『ドーン』(平野啓一郎 著)
面白かった!
ショパンやドラクロアの時代のパリを描いて教養小説的な装いの下に、芸術と人生をめぐる思想の相克を当時のパリに生きた作家のように自在に描いたかと思えば(『葬送』)、ネット社会の闇を背景とする犯罪小説の装いの下に現代日本の家族と社会を深く抉ってみせた(『決壊』)この作家が、今度は近未来のアメリカ、それも半分は火星に向かう宇宙船が舞台のSFベースに、謎を追う推理サスペンスの味をのせ、大統領選挙がらみの陰謀小説的な楽しみ方もできるという、サービス満点の作品を書き下ろした。
この作家の自在に時空を超えていく想像力の逞しさ、確かさには舌を巻く。『葬送』でも、小難しい芸術論が、ドストエフスキーの作品のように饒舌に、けれど読者を飽きさせることもなくたっぷり盛り込まれて、小説の中にふさわしい形でおさまっていることに感心したけれど、今回の作品では、その手の大芸術家や大知識人が登場しない。
そのかわりに、大統領や副大統領、NASAの幹部や宇宙飛行士といった、私などにはおよそそういう連中がふだんどんなことを考え、どんな言葉をかわしているのか見当もつかない、しかしいまの世の中でたしかに存在して、実際に力をふるい、それぞれの問題を抱えながら生きている、そういう人物たちのそれぞれが懐くであろう現実的な思想、彼らが語るであろう言葉、なるほどそういう態度をとるであろうと思われる態度、そういうものが少しの違和感もなく、それぞれの登場人物に割り振られ、誰もが生きて紙面から立ち上がってくる。
ここでは言葉がそれ自体でストーリーから自立してしまうかのような思想の長口舌としてではなくて、登場人物の立場や性格に応じて、しっかりと彼らが生きてきた数十年の人生を担う言葉として交わされる。
小説にしろ映画にしろ、「大統領の陰謀」ふうの内容を扱ったものを読んだり見たりすると、いつも私たちが悪口を言っている実物のほうがずっと迫力があって、なんだか嘘臭いと感じることが多い。巨悪には巨悪の迫力があるだろうし、権力者には権力の頂点目指して這い上がり、それを現に担っているだけの重みくらいはありそうなものだが、俳優の演じる大統領や、作品の中の大統領に、そんな迫力を感じさせてくれるのは少ない。
幾らなんでも大統領がそんなにアホではなかろうとか、NASAのボスがそんなことも知らないわけはなかろう、と思わせるようだったら、いくらストーリーが面白くてもシラケてしまうけれど、この作品に登場する人物には、一人もそういうアホがいない(笑)。
舞台が30年後だったか、近未来のSF的世界であるにもかかわらず、そういう嘘臭さを一度も感じないで読めた。読者が誰に加担し、思い入れを持って読んでいくにせよ、こちら側の人間も、あちら側の人間も、実に見事にそれだけのことはある、と感じさせてくれる。ひとことで言うと、それぞれ頭がいい(笑)。
敵役がアホだと面白い話にはならないものだが、敵役ではないにしろ、人生観や世界観の異なる人々が、みなそれぞれ自分の人生を担い、必然性を担った言葉を吐くこの作品は、登場人物たちの言葉のやりとりに、竹光ではなくて、真剣で切り結ぶ迫力があり、火花が散り、鋼が噛み合って硬質な音を発する趣がある。
近未来の社会の様相についても、本当にその社会に生きて見たり聞いたりして書いたかのように、細部が実に丹念に仕上げられていて、SFによくあるようなマッピングの粗いツルツルの壁面で構成されたバーチャルワールドを見せられてシラケるようなことがない。
例えば、大統領候補ネイラーの「普通の人」ゆえの魅力についても、実に繊細に説得力のある仕方で描かれて、よく伝わってくる。
最初は精彩を欠くように見えたリリアンでさえ、両親にくってかかる場面では、父親、母親、姉(妹?)と自分の関係を鮮やかに分析してみせる、その分析の鋭利さは見事なものだ。
明日人(アストー)の妻今日子が、横たわるリリアンの手を握って真心込めて労わる夫の映像を見て急に心細くなり、「自分は彼の中の一番つまらないディブとだけ、これまで長い時間を過ごしてきたのではという思いを禁じ得なくなっていた。」というあたりの心理の動きなども、実に繊細にとらえられていて納得させられる。
近未来社会の描き方の中で、ものすごく面白かったのが、「散影」や「ディヴィジュアル(分人)」という作者の創りだしたアイディアだ。
「散影」は、現在でもいたるところで監視カメラが置かれて、犯罪の抑止や犯罪者の逮捕に良いとか、プライバシーの侵害だとか、色々と問題になっているけれども、巷に溢れるこの監視カメラをインテグレイトしてウェブ上にのせ、既に現在でも技術的には可能になっている映像検索で、瞬時にして特定の人物の映像を世界中から集めることができる、というシステム。
この「散影」のほうから見ると逆に、現在の裁判などで人の生命をさえ左右しかねない「目撃者の証言」などというのは、不確か極まりないものになる、というあたりも実に面白い。
「記憶みたいに不確かな記憶装置は、最早誰も信用していない。しかもその再生は、言葉で語るという原始的な方法なのだから!」・・・こんな一節を読むと思わず笑ってしまう。細部でも楽しませてくれる作品だ。
グーグルのストリートヴューをみて本当に情報化社会の恐ろしさを感じたことがあるけれども、作者はそういう万人が万人を監視し、追尾できるような世界を現在の延長上に巧みに描いて、非常にリアリティのある近未来社会を創り出している。
「ディヴィジュアル」というのは、「インディヴィジュアル」という一つに統合された人格として見られた個人ではなくて、相手により、関係性により、いわばTPOに応じて、自分が分身的人格を作りながら他者と関わり、あるいは状況に関わっていく、その一つ一つの分身的人格を呼ぶ言葉。
現在でも私たちは多かれ少なかれ分裂症的傾向を持って、時と場合により、また相手によって、様々な自分を使い分け、演じている、と感じ、またそういうことは誰もがよく言うことだけれど、この作品で面白いのは、それがもう実体的な「分人」というものにまでなって、誰もがそれぞれ幾つもの「ディヴィジュアル(ディヴ)」を持ち、もはや無理にそれを統合して「個人」であろうと悪あがきしたり、それが難しいからといって悩んだりせずに、ごく当たり前のこととして、いくつかの分人を共存させ、「わたし」はただそれらの「ディヴ」を調整し、世界と折り合いがつくような「ディヴ」をうまく育てようとするだけだ、といった光景が描かれる。こういうところにはほとほと感心してしまう。
さらに、本筋の登場人物ではないが、プラネットの代表について触れた一節で、「国家を解体するという二十世紀後半的な思考を完全に過去のものにして、むしろその管理機能を有効活用し、活動領域のレイヤーとして維持することで、システムの水平的な多様性を損なわないようにしつつ、その上から<無領土国家>という非領土的な枠組みを何層にもわたって重ねていくことで、国籍に基づく個人のアイデンティティを相対化する」思想を生み出した、というようなさりげない紹介をしている一節などを読むと、単にウェブ社会に対してありきたりの反体制派を対置するような古典的な勧善懲悪型SFとは違って、こうしてチョイ役のように登場する一つの組織体の生みの親の紹介についても、実によく考えられていて、作者の描いてみせるこの種の近未来像から、逆に私たちがいまその中で生きている現代社会の歪み、偏り、思い込み等々が鮮やかに見えてくるような気がする。
2009年07月21日