島本理生『ファーストラヴ』
今回、この作家が直木賞を受賞したと聞いたとき、ちょっと意外な感じがしたのは、力量のある作家だということは以前に読んだ作品で知っていたのですが、作品の傾向からするといわゆる純文学系の芥川賞だろうと思っていたからです。
そんな区別はどうでもいいと言えばどうでもいいのですが、漠然とした区分けでは、直木賞はもう幾つかの十分に読者を楽しませる作品を書いて何を書いてもプロの物書きとして、一定の水準で書ける安定した語りの「芸」の力を備え、読者をカタルシスに導くエンターテインメント性を備えた作家を対象としたもの、芥川賞は大向こうの読者を意識する余裕など持ちようもない、これが自分と向き合ってはじめて書いた小説、というような作品も含めて、大方の読者を娯しませる語りの芸も拙く、視野狭窄のごとく視野は狭く、ただ深く一点を抉り、言葉が歪んでいるような作品であっても、その歪み自体がわたしたち読者の見慣れた世界像を一変させるような可能性をもった作家に与えられる新人賞、といういう漠然とした印象(偏見?)を持っているものですから、この作家の初期作品に触れた印象からは芥川賞系の作家かと思っていました。
でも考えてみれば、もうたぶんいろんな文芸の賞を受けたり、その候補になったりして、そんな区別など関係なく存分に力量を示して、作品が映画化されたりもしている作家なので、直木賞も当然と言っていい作家でしょう。ずっと前に「ナラタージュ」を読んだことをすっかり忘れていて、このブログで同じその作品の読後感を、先日重複して書いてからあまり日がたっていないのですが、そのときあらためて読んだその作品に或る種の通俗性を感じていたので、上に書いたような区別についての印象を別にすれば、直木賞というのもうなづけるかな、と受賞を知ってから思ったのでした。
通俗性というのは、ナラタージュは教師ともとその生徒であった高校生で卒業して間もない女生徒との恋愛を描いているのですが、女生徒の目を通して語られるその相方である教師があくまで「いいひと」で、それは惚れた女生徒の側から見れば、いくら大人びた子ではあっても、実際には男性経験も人生経験も未熟な年齢だから、せいいっぱい背伸びしているだけだから、無理はない、というのでいいのだけれど、作者はちゃんとそのことが分かっていなくてはいけないだろう、と。つまり教師の側のずるさや計算や、人間的な弱さや罪について・・・。そこが女生徒≒作者になってしまっていると、本来はイケナイ、病気の妻をかかえた教師と少しおませな女生徒との純愛、みたいなメロドラマになってしまう。そこが通俗的だという感想を持ったのです。
今回の新作『ファーストラヴ』は、タイトルだけ見ると、なんか初恋の甘いラブロマンスか、いやこの作者だからまさかそれは無いだろうとは思いながら、下手をすると「ナラタージュ」にも潜在している通俗性が顕在化したような作品なんじゃないか、と思ってしまうところはあったのですが、実際に読んでみると、この作品で作者は完全にそういう意味での通俗性は突き抜けてしまったな、と思いました。
それはおそらく作品の焦点になっている「父親殺し」の容疑で逮捕された少女が、「ナラタージュ」の背伸びして大人びた女性として描かれる存在とは異なり、幼い時期に深手を負った上に、ずっと家庭の中で父親の専制のもとで抑圧されて逃げ場もなく救い出す者もいない状況のもとで、或る意味ですでに壊れているような存在であることが、そういう通俗的な物語に流れようがない状況をつくり出しているとも考えられます。
家庭の中の専制君主でもある画家で教師でもある男と夫を恐れながらその支配に従属して少女を苛む状況に加担している女の夫婦のもとで事情があって引き取られ、父親の専制的抑圧のもとで育てられた少女が、唯一父親の反対に抗って、メディア業界のアナウンサーの就職試験を受けたまさにその日、父親の教える教場でもあるアトリエに出向いて、女子トイレで包丁で父親を刺殺したという事件が起こり、前夜、激しく父親と争ったこともあり、また本人も父を殺したと供述したこともあって殺人犯として逮捕されています。
この物語の語り手である臨床心理士の真壁由紀は、この事件を題材とするノンフィクションを書くよう依頼され、その容疑者環菜に接触していくことで物語が展開していきます。物語の主脈はもちろんこの環菜がほんとうに父親を殺したのか、殺したとしても、それはなぜなのか、その背景を弁護士と共に探っていくうちに、環菜を取り巻く家族をはじめとする過去に彼女と関わってきた人々、とりわけ彼女に接触してきた男性たちの行為が次第に明らかになっていく、というミステリー仕立ての展開です。
もうひとつの流れとして、この物語は、この語り手である真壁由紀自身の過去の物語が、夫の血のつながらない弟で由紀の学生時代の同窓である弁護士迦葉との現在もほんとうには「互いを許し合っていない」緊張をはらんだ関係を軸に展開していきます。この迦葉が国選弁護人として環菜を弁護することになっていたため、由紀と迦葉は緊張関係を孕んだまま謎を解いていくために協力して環菜に接触していくことになります。
こういう人物間の構図の取り方は見事なもので、極上のエンターテインメント・ミステリーを読んでいくように興味津々でページを繰ることになります。中身は読んでのお楽しみということで書きませんけれど、ここで徐々に明らかにされていく、環菜に癒えることのない深手を次々に負わせていく周囲の大人たちの残酷さ、醜さ、いやらしさは読む者に戦慄を覚えさせるような厳しいもので、もう「ナラタージュ」にあったような甘さはどこにもありません。
これは確かに極上のエンターテインメント・ミステリーとも読めるけれど、他方では現代社会の病根を鋭く剔抉する強力な社会派的メッセージとしての、広義の性的暴力に対する告発小説として読むことができるでしょう。それがどちらかと言えば単純で直截なレイプだとか、家庭内DVだとか、変態的なな性犯罪者とかいった顕在的な性的暴力ではなく、より陰伏的な、それだけ陰湿な、そして精神的にははるかに深手を負わせるようないわば心的なレイプのようなものが次々にあぶり出されてくるわけで、正直のところきつい小説です。タイトルの「ファーストラヴ」もそういう文脈の中で環菜が遭遇する受難のスタートを示す言葉で、決して甘い初恋の話などではないのですね。
主要な人物でそうした深手を負っていない者はいない、といった世界です。環菜はもちろんのこと、彼女に敵対的な検察側証人となる母親も、物語の語りである由紀も、彼女と緊張をはらんだ関係にありつつ協力していく迦葉も、みな深く傷ついた人間です。こういう世界を見せつけられると、いま私たちが住んでいる社会は、こうした一人一人の人間に本人の力ではどうにもならないような仕方で深手を負わせるような罠に満ちた世界だと思わざるを得ず、これからこの社会で育ち、生きていくことになる子供たちを考えるとき暗澹とした気持ちにならざるを得ないところがあります。
同時に、また、それは決して他人事のように語ることができない、つまりいつも被害者やその身内みたいな視点で語ることができず、みずからもまた意識する意識しないにかかわらず、また顕在的であれ陰伏的なものであれ、人を深く傷つけ、取り返しのつかない罪を犯す存在だし、いつも人は気づいたときにはすでにそうした「関係の絶対性」のうちに生きてきたのだと考えざるを得ないように思います。
作品としては、私が読んだいくつかの同じ作者の作品の中では、この作品が最も脂ののった、隙のない充実した作品のように思います。暗いばかりの作品ではなく、こうしたつらい状況を乗り越えて自分を取り戻していく環菜や由紀、迦葉の姿を見て読者も救われるところがあります。
本筋にはかかわりないかもしれませんが、弁護士の迦葉とその兄で由紀の夫の我聞という名前は、たしか仏教用語ですよね。「如是我聞」(われかくのごとくきけり)は太宰の作品のタイトルにもなっているからよく知っているけど、釈迦の迦と蓮葉の葉?で迦葉って何でしたっけ?そんな名前の弟子がいたんじゃなかったかな・・・いやうろ覚えで何も思い出せません。どこかで聞いたというか見たような言葉なんだけど・・・何か作者が込めた意味があるのかもしれませんね。
blog 2018年07月20日