「ユリイカ」(青山真治監督・脚本)2000年
映画作りを志す若い人たちがその背中を見て追っかける日本の映画監督というと、黒沢清監督とこの青山真治監督らしい、というのが、もともと映画づくりとは何の関係もなく、若いころからの映画好きでもなく、メジャーな映画館に配給されてやたら評判になったような映画を人に遅れてたまに見にいく程度の、どちらかと言えば「あんまり映画をみない、ふつうのサラリーマン」といった感じの私などでも、ときどき面白いと思った映画のことが載っている雑誌や映画よりは幾分親しい文芸のほうの雑誌など目にしている中で、自然に感じてきたことでした。
でも面白いことに二人の作品は両方とも映画館に足を運んでみたことはたぶん一度もなく、レンタルビデオ屋や始終いくのに、結果的に考えるとなんとなく敬遠していたみたいで、これもたぶん見ていないと思います。「たぶん」というのは、私は何度もこのブログで書いてきたように、若いときから恐ろしく記憶力が悪くて、一度借りて来てみた映画でも見た端から忘れて、しばらくすると借りたこと自体を忘れてまた借りて来ては「あなたこれ前に借りて来たじゃない!」とパートナーに言われては、そうだったっけ、ともう一度見てもかなり後半まで見ないと思い出さなかったり(笑)というのがよくあるので、自分でも絶対に見てない!という自信がないのです。先日などは、観た上にこのブログに感想まで書いた映画を、まだ見てないと思って借りて来て、呆れられたほどです。自慢じゃないけど(笑)
そんなわけで、自信はないけれど、この若い人の間では超有名な作品も、私は見ていなかったはずで、今回217分という長編を見て、あぁこれはやっぱりもっと早く見ておきたかったな、と思った次第です。すばらしい作品でした。
きっともう、ものすごい賛辞と、綿密な研究なり批評なり、感想なりが書かれて、山のように積まれているでしょうから、いまさらただ一度いまごろになって初めて見た私が付け加えることがあろうはずもありません。ただ、忘れっぽいから(笑)観たぞ、というのを自分の手控えとしてメモだけしておくことにします。
まずなんだか田舎の空き地みたいなところにバスがとまっていて、いきなり男が飛び出して走り出すのをパンパーン!と銃声が響いて男が倒れ、血の付いた手がうつされる、衝撃的な場面から始まります。バスの車内では拳銃を手にした背広のサラリーマン風の若い男がもう一方の手にケータイもって乗客の方を向いて「警察って何番だっけ?」とふつうに番号を訊くみたいにきいています。返事がないけれども「あ、思い出した」とか「あ、わかった」とか一人で言って彼は電話をかけて、なんか仕事の電話をかけるみたいに、ふつうにしゃべっています。もうこの冒頭から観る者は現場にひきこまれちゃいますね。この犯人を演じているの、たしかやっぱり映画監督で、よく、ひとの色んな映画に出てる人ですけど、ほんとにいまどきいそうな犯人ぴったりの人(笑)。あんまり自然態なんで笑ってしまうほどです。
いちいち書いていると何十ページにもなりそうだから端折りますが、このバスに乗っていて、殺されずに生き残った、役所広司演じる運転手の沢井真(まこと)が主人公で、ほぼ同格の主人公があと二人の生き残り、中学生の兄直樹と妹梢で、これは宮崎将と宮崎あおいが演じています。この二人はオーディションで監督も兄妹とは知らずに採用して、あとで兄妹だと分かったんだそうで、このときあおいは14歳だそうです。先走って言っちゃうと、この宮崎あおいが素晴らしい。のちのちの演技派女優というのはこんな年齢で、まだ演技なんてほとんど経験もなくトレーニングを受けてもいないと思いますが、その存在自体でおのずと輝いてしまうものなのか、不思議な気がするほどです。
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「罪と罰」や「異邦人」がまず殺しから始まるように、この映画の物語もまず事件が起きてしまったことから始まるわけです。でも「罪と罰」や「異邦人」と違うのは、殺した犯人はさっさとその現場で警官に撃たれて殺されてしまうので、カメラが向けられるのは、被害者の生き残りである、真やこの兄妹なのです。そうすると必然的に、冒頭の事件がこの3人にどんな影を落とし、どんな深手を負わせたか、ということと、そこから彼らがどう回復していくのか、あるいはほんとに回復していけるのか、そういういわば再生の物語になってきます。
こういう枠組みというのは、おそらく小説でも映画でも、それほど珍しいものではないと思います。私もすぐには出てこないけれど、そういうストーリーには何度か触れたことがあるような気がします。けれども、これも先走って言ってしまえば、この映画ほど丁寧に、微細に、延々と時間をかけて、その深手を負った一人一人の状態を描きだし、その回復までの過程をたどってみせた映画というのはなかったと思います。それはもう空前絶後じゃないか(笑)。しかもそれで退屈しないというのは・・・
途中から、この映画がそういう深手を負った人間の回復にいたるまでの物語だな、というのはもう疑う余地もなくなり、しかもきっとこの少女梢が言葉を発するときに物語がようやく終わるのだろうな、と確信するようになりますが、そこまでの道のりの長いこと。ようやくそのラストにたどりついたときは、一人の人間の心が深手を負ったとき、そこから回復にいたるまでには、こんなにも長い旅が必要なのか、こんなにも辛い時間が必要なのか、と深いため息が出るような感じでした。
この映画の中に色んなことが入ってきていますが、その一つは、日本的というのか、閉じた村的な精神風土というのか、そういうローカル的な意味合いはないのかもしれず、人間の共同体的な精神風土というのはつねにそういうものなのかもしれませんが、犯罪の加害者ではなく被害者であるにも関わらず、世間の目は同情的に見えて(たしかにそういう面もなくはないけれど)、実は好奇の目で見ていて、顕在的でないだけによけいに陰湿な悪意にも似て、実際上はむしろ心に深手を負った者のその傷口に塩を塗るような、目に見えないが突き刺さってくる矢のようなところがあるということです。
直接の因果関係とかいうのではないかもしれませんが、そういう背景の中で、事件後、兄弟は残された自宅に閉じこもって学校にも行かず、口もきけなくなって、あとで真が唐突にここに置いてくれないか、と訪ねていったときに分かるのですが、家の中は散らかり放題、食器も食べた後そのままで、ごみの山、ほとんど何かをする、生きる、という意欲そのものを喪失した二人の無気力状態が描かれています。
そういうのをあらわす見事なシーンとして、最初に真が訪れて、自分はもうほかに行き場所がないので、ここへ置いてくれないか、と言うとき、玄関へ出て来てその言葉を並んで聞く二人の表情。これは後日、彼らの従兄だという秋彦が初めて訪れた時も、全く同じ表情なのですが、ただそこに茫然として突っ立っていて、こちらの言葉が分かっているのか、了承しているのか拒否しているのかも不明、なんの反応もしない、意識の飛んでしまった人のように、そこにただ存在している、という、その姿、表情が映画が終わっても心に焼きついているほど強い印象的な映像です。これが解きほぐされていくのは、命のない人形が生命を獲得するくらい難しそうだな、というのを、その二人の姿が自然にみせています。
こういう魂が飛んでしまったみたいな兄妹のところへ、自分もかつての自分のままでいられず、妻を置き去りにして「家出してきた」真(まこと)が、「ここへ置いてくれないか」、と唐突に兄妹のところへ転がり込み、さらに「きみたちの従兄だ」という秋彦が入り込んでくることで、物語に推進力が生じて少しずつ動いていきます。
まだ真が兄夫婦の家に居候しているときのことですが、真が幼馴染?のシゲルの彼女らしい女性が職場を訪れたときに、シゲルが不在で、夜道を送ってくれと言われて送り、彼女のアパートの前で別れるとき、彼女が彼にキスをします。
なんでもない動作で彼も戸惑い反応はしないけれど、後で起きることの伏線になっているし、その場面を見られたわけではないけれど、二人一緒に帰るところを村人が見たらしくて、兄が真にそのことを告げて、「そうでなくてもいろいろ物騒なことが起きていて、おまえがやったんじゃないかとか犯人じゃないかと噂されたりしているんだから、夜中に女と二人で歩くなんてことせずに、もっと慎重にふるまえ」というような説教をします。
夜中じゃなくてまだ8時ころだったんだし、と兄嫁はかばいますが、娘までが迷惑を蒙りはしないか、と恐れていることは伝わってきます。
そんなこともあって、真は突然同じバスジャックの被害者というだけで知り合いでも何でもない兄妹のところへ、一緒に置いてくれ、と頼みにいって3人の不思議な共同生活が始まります。そのあと3人が食卓で真のつくる料理を食べているシーンでは、それまで散らかり放題のごみの山だった家の中が綺麗になっていることが分かります。
ずっと後のことですが、真が置き去りにしてきた妻が真に会いにくる場面があり(この妻を演じた女優さんも素敵でした)、そのときに真は、「他人のためだけに生きることってできるんだろうか」という言葉をつぶやきます。それは、それからの真の生き方そのものであり、彼にとって生きる目的はただひとつ、兄妹を彼らが負った深手から回復させることになります。
そうして職場の土木作業の現場でクレーンで土を掘り起こす車の運転を指導された真は、バスの運転手だったこともあって、なにか動かしたい、という欲求が甦ってきて、そこから或る日彼がバスを購入してきて、兄妹に一緒に旅に出ようと誘うことにつながります。
共同生活をしていた兄妹の従兄の秋彦は「何を唐突に」と拒み、兄もそっぽを向きかけるけれど、そのときまでに辛うじて真と心を通わせていた妹梢はバスに乗り込み、それをみて兄直樹もバスに乗り込んで、結局秋彦も乗り込んで同行することになります。
真と妹とのそこまでの微妙な心の通わせ方も、繊細に、みごとにとらえられています。
シゲルの恋人らしかった女性が、真が2度目に彼女に乞われて自転車で送っていったあとで何者かに殺される事件が起き、真が重要参考人としてこの映画の冒頭の銃撃戦で犯人を射殺した刑事に取り調べられ、真が犯人だと信じているとその刑事に言われます。
留置場で隣との壁をノックして反応が返ってくる、そういうコミュニケーションの仕方があとで直樹や梢と彼とのコミュニケーションにも登場します。
真は容疑者にはされるものの、しかしおそらくは証拠不十分で釈放され、また兄妹の家に戻ってきます。秋彦は彼を最低だと非難しますが、拒否はせずに、もとのように共同生活に戻ります。
このあたりから、兄の秋彦に或る微妙な変化が起きているのが観客にもわかります。秋彦が庭でゴルフの練習をしてスティックを風音を鳴らして振っている、その音にベッドの直樹は神経質に耳を塞いで、たまらない表情をしています。
また、カーテンをあけて外を見ている梢の耳に、直樹らしい声がかぶさって聞こえます。「見えるか、梢・・・波じゃ」と繰り返しているようです。(波のところはよく聞こえなかったので、間違っているかもしれないけど・・・)
そして、次は直樹が(たぶん)ナイフで、丈高く伸びた草叢の草を切るソーンで、草の茎の先端から白い駅が溢れ出る印象的な場面があります。このとき梢は風に揺れるカーテンの間に立って外を見ています。
これらのシーンが確実に直樹の或る変化を示していて、それを梢が知っている、あるいは「感じている」ことが観客のわたしたちにも伝わってきます。
置き去りにしてきた妻と会ったあと、真は泥酔して帰って倒れ、秋彦が彼を引きずって寝かせます。真は完全に打ちのめされて縮こまって横たわり、実は声もなく泣いているのですが、この真の傍らに梢が座って、彼の髪をなでてやっています。すばらしい場面です。真の「人のためだけに生きることはできるだろうか」というありようを梢は次第に感じ取って、彼にわずかであっても心を開き始めていることが自然にわかります。
真がバスを買ってきて、試しに走らせる場面はこの作品では珍しく明るい場面で、ブーッとクラクションを鳴らして発車。それまで耳にした記憶のないバックグラウンドミュージックが、たぶん初めて、大きな音量で聞こえます。
バスの旅に出て最初は映画の冒頭のバスジャック事件の現場にいき、真は「ここからが出発たい」と言います。真と兄妹にとって、ここが再生への再出発のスタート地点というわけです。
じゃ従兄の秋彦は何かと言えば、もちろん狂言回しなわけですが、もしこの人が居なくて主要人物が3人だけだとすれば、この映画は3人の半ば夢遊病者みたいな人物たちが、何か観る者にはよくわからない、そして自分たち自身も何をしているかわからないような行動をとっているだけ、みたいな世界になっていたと思います。
秋彦は、真や直樹、梢が、心にあまりにも深い傷を負ってそこから回復へ向けての長い痛々しくもある道のりを、自分たち自身も何をしているのか分からないような霧の中を手探りで懸命に歩いていくような歩みの中で、唯一覚めた外部の眼なのだと思います。
それは周囲の人々のように攻撃的でも陰湿でもなくどちらかと言えば善意の好意的なまなざしではあるけれども、別の言い方をすれば、好意と言うより「おせっかい」で押しつけがましい、凡庸で全然「わかっていない」視線、姿勢でしかないような外部であり、兄妹や真にとっては、強引に入り込んできて、3人の深手の深さに本当には気づかない鈍感さゆえに、救われるところもあるけれども、逆にどうしようもない異和でしかない存在です。それはこの映画を観ている私たち観客に最も近い存在だと言ってもいいでしょう。
直樹の変化はいよいよ露わになってきます。バスの車内で寝ている彼らにあたっている光の部分に樹の葉がつくる黒い影が、光を部分的に遮って揺れ動き、なにか不安なというか不吉な印象を与える場面で、真は留置場でやったようにコツコツとバスの内壁をノックします。これに直樹が応えてコツコツと返す場面が印象的です。
食餌に立ち寄って高菜飯や蛸汁定食をとるレストランで、直樹が突然立ち上がって駆けて行き、嘔吐する場面があります。バスに酔ったということですが、直樹と心の状態についてある種の伏線になっています。
それからほどなく、直樹がバスから消えて、真と秋彦が探す場面があります。結局探したあげくバスに戻ると、直樹は戻っていて寝ていた、ということでその場は終わるけれど、直樹がまたいなくなって探しに出る場面で、秋彦は、このところ頻繁に起きている殺人事件に関して、直樹か真が犯人だと自分は思っている、もう真のことも信用できない、と言います。映画をここまで見ていて色んな伏線でそういう予感がしている私たち観客の想いを秋彦が明瞭な言葉にしているわけです。
秋彦を残して一人で直樹を探しに出かけた真は、直樹が通りがかりの女性を襲う寸前に遭遇します。「どうして殺したらいけんとや」と、このときはじめて直樹は言葉を発します。
彼が突き出すナイフを素手で握ってうけとめ、真は「殺すなら一番たいせつな者を殺せばいい」と言い、「いまから一緒に梢を殺しに行こう」と言って、近くにあった自転車の荷台に強引に直樹をのせて広場をぐるぐると回りはじめ、「ぐるぐるとここで回っとくか、バスに帰って梢を殺すか、3周まわるまでに決めろ」と言います。
直樹は、「ここでぐるぐる回っとく」と小さな苦し気な声で答え、真は直樹を乗せたまま、ぐるぐると回り続けます。ここも素晴らしいシーンです。
次のシーンはこの2人が歩くシーン。「直樹、一つだけ約束してくれ。生きろとは言わん。ばってん、死なんでくれ。また会おう。迎えに来るけん。」・・・うなづく直樹。そして警察署へ入っていきます。
真がバスへ戻ってくると、秋彦がバスの外でしゃがんでいて、梢が泣いていて、バスへ入れない、と言います。真は、「梢は言葉では言わなくても知っている」と言って、留置場でやったように、バスの車体を外からコツコツとノックします。
そうするとコツコツと梢の応答があり、真はバスの中へ入っていきます。この場面のコツコツは留置場の隣人、直樹、ときて梢で3度目です。こういう小さなエピソードがつながって、人と人とのささやかなつながりが徐々に取り戻されていく予感が観客にも自然に感じられます。兄直樹と一心同体のようにつながっている梢はとうに兄のことがわかっていたんだ、ということ、それを真もかなり以前からわかっていた、そしてようやくこのあたりで秋彦も気づき、私たち観客の目にもそれが事実としてつきつけられるわけです。
心の傷が深いほど、同じ傷を負った者を理解し、感じるのも早いわけで、私たち観客は一番鈍感な、ふつうの人、秋彦とともに最後に真相を知ることになり、そこから遡って、あのとき何が起きていたのか、そしてなぜ梢や真があんなふうな表情をしたり振る舞いをしていたのかを知ることになります。
このような心の深手が一人一人の心に広げた波紋がどう広がり、またどうそれを鎮めていくか、そのプロセスにおけるそれぞれの感じ方、振る舞いかた、他者とのかかわり方をどう微妙に変えていくかに関しては、実に精確にとらえられ、その傷ついた心の自然に即して繊細な手つきで描かれています。
阿蘇の噴煙(蒸気)が立ち込める火口を眺める真、梢、秋彦はその阿蘇の広大な風景の中をバスで走ります。秋彦がここで、まったく鈍感な何もわかっていない外部の人間としての姿をポロっとさらけ出して、「あいつはもう一生刑務所か・・なんだろうか。可哀相だけど一線を越えたやつは(仕方ないだろうな)・・・しかしそのほうが直樹も幸せかもね」みたいなことを言います。
これを聴いた真はただちにバスを止め、「おりろ!」と言って秋彦をバスから降ろして彼の荷物を車外にほうりなげ、秋彦を殴りつけて、「いつか直樹が帰ってきたら必ず元の直樹に戻す。そのときお前のようなやつがいたら(その妨げになるだけだ)・・自分は死んでも直樹を守る」、という意味のことを言って、置き去りにして去っていきます。
死んでも、というのは、ずっと以前から真は咳をしていて、それがどんどんひどくなって、胸を病んでいることは明らかで、おそらくそれは結核か癌か、死に至る病のように秋彦にも観客にも理解されているからです。
梢の耳に、直樹のものらしい声が聞こえてきます。「梢‥見えるか」・・・「海じゃ、梢。海を見に行け」・・・「お前の目から俺の目に海を映してくれ」。
バスは海辺へ行きます。咳がひどく、しゃがみこむ真。その眼には波打ち際に立って動いている梢の姿がややおぼろげに見えています。水の中へ入っていく梢の声でナレーション「お兄ちゃん、見える?梢、海が見えるよ・・・」
再びバス。ふとんの中で眠っている梢。外にいる真の咳。電話をかける真。「森山美容室です」という女の声に、なにも言わずに切ってしまう真。バスを出す。窓の外の景色は真っ暗なこれは海でしょうか。そこに浮かぶ無数の光は、灯籠流しの灯籠の火のように見えます。
ふとんに伏せた姿勢で二枚貝の殻を並べる梢。真は咳だけが聞こえてきます。
ラストシーンは、高台に大きな碑が二つ立っている場所で、バスを降りた二人。真は咳込み、手にしたハンカチが喀血で黒く染まります。夜ではあったけれど、いま思えばあれは赤くなかったな(笑)。あの場面は・・・いやほかの場面もこの映画、モノクロあるいはモノクロ的な映像で撮られているのがはっきりしているところがありました。ネットの資料を見ると、どうやらモノクロでとって、それを逆にカラーにするみたいな技術があるらしくて、そういう方法で作られた映画らしい。
技術のことは知らないし、映画を観終わって、カラーだったかモノクロだったかもしばらくたつと分からなくなるようなありさまだから(笑)なにも言えないけれど、きっとこの映画はそういうモノクロ的効果を持つ映像が要所要所で私たち観客に喚起するエモーションに独特の効果を与えているのでしょう。
崖の上に立った梢が突然、「お父さん!」と叫んで石を一つ投げ、つづいて「お母さん!」でまた一つ。「犯人の人!」「お兄ちゃん!」「秋彦君!」「沢井さん!」「梢!」と叫んでは石を抛ります。梢が初めて発語する場面です。
「梢、帰ろう」と真。振り向く梢の表情のクローズアップ。そして手前に草原、向こうには崖があってその間の道を、碑のある高台のほうから歩いてバスのほうへ戻っていく真、そして梢。二人を高い位置からとらえる映像が空高くの視点から阿蘇の一帯の風景を映して、EUREKA のタイトルが出て幕です。
いや、つい長々、こまごまとなぞってしまいましたが、つい昨日見たのを思い出しながら書いていても、そのときの感動が甦ってくるようで、楽しかった。実際にはでたらめに思い出す場面を書いていっているので、映画に登場する場面を逐次的にたどったわけではありませんから、前後逆になっていたり、大きくとんでいたりします。無意識に私の印象に強く残った場面だけを拾っていることと思います。
ラストで梢が初めて口をきく場面、身近な関わってきた人の名をひとつひとつ叫んでは小石を投げるシーンは、或る意味でこんなふうに終わるだろうと思い、物語の終着点まできたな、と予想どおりだと思いながらも感動してしまいます。
とうとうここまでたどりついたか、本当にしんどい、きつい、長い旅だったな、という実感とともに、です。たしか「心の旅路」という古いメロドラマだけれど、すごくいい映画がありましたが、この「ユリイカ」はまさに深手を負った三人の「心の旅路」ですね。古い「心の旅路」のような予定調和のハッピーエンドはないけれど、ここまできつい旅路をたどらずには、わずかな回復の希望にさえ至ることはできないんだな、というそれこそ厳しい現実のリアリティを存分に味合わせてくれた上で感動的なラストに至る、すばらしい作品でした。
Blog 2018-9-28