「シンセミア」(阿部和重)
きょうの強風で桜も無惨に散ってしまった。花発いて風雨多し(ハナニアラシノタトヘモアルゾ)、か。
束の間の休みも終わって新学期。長めの小説を一気読みできる贅沢も今日あたりで打ち止めかな、と思いながら、文庫本で5冊の阿部和重の『シンセミア』を読み終える。
実際に存在するらしい神町という東北の小さな町を仮構の舞台として、レンガを積むように丁寧に構築されたフィクション。
登場人物たちは、神町という閉じた世界で、互いに入り組んだ「顔の見える」濃い人間関係によって結ばれている。彼らの描きだす権力と暴力と性の描線が奔放に伸びてはぶつかりあい、絡み合って「事件」を引き起こし、物語を展開させていく。
町や個人の歴史をひきずった人間関係の濃さは、いまの都市的な希薄な人間関係とは対極にあるようにみえるけれど、それは世界をこの神町というフィクショナルな世界に凝縮したからで、方法的な帰結だろう。
いまわれわれが平凡な日常世界でふと我に返ったとき感じる不安、怯え、怒り、無力感等々の背後にあるものが、ここに顕在化されているとみれば、確かにここに描かれた歪んだ(ふつうには「異常」な)権力や暴力や性の姿に、それぞれの現在の形があるのだろうな、という気はする。
ただ、この作家の文体は、さきほど「レンガを積むように」と書いたけれど、ほんとうにそのように単純な作業単位を根気よく積み上げていくような文体で、緻密で構築的、客観的な印象を与えるけれども、欲を言うと色気に乏しい。
性描写がふんだんにあっても、文体そのものはちっともエロティックではない。一つ一つの素材を取ってみると、表情のある苔むす岩のようなものではなく、味も素っ気もないレンガやコンクリートブロックのようなものを、こつこつと積み上げて作る家のようなところがある。
これだけの長編を構築するために、自然にこのような文体が招きよせられたのだろうか。描写よりも「説明的な」文章が圧倒的に多いという印象を受ける。
語り手が新聞記事のように事件を語っていく。要するに、という読者の理解は容易だし、短時間で先へ進むことはできる。しかし、この文体の中からは、なかなか生きた人間が立ち上がってこない。
人物が分かりにくいのは、あながち登場人物の数が多いだけでも、また入り組んだ人間関係ゆえでもないと思う。名前や位置づけは説明的に与えられているけれども、それが言葉や振る舞いや心理描写によって、自然にしかるべきキャラクターを備えた人物が立ち上がってくる、というふうになりきれない。
読者に入り組んだ人間関係がおぼろげながら分かり、一人一人の人物の姿が見えてくるのは3巻目くらいになってからではないか。もっとも、読者の理解を助けるための登場人物一覧や人物相関図や年表やらが付いているのではあるが、やはり本文を読んで自然に分かるのがいいだろう。
それでも、ロリコンでスカトロマニアでもある警官(中山正)や、盗撮者サークルから抜けようとしてトラブルを引き起こす「パン屋」の後継者(田宮博徳)の視点に寄り添って描いていく部分は、その行動と心理の描写におけるこれらの人物のキャラクター造形が行き届いていて、血が通っている。
それにしても、最後にまとめて10人(?)も次々に殺してしまうのはいかがなものか。そう唐突にそれらの人物たちの始末をつけなくてもよかったのではないか。
Blog 2008年04月09日