックスの中におさまっているはずです。
私たちはそれまで住んでいた街中のマンションでは子育てができない、と考えて、長男の誕生後1カ月くらいで、今住んでいる集合住宅(当時の公団住宅)へ引っ越してきたのですが、その際の転居通知を賀状を出すような相手に送りました。その折に、結婚して5年ほど生まれなかった初めての子が生まれた喜びを、近況報告もかねて、そのままワープロ打ちした転居通知の挨拶文の中に書いておいたのです。
そして、吉本さんが主宰する同人誌『試行』の購読者だったので、次号から新しい住所へ送ってもらうために転居通知を出した際に、ほかの人に送ったのと同じ文面のコピーを使って、そのあとに次号からこちらへ送ってくださいという言葉を添えた手紙を出しておいたわけです。
それを御覧になった吉本さん(あるいは吉本家のみなさん)が、じゃ、誕生祝を送ってやろうと考えて下さって、ちょうど京都の大学に通っておられた、のちの「ハルノ宵子」さんに、おまえなにかお祝いを買って持って行ってあげなさい、ということになったのだろうと推測しています。
私の方は、まさか一介の同人誌の読者にすぎない、会ったこともない私のところにそんな厚意を示していただくなんて思ってもいなかったので、自分があんな文面の私的なことを書いた手紙を転居通知として送ったために申し訳ないことをしたなぁと反省しましたが、それでも「吉本ファン」の私は、長男にとってはちょっとかけがえのない記念になるな、と内心大喜びしたことは申すまでもありません。
残念ながら長男は吉本さんの思想には関心がないようで、私とは違って「吉本ファン」にはなりませんでした(笑)が、おかげさまで元気に育ち、いまは東京の大学で研究に励み、教鞭をとっています。もはや昔の言い方で言えば彼も「中年」にさしかかったところですね。
2歳年下の次男も映画の仕事を続けて、ぴあのフェスティバルや多摩のコンペで監督として賞をもらったり、いまをときめく濱口竜介さんの『ハッピーアワー』や『悪人は存在しない』のスタッフとして整音など担当したりして実績を積んできました。そしていまやその長女が高校を卒業するまでになっています。ですから、もう私も思い残すことのない状態になりました。すべては夢のようです。
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