「乱れる」(成瀬巳喜男監督)1964
ずいぶん昔、「浮雲」を見て、あまり好きになれそうもない気がして、高名なこの監督の映画はほとんど敬遠してきたようなところがあったのですが、この映画を観て驚いてしまいました。本当に素晴らしい作品で、こんなの撮る人だったら、いままで見なくて観客としてずいぶん損したなぁ、という感じです。
描かれている主人公である戦争未亡人礼子(高峰秀子)のキャラクターや考え方というのは時代的なものでいま見れば古臭いと思われるようなものだけれど、その時代背景のもとでこういうキャラクター、こういう考え方をもった女性がいたことを現実としてみれば、そういう女性を描き切った感のある映画だと思いました。
これは不倫映画でないことはもちろんだけれど、恋愛映画でもないようで、ある時代、ある状況の中で自分の生き方を貫いてきた女性が、義弟の告白によって生涯初めてゆらぐ、そのゆらぎに罰を受けるかのように義弟も死んでしまうわけですから、不倫も恋愛も成就しないわけで、作品の世界をひっぱっていくのは、義弟が告白してからの、同じ家に住む未亡人である兄嫁の彼女とその義弟がくっつくのかくっつかないのか(笑)その緊張感です。
したがって、告白してからの義弟はあっけらかんと一方的に自分の想いを投げかけていればいいだけの平板な存在にすぎなくなってしまうので、ドラマはもっぱら義弟のそういう自分への想いを知ってしまった礼子の内面の劇、居心地の悪さ、平静を装った立ち居振る舞いの内側での実際のぎこちなさみたいなものにあるわけで、これは終始、この女性の生き方、考え方、立ち居振る舞い、その心理のドラマなんだと思います。
異性としての義弟との関係は、従って恋情として描かれるよりも、彼女がその存在によって引寄せてしまいそうになるのを、意識的にとろうとする距離や素知らぬ風を装うその立ち居振る舞いの中にある意志的な斥力のようなものによって表現されています。
唯一「恋情」を感じさせるシーンが、彼女が家を出て郷里の兄のところへ身をよせようと旅に出ると彼女を追っかけて乗ってきた義弟とその列車の長旅を共にすることになるわけですが、ずっと義弟と距離をとり、拒んでいながら、自分への想いをストレートに示し、優しく振舞ういじらしい義弟が疲れて車中で眠っている表情を眺めていて、つい涙ぐむ、あのシーンです。このときの彼女の表情はほんとうに素晴らしくて、一緒に泣けてしまう(笑)。
列車でのシーンは全部すばらしくて、そのあとの展開にはちょっとびっくりしてしまいました。
彼女が突如次の駅でおりましょう、と言って二人で温泉のある小さな駅で降りて、温泉宿に泊まる。これはもうどうしたって、できてしまうだろう、と思い、夫を若くして亡くしながら、その夫の家のために身を粉にして働いて店を再建し、幼い次男や老母のいる家庭を女の腕一つで守ってきた女性が、逞しい青年に成長した義弟の純粋な愛情にほだされ、こころ「乱れて」、ついに古い倫理観から解き放たれて男女の愛に身を任せるに至る物語だと、誰だって思わないでしょうか(笑)。
ところが自分から途中下車して温泉宿に二人して泊まりながら、なおもいざとなると彼女は義弟を拒むのですね。そして彼は宿を飛び出して帰らず、翌朝、崖から落ちたという死体になって運ばれていく、それを彼女は宿の2階から目撃して、階下へ駆け下り、追って行く。
その途中、橋の手前でとまって、橋の向こうへ運ばれていく彼の遺体を見送る彼女の表情のアップで映画は終わります。こ、これは何だ!・・・と思いましたね。なんか物語としてこれは理不尽じゃないの?破綻してるんじゃないの?と。
でも考えてみれば、それまでにも、義弟に対してそういう距離をとろうとろうと自分をしばってきた彼女は繰り返し描かれているから、そういう倫理観を持っている古いタイプの女性、或る意味で頑ななところのある女性・・・そうでなければ十数年も未亡人として亡き夫の家を一人で支えてくるようなことはできなかったでしょうから・・・・ということを考えれば、あそこでいくら自分がいったんはエイヤッと跳んでみたものの、身も心もそう簡単に開けないところがあっても不思議ではないし、そういう揺れ動く女ごころを描くことに主眼があっても、本当に身も心も「乱れ」てしまうのはこの映画の作り手の本意じゃなかったんだな、と思って納得しようとはしたのですね。
それにしても男を殺してしまわなくてもいいだろうに、とは思いましたが・・・
だけど、この映画を観た後で、そういえばこの映画の分析を細かくやっていた本があったな、と思い出して、塩田明彦さんというご自身が映画監督でもある(そういえば「黄泉がえり」を見たなと思い出しますが)人の『映画術』という著書を取り出してみたら、やっぱりありました!
実はこの本は、私が近松の「曽根崎心中」が好きで、鴈治郎の歌舞伎と、栗崎碧監督で宮川一夫が撮影した人形浄瑠璃の映画と、増村保造の映画と、天満屋の場と道行とを対比させながら学生さんに喋っていたことがあって、曽根崎心中についての色んな資料を読んでいた時に、増村保造の映画での梶芽衣子の視線のありように触れた章があったので買ってその部分だけ読んで、なるほどなぁ、と感心した覚えがあって、あとのところはパラパラとめくっただけだったので、なんとなく成瀬のこの作品に触れたところもあったことは記憶の片隅に残っていたのです。
それで今回あらためてこの本の「乱れる」について書かれた部分を読んで(今回は全巻読みましたが・・・笑)、もうそこに書いてある分析に完全に参ったなこりゃ、という感じで、それ以上言うべきことがなくなってしまいました。
塩田さんによれば、映画を撮るうえで一番大事なのは「動線」であって、それがうまくいけば映画は半ば以上成功なんだというようなことなんですが、この「乱れる」という作品は、加山雄三演じる義弟が高峰秀子演じる未亡人の義姉礼子に告白する、つまり「超えてはならない一線を越えようとする」わけですが、この映画はその部分だけじゃなくて、そもそも全体がその「一線」に向けての話なんだ、というわけです。
溝口の「西鶴一代女」にもそれはあって、かの映画では冒頭でその「一線」が越えられてしまうけれど、成瀬のこの作品では、それよりはるかに用意周到に、「ここまでやるのか」と言うぐらい緻密に「境界線」「結界」のイメージが映画全体に張り巡らされている、と塩田さんは書いていて、それを場面に即して証拠立てています。たとえば冒頭でバーみたいなところで喧嘩した義弟のことで警察から店にかかってきた電話で、礼子が警察へ身柄を引き取りに行く場面では、「橋」がその「結界」の役割を担っている。それはまた、その前の店員から電話口に呼ばれた礼子が、台所から「渡り板」を渡ってからこちらへやってくる、その「渡り板」が一種の「橋」として同じ意味をもって反復されているっていうんですね。
それから義弟が礼子への想いを告白する決定的な場面では明暗二つの部屋が巧みに使われていて、その部屋の境界がさきにいう「境界線」になっている、と。塩田さんは非常に精細に高峰秀子と加山雄三の位置関係と動線を分析してきわめて説得的な議論をしているので、自分ではそこまで全然見ることができていなかった私でも、いちいちあぁそうだったな、そうだったなぁと納得せざるを得ない、みごとな分析になっていて、この「境界線」が彼らの動線ではっきり浮かび上がってくるところに、この決定的な場面の緊張感が生まれてくることを立証しています。
まだまだあるけれど、もうひとつだけ挙げれば、高峰秀子演じる礼子はふだんはラフな店員兼主婦としての前掛け姿なんかをしているわけですが、よそいきのときは和服姿です。
自然にそういうカジュアルとよそいきみたいに理解して観ていたら、塩田さんはそこを、彼女が「境界線」を意識したとき、つまり自分が義弟の兄の未亡人で、義弟を距離をとる、という自意識をもち、他者の目を意識して私は未亡人です、人妻だった女です、というときは和服であり、そうでないときはカジュアルな衣服も含めて洋装だというふうに言っているわけです。
そちらの理解のほうがいいのは、列車にのっていくとき、はじめはコートを着た彼女は洋装の風なんですが、義弟と向き合って必死に自分の感情を抑制しているときはコートを脱いで和服姿になるわけですね。そして、女優さんは着物を着た時と洋服を着たとき、それぞれそういう実感を自然にもつはずだ、と。このへんにも唸りましたね(笑)。
そんなふうに見ていくと、すばらしい列車でのシーンも、たしかに最初は礼子の近くの席があいてなくて遠い端っこのほうの咳に義弟は座るのですが、時がたつにつれてだんだん彼は近くの席に寄ってきて、ついには4人掛けの席の窓辺に向き合って二人だけで座るのです。これはもう露骨にこの映画は二人の距離の遠近から境界線を越える、越えない、ってことが主題の映画なんですよ、ということを示しているようなものですね。そういう目でしか見れなくなってしまった(笑)。
そして、列車の車内は最初は満員状態で、二人をとらえるカメラがほかにもいろんな乗客を同時にとらえていますが、だんだんと乗客の数も少なくなって、同じ画面の中にとらえられる人物の数が減ってきます。そして最後はとうとう二人だけで、ほかの乗客はカメラのフレームから見えなくなってしまいます。二人に、というのか二人の距離に、あるいは二人の間の境界線に、焦点が絞られてきます。
さらに恐るべきことには、或るウェブサイトでこの映画のことを分析した似たようなサイトがあって、どうやら映画関係者らしくて、映画の撮影技術のことなど教えている方らしいのですが、その方が書いているところでは、この映画は最初のほうは、近くにスーパーが立って、立ち行かなくなりそうな商店街が舞台なので、そこの色んな人々やらなにやら、恐ろしく多様な人々が画面の中にあふれかえっているわけです。それが映画の進行とともに、だんだん画面の中にあらわれる人物が減ってくる。焦点が礼子が切り盛りしてきた店に関わる姑や小姑やその夫のような狭い範囲に充てられるようになってきて、列車以後はそれも切り捨てられて二人だけになる。
そして恐ろしいことに、最後の最後はとうとう礼子一人になってしまう。その最後の最後の姿がラストシーンの、義弟の遺体を追う礼子のアップだ、と。
こういう映画を撮る監督って、ほんとうにおそろしいような人ですね。繊細細心であるばかりか、ものすごい粘りづよいというのかしつこい(笑)、細部まで徹底的に計算しつくして全体の構造の中に何重にも入れ子構造で同じ構造を作り込んでいくような偏屈な職人さんを思い浮かべてしまいます。
それにしても、そういうのを読み取ってしまう人というのもすごいなぁと感心します。そういう目でもう一度またそのうち見てみたい。きっとこういう作品は映画作りをする若い人にとっては何十遍も読み返す値打ちのあるテキストみたいな作品なのでしょう。
Blog 2018-9-28