『偶然と想像』(2021)は、濱口竜介監督・脚本による「魔法(よりもっと不確か)」「扉は開けたままで」「もう一度」の三つの短編映画で構成される121分の「短編集」。見ごたえがありました。
第一話「魔法(よりもっと不確か)」はこんなお話。
モデル芽衣子(古川琴音)」が、撮影帰りのタクシーの車内で、彼女のヘアメイクを担当している親しいつぐみの「のろけ話」を聴かされます。
いかにも親しい若い女性どうしのありふれた「のろけ話」を、合いの手を入れ、ときに一寸突っ込んでみたりしながら笑って聴いているように見えます。しかしつぐみ(玄理)が先に車を降りると、芽衣子は運転手に、いまきた道を引き返すように告げ、車を降りると或るビルの中の事務室へ応対に出た女性事務員を押しのけるように強引に入り込ます。
そこには彼女の「もとカレ」である男性(中島歩)が居ます。事務の女性を帰らせて二人になると、芽衣子はつぐみから聴いた話を男に告げます。つぐみの話では、男はもう二度と女性を愛せなくなると思うほど芽衣子を愛していたが、芽衣子が一度ならず「浮気」をし、男は裏切られ、別れたということでした。(タイトルの「魔法」は、男が女との一夜を魔法の一日のように素適な日だったというようなことを言った、ということから来ているらしい。)
男ははじめのうち、いまごろになってなぜ来たのだ、と芽衣子に拒絶的に振る舞っていますが、芽衣子が「あなたは私も傷ついていたことを知っているのか」と言い、「あなたを傷つけたことで私はもっと傷ついていた」と言うのを聞き、またつぐみに聴いたことから芽衣子が確信をもって、男もまた自分を愛していたし、自分が浮気をして裏切っても、男はなお自分へ愛を棄てられなかった、と言うのを聞いているうちに、だんだん自分の中の隠された感情を顕わしはじめて、彼女を抱きしめようとします。(先ほど出て行った女事務員が戻って来たために中断されて、芽衣子は出ていきますが。)
その3日後、芽衣子とつぐみがカフェで向き合って談笑しているところへ、男が通りかかり、つぐみの誘いで男も入って来て同席します。つぐみが男と芽衣子を初対面として紹介すると、芽衣子は男に「どっちを選ぶの?決めた?」と言い、怪訝な顔をするつぐみに、芽衣子は彼が元カレであることを告げます。つぐみはショックを受けて出ていき、男もつぐみを追って出ていきます。一人残る芽衣子は顔を両手で蔽って、また彼を傷つけた自分を責めるかのように嘆く?…と思ったら、実は元カレであることを打ち明けたところからは彼女の想像で、実際には、私は行くわ、と二人を残してカフェを立ち去ったのでした。
ラストは彼女が帰っていく途中の坂道で振り返り、クレーン車なども入った雜然とした街の光景にスマホのカメラを向けてパチリと撮るので、なんでこんな変哲もない風景を撮るんだろう、と思ったらその景色と彼女の間、彼女のすぐ前の上方から紅椿(?)の花の咲いた枝が下がっていて、彼女はそれを撮ったのかな、と思わせ、そのまま彼女は振り向いて去って行くのでした。
ここでは、タイトルの「偶然」は、主人公の芽衣子と親しいつぐみの現在ラブラブの男が実は芽衣子の元カレであった、という話の起点であり、すべての要(かなめ)になっている事実が、世の中ではしばしばありそうだけれど、実際にはめったにないような「偶然」です。
彼女がタクシーを引き返させて元カレの所へ押しかけるまで観客にはその「偶然」が伏せられているから、タクシーの中のつぐみの長い長いのろけ話は、ひどく長いなぁと感じさせられます。(その分、芽衣子が男のところへ行って、私たち観客に事情がわかると、その長い長い時間が、オセロの駒の白い列がいっぺんに黒に変わってしまうように、つぐみののろけ話を聴いていた芽衣子の内面のどろどろした感情の色に一変して、ありふれた対話が、刺すか刺されるかといった緊張を孕み、底知れない人間の<業>を垣間見させるものに転じます。)
つぐみのお喋りは、どこにでもころがっているような、女友達どうしで交わされる、「ね、聴いて聴いて!」と彼氏とのラブラブぶりを、つい調子に乗ってなにもかも喋ってしまう、しょうもないのろけ話であって、ありふれた女友達どうしの日常的なシチュエーションであり、対話にすぎません。
それが芽衣子が元カレのところへ押しかけるシーンで一転して物語にとって有意味な「偶然」に変わってしまいます。「偶然」にすぎないものが、物語の起点にして要であるような、いわば「必然」と化してしまいます。
つぐみの話を聞いて、矢も楯もたまらず元カレのところへ押しかける芽衣子は、ものすごく強引で、攻撃的で、ねちっこく、こんな女にとりつかれたらたまらんなぁ、と思わせるような(笑)、まるでストーカー女のようにコワイ様相を呈します。
しかし考えてみれば、ここまで彼女を異常な興奮状態にしているのは、いわばありふれた、単なる嫉妬心にすぎないのです。自分が複数の相手と浮気して男を裏切ったあげくに別れた相手に、どのツラ下げて会いに行けるかと思いますが、つぐみの話を聞いて強い嫉妬心をおぼえただろうことから、自分がまだ男を愛していることにあらためて気づくと同時に、つぐみに男が語った言葉を聞いて、男がなお自分のことを愛してもいる、と確信したがゆえに、ああした行動をとったわけです。
その間、タクシーの中で長い長いつぐみの話を聞く間中、適当に合いの手を打ちながら彼女の頭の中はつぐみと彼のラブラブシーンやら、過去の自分と彼との愛の交歓やらのシーンが溢れんばかりに交錯して爆発寸前だったでしょう。胸の奥深く抑圧され、くすぶり続けていた男へのどろどろの愛憎が煮えたぎってふつふつと芽衣子の胸の内に湧き上がって来たに違いありません。
それはもちろん「偶然」という言葉と並べられた、タイトルのもう一つのキーワード「想像」力の働きです。映画でははじめ「偶然」の事情が明かされないので、男のところへ芽衣子が駆け込んではじめて、タクシーの中でのつぐみとの対話の折に芽衣子の頭の中に溢れていた「想像」の実態が明らかになる仕掛けです。
この作品では芽衣子を演じた古川琴音の熱演が光ります。コワイほどです(笑)。この物語の主役は申すまでもなく男を前にした彼女の語り、強く、深く、粘っこく、切り裂くように鋭利でもあるように刻々姿を変える発語であり、それが一人芝居のような強烈な言語劇を構成しているかのようです。
第二話「扉は開けたままで」は、欠席日数不足で単位がとれない学生が、作家で教授の瀬川(渋川清彦)の前で頭を床にすりつけて土下座して頼み込んでいるのを、つねにドアを開けっぱなしにしておかれる部屋のこちらでほかの学生たちや助手みたいな若い男か覗き窺っているようなシーンから始まります。
教授はいくら頼まれてもダメだ、と穏やかながらきっぱり拒否しています。この瀬川という教授は間もなく作家として芥川賞を受賞して名物教授になります。
単位がもらえなかった学生は瀬川を逆恨みし、復讐しようと企てて、恋人である奈緒(森郁月)に瀬川を「ハニートラップ」にかけるようにと頼みます。彼女は(本当のことかどうかわからないけれど)、瀬川に語っていたところでは、既婚で子供もある、ということですが、だとすればそういう身で大学に通っていて、若い男子学生と不倫していたということになるでしょうか。しかしその男にも飽き足らぬものを感じ、自分の人生に倦んでいるような感じの彼女は、この落第学生の頼みを聞いて、瀬川の研究室を訪れます。
彼女は計画通り、最初はただ作家瀬川の小説に感動した読者というたたずまいで、持参した受賞作を取り出してサインしてくれと要請するのですが、異様なのは、本の中の或るページを開いて、ここにサインしてくれと言います。
瀬川はけげんな表情をするものの、この一節が好きで、ここを読むたびに先生の名に出会いたいのだというような彼女の言葉でひとまず納得したのか、サインに応じます。
すると、彼女は研究室の入口のドアをしめて、そのページを朗読しはじめるのです。しかし瀬川はみずから扉を開け、彼女は立ったまま朗読します。
その一節は登場人物の女が男の睾丸を片方ずつ弄び、口に含むといったエロチックな(というか露骨にポルノチックな)描写で、やがて男の一物は硬直して射精に到るといったものです。
奈緒は冷静にそれを朗読し、瀬川も冷静にそれを聴いているけれど、読み終わると彼女は、こういう文章を書くときどんな気持ちで書くのか、作中の男のような気持ちにならないのか、といったことを尋ねます。瀬川は正直に、それはそういう気持ちになると答え、そうでなければ書けないと言います。
瀬川と奈緒の間に何か行為の上で一線を超えるようなことが起きるわけでもなく、依然として扉はあけられたままで、その前を何人もの学生たちが横切っていきます。
この瀬川の研究室での対話と朗読のシーンは、演技者にとってもかなり難しいシーンだったのではないかと思いますが、瀬川(渋川清彦)の抑えた演技と、奈緒(森郁月)の堂々とした落ち着いた演技で抽象度の高い次元でのリアリティを生み出しています。抽象度が高い次元での、というのは、これはいわゆるリアリズムから言えば、あり得ないような設定であり、対話であって、むしろ主役は対話と朗読の言語そのものであるような一種の言語劇の趣を呈しているからです。二人が語る言葉、朗読される言葉が対峙し、緊張を孕み、ぶつかり、受け止められ、変容していく、そこに<劇>が構成されています。
奈緒は自分がスマホにそれまでの瀬川との会話をすべて録音していたと言い、自分が瀬川を陥れようとここへ来たことを告白します。しかし、瀬川はそのことよりも、いまの録音を全部自分にくれないかと言います。
それは第三者への暴露を怖れてではなく、自分の作品を読む奈緒の朗読に魅せられたからだというのです。奈緒は一つ条件があると言い、自分の朗読を聞きながら、その箇所を読むときにオナニーをしてほしい、と注文をつけ、それを瀬川が諒承すると、あとでメール添付で録音ファイルを送ることを約束し、瀬川の研究室を出て行きます。
奈緒は彼氏に言われたようにハニートラップをしかけに来てはみたものの、もともと瀬川が教授として好きで、その小説も心から愛読してきたようで、そこでは恋人の学生の意向を受けて教授を陥れようという悪意はもともとなかったかのように、瀬川に対する自然な敬愛の情を失っていません。
それで、彼女は帰宅後に録音ファイルを添付したメールを瀬川宛に送るのですが、その際、瀬川が言った「大学のアドレスに瀬川とつけてくれればよい」という指示をうっかり失念したか、気づくことなく大学のアドレスへ送ってしまいます。
それから時間がとんで、5年後?だったか、奈緒がバスの車中にあるとき、あの恋人だった元落第生の彼が乗り合わせてきます。彼女がみるからに不機嫌な顔をしていますが、彼のほうは上機嫌の表情で、何年ぶりかなと話しかけ、隣の席へ強引に座ったりします。
二人の会話から、奈緒がミスで大学へ送ってしまった例の朗読を録音したファイルを添付したメールが原因で、瀬川が大学を辞めざるを得なくなり、いまは何処で何をしているかもわからなくなっている、ということが私たち観客に分かります。奈緒の意志に反して、しかし瀬川に復讐しようとしたその元男子学生の思惑どおり、「偶然」にも瀬川は二人のせいで、世間の表舞台から姿を消さざるをえなくなったわけです。
この第二話では、「偶然」はほとんどラストに近い、奈緒のメール送付のミスと、その結果生じた瀬川の辞職、奈緒の意図せぬ「ハニートラップ」(男子学生の「復讐」)の成功という事態を指すことになるでしょう。
「想像」はどこに働いているかといえば、このエピソードの中心をなす瀬川の小説の一節を朗読するところで、登場人物奈緒と瀬川のいずれにも働いているのが「想像」力でしょう。その力がなければ、奈緒と瀬川を結びつけるものがなく、また瀬川を失脚させるものもなくなってしまいます。「偶然」と「想像」はこの物語においても非常に重要な位置を占めています。
第三話「もう一度」は、卒業後20年ぶりの同窓会に出た夏子(占部房子)が、同窓会の参加者にほぼ知った顔もなく、自分が若いころからずっと誰の関心も惹かない存在だったことを再確認するような形でホテルに戻り、所在ない一夜を過ごして、翌日東京へ帰ろうと仙台駅のエスカレーターを上がる時、偶然みかけたかつての同級生あや(河井青葉)と「再会」します。
なにか配達物が届くので家にいなくてはならないから、お茶でも飲みに家に来ないか、というあやの誘いで、あやの自宅へ行くところから始まります。
ここでは「偶然」はもちろんこの20年ぶりの「再会」です。いまはエリートサラリーマンと結婚し、二人の高校生(だったか?)の息子をもち、立派な邸宅に住んで、お茶など習いに通う、誰が見ても「幸せ」そうな(彼女自身の言い方では「幸せと言わなければ叱られそうな」)家庭生活を営むあやは、しかしどこか充たされないものをもっているようです。
他方夏子は今も独身で、自ら自分は幸せじゃないと言い、(だからこそ)あなたはいま幸せ?とあやに尋ね、最初は、わからない、あまりそんなふうに考えた事がない、というあやに、私はそれだけが知りたいことだ、という風に迫ったりするのです。
とにかくそんなふうな会話を交わすうち、出遇った時は二人とも互いにてっきり旧友だと思い込んでいたけれど、お互いの名も知らないことに気付きます。夏子の方は、もちろん知ってるわよ、とその名を言いますが、全然別人でした。つまり二人とも別人と間違えて、自分の旧友だと思い込んでいたにすぎないのです。
しかし、そのときにあやは、夏子が旧友~じつはレスビアンで、夏子はその旧友に対して言いたかったこと、言うべきであったことを言わずに別れることになったことをひどく悔やんでいたのですが~だと思っている人に、「じゃ私がなろうか」、と言って、あたかも夏子のその旧友であるかのように、なりきって「私は・・・」と夏子に向き合い、対話するのです。
そして、夏子が帰っていくのを見送りに仙台駅へ行くと、今度は夏子のほうが、あやが思い描いていた旧友に自分がなろうと言って、その旧友を演じてみせます。つまり相手がほんとうはこうであってほしかったと望んでいた相手になり切って向き合い、互いに後悔のような形で心の底にわだかまっていたものを拭い去るような役割演技をするわけです。
そのことによって二人はそれまでのどこかぎこちなさの残る「偽物の旧友」の出遭いから、ほんものの旧友どうしのように心が通い合うようになって、別れの時を迎えます。
最初は嘘であることを互いに知っていて、演じているわけですが、そうしているうちに感情が入って、それがほんとうのこと、のようになっていくのです。それは「想像」の力であり、それを具現化する言語の力でもあります。そして、それはまさに演劇というもののありようそのものではないでしょうか。
この想像力≒言語による劇が通常のリアリズムを超えた言語劇の次元で濃密なリアリティを持ち得たのは、夏子とあやを演じた女優(占部房子、河井青葉)の素晴らしい演技のおかげでしょう。二人ともすばらしかった。
とくに互いの旧友をみずから演じることになってからの二人の間の感情の変化をあれだけ自然に、ごくわずかな時間のシーンで成し遂げるのは演技者として非常に困難なことだったでしょうが、みごとにやりとげています。
第三話では「想像」は、申すまでもなく、互いの旧友の役を演じること自体が、それぞれの「想像」力の働き以外のなにものでもないでしょう。そこでは「想像」こそが、そしてその具現化としての言語こそが、物語の核心に位置しているのです。
このように、三話が三話とも、「偶然」を物語の起点、あるいは転換の要に位置して物語を起動させ、あるいは転換させ、「想像」或いは言葉自体が、物語の実質的なコンテンツを成していると言ってもいい物語になっています。
この短編集を通してみた時、ふたつのことを強く感じました。ひとつは、登場人物たちの感情が非常に強く、濃く、深い、ということです。
エピソードそれ自体としては、ある意味でどこにでもありそうな話であり、どこででもみいだせそうなシーンだと思えますが、その中で登場人物たちが見せる感情が実に強く、濃く、深い。いや物語の設定には、ちょっとあり得ないようなものもあるけれど、作中の転換がなされるまでのシーン、登場人物同士の対話等々は、みなどこででも私たちの周囲でみられるような、ありふれたものに見えます。
第一話のタクシーの中での長い対話にしても、ごくごくありふれた若い親しい女性どうしののろけ話です。けれど、それが芽衣子が元カレのもとへ行ったとたんに、つぐみの話を笑って茶々を入れながら聞いていた芽衣子の内面の恐ろしい血まみれに傷ついた獣がのたうちまわるような光景に一変してしまいます。
この落差、この日常性の背後にひそむ奈落の深さ、人間の「業」のような感情の強さ、濃さ、深さがこの作品の特徴のひとつです。ちょっとした偶然がありふれた平穏な日常の底に潜んでいた傷口をこじあけ、人間の<業>のようなものを顕わにする瞬間を、とくにこの第一話は鮮やかにとらえています。
もうひとつ、三つの話に共通に感じたのは、その語り口が非常に「演劇的」だということです。それを説明的に言うのは今の私には難しいのですが、登場人物たちのセリフの語り方や、立ち居振る舞いの至る所でそれを感じました。
そこで何を語ろうとするか、それが非常に明確で、登場人物たちのセリフの内容も言い方も、とてもそれがはっきりしている、という印象です。
いわゆる普通の糞リアリズムから言えば、そうした日常的な会話というのはもっとずっと曖昧で、いい加減で、省略的で、前後のコンテキストや人物の振る舞いや表情で補って交わされるものだと思いますが、この作品では登場人物たちのセリフはそれだけで自立しているかのように明確、明晰です。言葉自体が自立して、互いに対峙し、ぶつかりあい、<劇>を生み出していきます。
そして立ち居振る舞いは立ち居振る舞いで自立していて、例えば第二話の奈緒は狭い教授の研究室で、演劇の舞台で朗読するように、開いたドアを背に教授の本を朗読し、やがて舞台に置かれた小道具である机の向こうへ廻って、教授の隣の椅子に座ります。なんでもない動作だけれど、そういう動作とカメラの位置が、なぜか彼女が舞台上の空間にいて、これしかない、という脚本に定められた位置に正確に移動するかのように感じられます。
第三話はもろに登場人物が演劇的場面を実現すること自体が物語になっていますから、申すまでもないでしょう。
こうした語り口の様式(スタイル)が、これらの作品に非常に確かな印象、ブレの無い確固とした印象を与えていることは疑いないのですが、それが夫々の物語の表出として、どのように貢献しているのか、表現論的に語り尽くすことはいまの私にはちょっと荷が重いので、ただ覚えに書き留めておくだけにしておきましょう。
いずれにせよ、期待どおり、見ごたえのある作品でした。
blog 2024年01月16日