キム・ギドク監督「サマリア」
キム・ギドク監督の映画はレンタルビデオで何本か旧作を観たのちに、映画館で観た比較的新しい作品も『悪い男』に及ばないと思い、あれが最高の作品だったんだなと思って、その後通いつけのビデオ屋の棚が変わって彼の作品が行方不明になっていたこともあって、長く見ていませんでした。
今回棚にいくつか旧作が並んでいるのをみつけて、ほかの韓流映画にまぜて1本だけ借りてきたのが、この「サマリア」。作品を見て、一部を予告編か何かで観たことがあるのを思い出しましたが、全編みたのは初めてのはず。もし見ていたら、『悪い男』とどちらがいいか、自分の中で迷ったでしょう。
強烈に炸裂するような迫力では『悪い男』に一歩譲るけれど、作品としての質の高さは遜色ありません。すばらしい作品だと思いました。この作品を見て、キム・ギドクの作品はやっぱり旧作も全部見たいと切実に思いました。
彼の作品は映像による寓話だと言っていいと思いますが、前にそんなことを書いたけれど、それが見事に果たされているのは、私が観た作品の中では『悪い男』だけで、映画祭や評論家には評価が高かったらしい「春夏秋冬そして春」にしても、比較的最近の「嘆きのピエタ」にしても、「たとえばなし」にしかなっていないと思い、私の中では唯一「悪い男」だけが評価が飛び抜けていました。
しかし、この「サマリア」は、聖書の中の寓話の映像化と言っていい、メッセージの明確な作品なのに、「たとえばなし」に終わらず、見事な映像としての寓話に昇華されているのを感じました。
3部構成の脚本が非常に古典的なフレームなのに素晴らしい。脚本も監督らしいから、ホンを書く力量も並みではない。映像も目が覚めるほど美しいところがあって、動いているから素晴らしいのではあるけれど、そのままもう少しカメラをとめてほしいと思うことが何度かありました。
第一部のサブタイトルは「バスミルダ」。第一部の主役チェヨンが語るところでは、インドの娼婦の名で、彼女と寝た男はみな仏教徒になった、と。これからは私をバスミルダと呼んでね、と彼女は海外旅行の費用稼ぎのための「援交」の相棒で親友のヨジンに言います。このチェヨンを演じる童顔の少女が素晴らしい。
あなたがいないと私は何もできないの、とチェヨンに頼まれて、ヨジンは見張りと「会計」と男の連絡先の「記録係」を引き受けながら、彼女にとっては唾棄すべきそんな親友の行為をやめさせようとしますが、チェヨンは自分をバスミルダに擬して、素敵な笑顔で、あっけらかんと、ネットで拾った男と安宿へ入って行きます。
第一部はまさにこの「バスミルダ」の行動と破滅を軸に展開していきます。この第一部は完璧です。チェヨンを演じる若い女優さんは、この人しかいない、というくらい見事にこの役柄にはまっています。下着姿で窓のところにあらわれて、踏み込んだ警察官と階下の路上で見上げる親友との間で、変わらぬ笑顔のまま逡巡し、やがて跳ぶ、そこまで徹頭徹尾完璧な演技であり、完璧な描写です。
瀕死の床で彼女は、一度交わって好感を持った作曲家を呼んでくれとヨジンに頼み、ヨジンは彼のところを訪ねて行きます。作曲家は病院に行くことを拒み、ヨジンは彼に抱かれることで彼を連れ出します。これが彼女にとっての転機となり、第二部への序章になります。
第二部の前半はこのヨジンの行動を軸に展開する、「サマリア」です。第一部のチェヨンの行動はまぁ今どきの世間にはよくある話で、表面的には月並みな援助交際の行動です。しかし、第二部でのヨジンの行動はおよそ世の常識では考えられない、想像を絶するものです。彼女は手帳の記録をもとにチェヨンを買った男たちのところへ行き、チェヨンへの贖罪として男たちに抱かれ、金を受け取らないどころか、チェヨンが受け取った金を返していくのです。
もちろんこれほど非現実的な話はないのですが、この映画の中では少しも違和感をおぼえさせません。第一部であの無垢な(としか言いようのない)チェヨンを男のもとへ見送り、そのことを嫌悪しながら引き止められず、彼女が目の前でいわば自死を選ぶのをただ見ていることしかできなかった、その深い絶望的な悔いと罪の意識が彼女のこうでしかありえない贖罪意識と自罰行為へと導く必然性が、私たちにも切実感をもって伝わってくるからです。このヨジンという本来は普通のまっとうな少女がそのような気持ちと行動へ自分を駆り立て、一見淡々とそれをこなしていくかにみえる、そんな行動の瞬間のアンビバレントな感情を表現する役柄はなかなか難しいものですが、この女優さんもなかなかのものです。
ただ、私が監督なら(笑)、チェヨンの死からヨジンが贖罪の行動を始めるまでの間に、もう少しじっくりヨジン一人の映像を挟みたい。彼女の絶望の深さはそれに値するはずだと思うからです。後は文句なし。第二部後半から第三部も完璧です。
第二部の後半は今度はそのヨジンの父を軸に展開していきます。彼の職業は警官で、父娘の二人暮らしで目の中に入れても痛くないほどヨジンを可愛がっているやさしい父。その彼が偶然仕事中に、ヨジンが安宿の2階で男とベッドに居るところを目撃してしまいます。そして、その深い苦悩と憤りは、ヨジンの相手をする男たちに向けられ、キム・ギドクの作品ではおなじみの血と暴力が登場しますが、むしろ彼の作品の中では抑え気味によく制御されているように見えます。
この父親役の男優がまた素晴らしい演技です。この話とこの人の演技をみたら、世の中には沢山いそうなチェヨンの客たちのような男も、震えあがって、二度とそういう気は起こさないでしょう(笑)。それほど真に迫り、迫力がありました。
それと同時に、チェヨンやヨジンを買った世の男たちの描き方にも感心しました。たしかに本当に卑小卑屈などうしようもない男たちだけれど、彼らを描くキム・ギドク監督の目は決して、蔑んだり憎んだり批難したりする目ではない。それは言い過ぎでなければ、キリスト的な愛に満ちた眼差しであり、ある種の切なさを感じるほどなのです。
第三部のサブタイトルは「ソナタ」です。ヨジンの相手の男たちを叩きのめし、最後には殺人まで冒してしまう彼の姿が、一転、娘と二人のアパートのダイニングキッチンで、海苔巻きを巻くシーンから捉えられ、二人で旅行に行こうか、と娘を誘って車で、遠い地方にある亡妻の墓へ行く展開になります。このあとはまぁ全部ネタバレになるより、ひとつだけ残しておきましょう。
止めた車の中でヨジンが観る夢はちゃんとモノトーン、モノカラーにしてあるのに、私は内心で恐れていることが起こったように錯覚して、彼女が覚めたときは心からほっとしました。あざといけれども心憎い挿入。ラストの仕掛けもとっても素敵です。彼女が運転を試みる車の窓に寄り添いながら、「これからは一人で走るんだ。パパはついて行かないよ。」という彼の言葉。そこへおいていかれるヨジンのこれからをはっきりと指示し、この作品全体を余韻を持って締めくくるにこれ以上ふさわしいセリフはなかったでしょう。ここで泣かない映画ファンはないのではないでしょうか。
(blog 2017.7.1)