修道女
(ジャック・リヴェット監督)
修道女(ジャック・リヴェット監督) 1966
ジャック・リヴェットをはじめ、フランスのヌーヴェルヴァーグの旗手となった映画監督たちは、『カイエ・デュ・シネマ』で映画批評をやっていた連中だそうです。
文芸の世界では、批評文で食っていたような人が年取って突然小説を書いてもろくなものが書けないというのが通り相場で、そんな例があるかどうかは知りませんが、映画批評で飯を食っていたやつで後に映画史を革新するような映画を撮ったやつなんているのかな、と思いますが、フランスでは現実にそういうことが起きたんですね。まあ映画を作り始めたのも若いころだから、もともとそういう資質を持った連中が(お金がないとかいろんな現実的な理由で)既存の映画への批判にかまけていただけなのかもしれませんが・・・。
小説を書いたり、絵を描いたり、映画を撮ったりというクリエイターの仕事にも、それがすぐれたものであれば、「批評」が内在していることは当然でしょうけれど、それは彼らが批評家のような言葉で考え、書き、評論として論理を展開するという意味ではないので、批評家の資質とクリエイターの資質とはもともとまるで異なるものだと思いますし、むしろ、まったく相反するものだと考えるほうがよさそうです。
ですから、ヌーヴェルヴァーグの旗手と言われる人たちもまた、批評家から出発して、古い映画に飽き足らず、自分たちで撮ってしまえ、というので映画表現のありようを変えてしまったのでしょうが、それが今の時点からみてどれほどの水準のものだったのか、所詮は批評家の撮った頭でっかちな映画だね、というようなものでしかなかったのか、あるいはまた、批評は批評として、映画を撮るときはそれぞれの創造的な個性のはたらきで結果的に結構いい線いったのか、あるいは批評と創造という普通は相いれない矛盾を絶対矛盾の自己同一ではないけれども、奇跡的な融合がそこで起きて、本当に素晴らしい作品を創り出したのか、ということは、映画史の常識とか、彼らを神様扱いして崇拝するだけの連中とは関わりなく、半世紀遅れで彼らの映画を何の先入観も持たずに、あらためて手ぶらで見て、一つ一つ自分の目で確かめてみるのは面白いかもしれないな、と思っています。
その意味ではリヴェットと言う人は結構面白そうな人で、先日DVDで見た「美しき諍い女」は本当にいま見ても素敵な作品でした。ただ、それはたまたまテーマがバルザックの「絶対の探究」に想を得た芸術家の創造のためのたたかいを描くというものでしたから、リヴェットに備わっているのだろう批評家的資質の自己言及的な批評性がうまく創造的な資質と融合できたところがあったのかもしれない、と思ったりしています。また制作時期が円熟期のものであるとか、若い頃の習作的なもの、あるいは力こぶのはいった力み過ぎの作品であるとかいったことも、できばえと無関係ではないかもしれません。
それが「パリはわれらのもの」だと、意図が推察できなくはないけれど、ずいぶん頭でっかちな理屈っぽい作品で、いかにも批評家が作った作品だという印象です。おそらく意図は壮大だけれど、実際の作品としての出来栄えは・・・というふうに思えます。映画史的な意味や映画作家個人の表現史の中での意味はあるかもしれないけれど、先入観なしに作品にだけ向き合うごく普通の観客がいま見れば、大方は訳の分からない退屈な作品だという印象を持つのではないでしょうか。
さて、今回観た「修道女」は、やっぱり多少頭でっかちなところは感じましたが、それがあまり前面に出てこないで、作品として素直に見て、けっこうおもしろく見ることのできる作品でした。
18世紀のディドロが書いた小説が原作だそうです。私は原作は読んでないので、どの程度原作に依拠しているのかは知りません。
シュザンヌ・シモナンという女性が自分の意に反して修道院へ入れられることになって、修道女としての清潔、清貧、服従を誓う誓願をさせられようとする場面から始まります。なぜそんなことが本人の意思に反して強制されるのかというと、彼女の家は貧乏貴族で、彼女を含めて3人の姉妹があり、それぞれ嫁がせなくてはならないけれども、貴族としての体面を保つような嫁がせ方をするには相当な持参金と費用がかかります。上の二人を嫁がせるだけで精一杯で、とても三女のシュザンヌを嫁がせるような財産はない。そういうとき当時の貴族社会では娘は修道女になって生涯修道院に入る以外に道がなかった、ということらしいです。なるほど、そういうものか、と当時の貧乏貴族の事情が面白く思えます。
しかし、シュザンヌは修道院にだけは入りたくないと思っていて、これを拒否し、自分が強制的に連れて来られたのだと抗って騒ぎを引き起こしたため、そのときは免れますが、母親から、自分が姉2人とは違って、不義で生まれた子であることを明かされ、父親の意志が変わらないこと、母親の助けも期待できないことを聞かされ、結局別の修道院に入れられることになり、再び誓願式に臨みますが、誓願をした記憶がまるで失われるという不思議なことが起きます。
この修道院の女性院長モ二がとても優しい、すぐれた指導者で、修道女として生きることへの懐疑と不安がぬぐえないシュザンヌに対して、神への信仰があればほかのことはついてくる、と優しく寛容にふるまい、彼女がチェンバロを巧みに弾き、美しい声で歌うことを称揚してくれます。
しかし、この院長はシュザンヌに「あなたが来ると神が遠ざかり、無口になるような気がする」と不安に満ちた預言的な言葉を吐きます。そしてこの優しい院長は亡くなってしまい、前任者の築いてきたものをことごとく変えて、強権的な支配を修道院内部に打ち立てようとする新院長が、聖書を持つことさえ禁じてそれに違反し、前院長を慕うシュザンヌが新院長のやりかたにことごとく抗うのに対して厳しい懲罰で臨み、礼拝の特殊な仕方を強制し、パンと水しか与えず、他のシスターに近づいたり会話したりすることも禁じてシュザンヌいじめを徹底していきます。
シュザンヌは一計を案じて告解を書くための筆記用具と紙を用意させ、弁護士を通じて大司教に修道院の内情と虐待を知らせる手紙を書いて、親しい修道女を通じて、手紙を外へ送り出すことに成功します。しかし、告解用にと入手した紙をめぐって新院長がシュザンヌの意図を見抜いてしつこく追及し、彼女の衣服を剥ぎ取って幽閉します。
彼女の手紙を受け取った弁護士マヌリがローマの許可を得たと面会に来て、内情査察が行われることや、訴訟手続きが始まれば院内ではひどい目に遭うだろうと聞かされます。事実、査察が行われることを知った院長は厳しくシュザンヌを問い詰め、徹底的に抗うシュザンヌを、「悪魔にとりつかれている」とみなして、すべての院内聖務を禁じ、食事を与えず、祈りは床に完全にひれ伏すこと、また誰にも接触してはならないこと、などを命じます。
その結果、シュヴェンヌは院内浮浪者みたいなみじめな姿になって肉体的にも衰弱し、自分を虐待する院長にすがって、私を生かしてくださいと懇願しますが、院長は冷たく「考慮します」と言うのみです。
しかし、修道院に事情を探りに来た教会の査察官は、シュザンヌと院長の言い分を聞いて、シュザンヌへの迫害、虐待が行われていることを察知し、教会側内部の会議で、院長を解任するのが妥当だと主張しますが、枢機卿か誰かステータスが彼より上らしいやつが、院長の縁戚の身分が高いことから、それは不都合だ、と同意しません。
こうして宗教裁判として敗訴したシュザンヌは絶望し、すべては終わった、と考え、弁護士マヌリが使いをよこして修道院を移るようアドバイスしますが、もう移る気も失せたと言います。
しかし、彼女への虐待を知った査察官エベールは、シュザンヌに、君の友達が弁護士に言い、大司教にも実情が伝わって院長はほかの修道院へ移されることになった、と言います。そして、またシュヴァンヌ自身も別の修道院へ移されることになります。
新たにはいった修道院は、前の修道院とは打って変わり、とても修道院とは思えないほど、修道女たちが明るく自由にはしゃぎまわっていて、明るい雰囲気ですが、すぐに微妙な雰囲気が漂っていることに気づかされます。
そこの女院長はシュザンヌを大歓迎して、シュザンヌが歌が得意と聴いていて、チェンバロを弾かせ、歌わせるので、シュザンヌは聖歌のようなのを歌います。すると院長は、いいけど何だか聖堂にいるみたいだわ、とやめさせて、他の歌を、と言いますがシュザンヌが歌を知らない、と言うと、愛の歌を、と所望し、それなら姉たちが歌っていたことがある、と覚えていたシュザンヌはよく知られた(私も聴いたことがある)愛の歓びの歌を歌います。
シスターの一人が、ウルスラのほうがうまいわ、とそれまでみんなから歌の名人と思われていたらしいシスターのことを言いますが、院長は否定して、シュザンヌを依怙贔屓するような言葉を吐き、シスターたちの雰囲気が微妙な感じになり、シュザンヌと院長だけを部屋に残して、他のシスターたちはみな部屋を出て行ってしまいます。
どうやらこの女院長はカワイコちゃん好みの同性愛者で、シュザンヌが来るまではテレーズというシスターを可愛がっていたらしいのですが、テレーズがシュザンヌに打ち明けたところでは、その院長を拒んだためにいまは不幸だというのです。傍目に見ていると、院長の依怙贔屓とシュザンヌに対する同性愛的な想いは誰の目にもあきらかなほど露骨なのですが、シュザンヌ自身が純粋でオクテで未経験であるために、贔屓されて過剰に目をかけられていることは判って戸惑ってはいるものの、院長の本当の狙い、欲求については何もわかっていないのです。
ですから、院長が二人だけになりたがり、二人になるとしきりに話を個人的なところへもっていって、官能の欲望の話へ近づけようとしているのが観客のわたしたちにはミエミエなのですが、シュザンヌは、何のことを言われているのかピンとこない感じで、院長がうずうずしているのがわかって、そういう場面はとても可笑しい。
官能のことを知りたいと思わない?教えましょうか・・・と水を向けても、シュザンヌは「知りたくありません」「清純でないなら、死を選びます」と取りつく島もありません。
ある夜、院長は蝋燭の火をもってシュザンヌの部屋へやってきます。「夢が苦しくて眠れないのよ」。シュザンヌは驚いてベッドで起き上がり、「どうなさったの?涙を流されたりして・・・」あぁまだわかってくれないのね、とたまりかねた院長、シュザンヌのベッドへダッと駆け寄る。さすがにシュザンヌは驚いて、はっとベッドを飛び降ります。するとドアをドンドンと叩く音。事情を察したテレーズが助け舟を出してくれたようです。
ここに至って、シュザンヌは男性神父がシスターたちの告解を順に聞いていく、告解の日に、院長のことを告解します。神父は、とにかく院長を避けよ、扉に鍵をかけ、一人では決して院長のところへ行くな、それでも院長が部屋へ入ってきたら、大声で人を呼べ、悪魔だと思って追い払え、とアドバイスします。そして、今晩だけは眠らずに祭壇室で夜を徹して祈りなさい、と指示し、院長から離れていることがおまえの苦行だ、と言います。
夜中に祭壇の前で祈るシュザンヌ。まだ寝ないの?と近づいてくる院長。「去れ!悪魔よ!」とシュザンヌ。「悪魔じゃないわ。友達よ」と院長はしつこく誘惑しますが、では今夜だけよ、と諦めて去っていきます。
院長はたくらんで、シュザンヌの告解を受けた神父を中傷する訴状を教会中枢に送り、神父を左遷させてこの修道院から追い払ってしまいます。それで新任の神父がやってきます。彼は、自分も実は誓願式を経ていないのだ、お前と同じだ、気持ちはよくわかる、というようなことを言います。だが、禁欲生活をしても、世俗の享楽に生きても、いずれにせよ地獄へ落ちるのだ、というようなことを言います。
院長はもう狂ったようにシュザンヌにまとわりつき、しがみつき、自室の扉を固くしめて閉じこもるシュザンヌに、扉の外でしがみついてへたりこむ院長です。それでもまだシュザンヌは「親愛の情がなぜいけないのかわかりません」と神父に告げるように、官能の欲望も喜びも知りません。それで新任の神父は、「(前任者である)ルモワール神父の忠告に従え、理由は訊くな」とだけシュザンヌに言います。
その院長は、神父のところへきて、「私は地獄に落ちました」と告解します。
さてその新任の神父がまたシュザンヌにぞっこんで(笑)、シュザンヌに別の機会に会いたいと言うので、シュザンヌは「告解以外の場で会いたくありません」ときっぱり断りますが、神父のほうは「私のほうが告解するのだ」と言います。事実上の愛の告白ですね。そして、馬車を待たせてある、一緒に逃げ出そうとシュザンヌを誘います。一難去ってまた一難(笑)。戸惑うシュザンヌは「2日だけ待って」と言います。
2日後、石垣をよじ登って越え、神父はシュザンヌを連れて修道院から逃亡します。そして、その後道端に倒れているところを、シュザンヌひとり、2人の農夫に助けられ、ひろわれて次の画面では農家らしいところで屋内での作業を手伝って働いています。女たちが噂話に、逃げた尼のほうはまだつかまっていないが、坊さんはつかまって修道院へ逆戻りさ、とまさかシュザンヌがその尼さんだと知る由もなくおしゃべりしています。
その次の画面はもうその農家をも逃げ出してきたのか、石造りの建物の入り口のところに立ちん坊をしてそこを通る人から小銭をめぐんでもらう、お乞食さんをやっているシュザンヌの姿があります。そこを通りかかった婦人がシュザンヌに目を止め、一緒にいらっしゃい、と誘い、シュザンヌは従います。
次の画面では、綺麗な衣服に着飾ったシュザンヌがアイマスクをつけて、同じような恰好をした女たちがテーブルについてくつろぐ男たちの傍に寄り添う階上の豪奢な部屋に入っていきます。仮面舞踏会か何かかと思ったら、どうやらそこは高級娼婦の館(娼館)のようです。
シュザンヌは男に抱かれ、それを拒むと、開いていた窓から一気に身を投じます。
これで幕です。
長々と思い出しながらたどってきましたが、古典的な物語のように、ちゃんと明快なストーリーがたどれる誰にでも理解でき、楽しめる作品です。楽しめる?・・・う~ん、つらい話ではあります。現代日本のごく一般的な生活をする私たちにとっては縁遠い修道院生活、しかも昔の話で、貧乏貴族の妻の不倫の子のたどる宿命ですから、直接にはまことに縁遠い話です。
でも、ヌーヴェルヴァーグと言われる映画の革新をめざしていたリヴェットにとっても、修道院生活だの修道女の話なんてのは縁遠い世界だったはずでしょう。
ではなぜそんな題材を選んだのでしょうか。これを宗教批判とか教会批判の作品だとみなす人もあるかもしれませんが、1966年にパリで映画の革新を考えているような男がそんなことを自分の中心的な課題だと考えるはずがないと思います。
もちろん、描かれているのは修道院にいやいや入れられた貧乏貴族の娘の話で、彼女が修道院で受ける虐待、迫害のありさまがこれでもか、というくらい具体的に描かれ、やっと救われたかと思った新たな修道院でも、今度は同性愛の院長から迫られて逃げなきゃいけない、そのあげくが乞食にまで身を落とし、最後は娼館に拾われて、皮肉にも彼女が拒否しつづけた「誓願」のうちにある身の「清潔」であることを守り通して、(キリスト教では許されないはずの)自死を選ぶにいたる過程が描かれているので、作品の作り手の視線がキリスト教にも教会にも批判的で、人間性を殺してしまうようなものだと言いたげであることは誰の目にも明らかです。
でも映像としてわたしたちの目の前で展開されているのは、修道院という閉じた空間でシュザンヌが不本意にもそのうちに閉じ込められ、そこで生きるほかはない状況の中で、自由を求め、様々な束縛を嫌う彼女に対するいやがらせ(懲罰)、迫害、虐待へとどんどんひどくなる仕打ちを受けながらも、神への本来持っていた信仰心は失うことなく、自由を求め続けて或る意味で頑固に自分を守りつづけて生きている姿です。修道院を脱出してからのごく短いいくつかのシーンを別とすれば、すべては二つの修道院の中の世界でのできごとですから、そう言えると思います。
その映像を支えている枠組は、この二つの彼女がでられない修道院の空間です。修道院の中庭らしき空間には出られますから、屋内とは限りませんが、いずれにせよ修道院の敷地に限定された場所で、別に牢屋のように物理的に狭い空間に閉じ込められているわけではないし、宗教生活をしていく上では十分にその中で必要十分に動き回れる空間ではあるわけです。だけどシュザンヌの本来生きたい、また生き得たはずの世界からみれば、それは著しく制限され、閉ざされた空間には違いありませんし、彼女がそこで快適平穏に生きられるわけではなく、自由を求める気持ちを失わず、神への純粋な信仰も失わない彼女は、本質的にそれらと矛盾する院内の世界でのしきたり、戒律の壁にことごとにぶつかって空しく抗い、その都度きつくなる懲罰を受け、右往左往して衰弱していきます。修道院という静謐で清潔な閉じた空間の内部はそこで生きざるを得ないシュザンヌにとっていたるところで壁にぶつかり、どうそれをたどって行っても、外に出ることだけはできない、複雑な迷路の世界のようで、その迷路の中をせかせかとした足取りで彷徨う彼女の姿がこれらの映像がとらえている、それが無ければこの作品ではなくなる原型的な映像ということになるような気がします。
こう考えると、極端に言えば、この物語からキリスト教やら神父やら尼さんやら祭壇やらといった具体的な表象を全部抜いてしまっても、この作品が私たちに見せたいものの骨格は残るんじゃないか、と思います。カフカの城は外部から近づこうとして永遠に近づけそうもない測量士の話ですが、逆にあの城の内部は、シュザンヌのいる修道院のように静謐で清潔な、でも無数の白い壁で仕切られた複雑な迷路の空間になっていて、もし城の中に入れたとしても、測量士はその複雑な迷路の中をふらふらになって彷徨い、もはや出ることができない、と感じるのではなかろうか、なんて空想します。
また、このまえ、「双子は驢馬に跨がって」という不思議な、とても面白い小説を読みましたが、あそこで双子が助けにくるのをひたすら待っている親子と彼らがひたすら壁画を描いたりしているあの空間も、この映画の修道院の空間と通じるところがあるんじゃないか、なんて連想しながら見ていました。
そんなふうに色々置き換えてみても、この映画は楽しむことができるでしょう。トポロジーで把手つきのコーヒーカップを変形していけばドーナツと同じなんだってのと同じで、この映画も余計な凸凹をならしてシンプルなこれ以上変えたらこの作品じゃなくなるぜ、ってところまで捏ねてやったら、自由を渇望しながらほかのすべては与えられても自由だけは与えられない閉じた迷路空間みたいなものが後に残るのではないか。そして、そういう空間を逃れて別の空間へいってもまた同じことで、自由を求めて空しく抗っては生そのものをすり減らしたいう・・・
この映画では、なんとか脱出するわけですが、実は外の世界も渇望した自由を与えてくれるわけではなくて、メビウスの帯のようにねじれて、それ自体が閉じた空間であるかのような場所に戻ってきているともみえて、ここを脱出するのは死ぬときだけ、というふうな構造をもった作品の世界のようにみえてきます。
シュザンヌは自由を求めていても、別段修道院の外の享楽的な世界を求めているわけじゃなくて、信仰心を失わず、官能の欲望からも遠い、禁欲的な生活で満たされる女性ですから、修道院の生活でも何が欠けているのかと言えば、自由、つまりその空間を出ていくことができる、という可能性以外に実際には欠けているものは何もないとも言えるわけです。
ここからは(ここまでも、か・・・笑)妄想になりますが、じゃどうすれば彼女は救われるのか、と考えると、それは彼女が汚れることでしか救われないんじゃないか。彼女は最後まで神への信仰を失わず、「清潔を失うなら死を選びます」という彼女の言葉どおり死を選んでしまいます。最後まで「清潔」なままです。いくら同性愛者の院長がほのめかしながら強く迫っても、彼女は基本的に官能の喜びも知らなければ、その欲望も持っていないから、何を院長が求めているのかさえ、本当のところよくわかっていないようです。彼女は院長の誘惑に溺れてしまったほうが救われたのかも(笑)。
というのも、もし彼女が当初修道院だけはいや、と誓願の言葉を言うことさえ拒否したような意志を貫けるような客観的条件があって、姉たちのように普通の貴族の娘のように他の貴族の子弟に嫁いでいたとすれば、いくら信仰深い生活を送ったにせよ、こんなにピュアなままで生涯を終えることはなかったので、多かれ少なかれ世俗の毒を受け入れて汚れながら生きて行ったわけですね。
だから修道院へ入るということは、そういう世俗の毒を浴びずに済む環境に遁れることでもあったわけです。修道院が閉じた世界であることが、彼女の純粋な清潔さや神への信仰を守る上の防御壁になっているわけで、自由でありたい、そこから脱出したい、という彼女の願望は、自己矛盾でもあるわけです。
そうすると修道院の閉じた空間から脱出したいと願う彼女は、一見もっぱら神へのピュアな信仰に生きるための自由を求めているようにみえて、実はそれとは真逆の世俗の毒にまみれた世界を求めていることにならないかな・・・。でもそういう毒を遮断した修道院という世界で、そこにも存在した様々な誘惑を拒んでピュアな信仰を守ってきた彼女は、もろに世俗の毒を浴びるような世界に脱出した結果、不適応を起こして死んでしまう・・・
だんだん見当違いの方向へ飛んでいちゃってるかもしれませんね(笑)。でもこの作品は、修道院のそれなりの強固な掟だの秩序だのを持った世界でも自分を頑固に守って抗い、それゆえに迫害され虐待され、その中でどうやって自分の居場所や行くべき道をみつけられるのか分からないままその閉じた世界の内で彷徨うシュザンヌの姿がとても現実感をもって描かれていて、リアルだからむしろ悪夢にも似て、細部まであまりにも鮮明な夢のように、したがってまた修道院そのものが問題なのではなく、それが何か別の世界を意味するものであるかのように私たちの前に展開されていく、密度の濃い作品です。
Blog 2019-2-13