奇跡の丘
(パオロ・パゾリーニ監督)
「奇跡の丘」(パオロ・パゾリーニ監督)1964
この映画には懐かしい思い出があります。”大学は(中途で)出たけれど・・・”drop outしてロンドンで遊んでいた20代の半ばころ、たまたま知り合ったイタリア人の自称作家(実際に書いていて一部を朗読してくれたこともありましたが)Lucianoという同世代の男が、作家ではチェザーレ・パヴェーゼの熱烈なファンで、映画では、このパゾリーニのこれも熱烈なファン。
小説の方はイタリア語はもちろん英語でも、一冊読もうと思ったら半年はかかりそうな私(笑)に読ませられないとみて、ひたすら私をロンドン中の場末の映画館へ連れて行って、パゾリーニの映画を見せたがったので、どこかでパゾリーニを上映していることがわかると、彼がやってきて、今晩行こう、と引っ張っていかれたものでした。
メジャーな娯楽映画を映画館でたまぁに見ることしか知らなかった私には、いきなり片っ端から見せられるパゾリーニはまったく退屈で、少しも面白くなく、拙い英語で熱烈にパゾリーニを語って私を啓蒙しようとする彼に対して申し訳なかったけれど、まるで馬の耳に念仏でした。
でも異国の地で数少ない友人でもあり、たしかに文学や映画にはとても造詣が深くて、ロンドン大学のあるカレッジでやっていた夕方からの映画学校にも引っ張っていってくれて、英語で受ける映画の授業で、彼が英語で論じられるほどの語学力とも思えないのに果敢に教師の見せる映画に、それがいかに下らない映画かを主張したり、ちょっとエキセントリックなところがあるけれども、その言うところには共感するところがあったので、いつもただ素直についていったのでした。
残念ながら文学についても映画についても、言葉の関係もあって彼からちゃんとした影響を受けることができなかったけれど、「奇跡の丘」を見た時のことはまだ覚えています。
これも2-3シリング(当時の実感的換算では100円か150円くらい)で小さな汚れた場末の映画館で観ました。なぜこの映画についてはよく覚えているかと言えば、新約聖書については日本で何度も繰り返し読んでいて、エピソードの隅々まで記憶していたから、その記述に忠実なこの作品は一通りの意味では全部内容がわかったということと、それだからこそ、この映像作家が、なぜこんな映画を作ったのだろう?と疑問に思ったからでした。
これじゃ聖書に書いてあるとおりなぞって映像にしただけじゃないか、どこに映像作家としての主張があり、アクセントがあり、選択があるのだろう?というのが私にはわからなかったのです。
それで、イエスがエルサレムに帰るときに飢えていて、道端にいちじくの木があるのを見つけてそれに近づくのですが、実は一つもなくて葉ばかり。それでイエスは怒って(笑)、いちじくの木に向かって、これからのちいつまでも、おまえは実を結ぶことはないだろう、と言うと、たちまちいちじくの木が枯れてしまったので、周囲の人たちがみな驚いたという場面があるのですが、ここで笑ってしまって、隣の席の彼に、シッ!とたしなめられたのです。
私は日本にいるときから聖書を信仰者として読んでいなかったので、信仰は山をも動かす、というイエスの託宣の前座のように置かれたこのエピソードを、これじゃイソップの「酸っぱいぶどう」とどこが違うねん?(笑)という受け止め方で読んでいて、こういう場面を実際の俳優で大真面目に演じられると笑うしかなかったのです。まぁ、当時の若い私は、聖書の奇跡の記述にはどこででも躓くほかはなかったのですね。
そんなことがあって、この作品をよく覚えていたのですが、それから半世紀近くたって、ようやく再見したわけです。今回何も考えずに、老人になってから、生涯で2度目にビデオで見たこの映画は、なかなかのものに思いました。あれから、カラーでイエスの生涯を描いたほかの映画も見ましたが、それらよりもいい、と思ったのです。
見たばかりで分析的に言うのは少々難しいけれど、まずモノクロの単純さが聖書の世界を描くのにすごく生きている感じがしました。そして背景の荒野、砂漠、そして貧しい人々の住まうごつごつした岩の小高い丘などの家々などが、まさにイエスが生い立ち、人々に教えを広めた世界はこういう世界だったんだろうな、と思わせるような風景でした。
俳優が結構みないいのです。最初に登場するイエスの両親、最初がマリアのアップで始まるのですが、夫となるべきはずの許嫁の子でない子をみごもってしまって、憂愁に満ちた表情のマリアが、とてもいい。そして、そのマリアを見つける実直そうな大工ヨセフの表情もまたいい。
さらに、苦しむヨセフの前に現れて、あれは神の子なんだから気にせずにマリアと結婚しなさい、と受胎告知を演じる天使がすごく素敵な女性で、その後もイエスが磔刑になってから、3日後によみがえりガリラヤへ行けば会えると人々に告げる時も現れますが、もっと登場してほしかったほどです(笑)。
イエスもジェフリー・ハンターみたいに目が大きく澄んでキラキラとオーラをかんじさせるような、いかにもキリスト顔という役者ではなくて、おでこの広いちょっとかわった顔で、私は今回みて、「千と千尋の神隠し」のカナオシの顔を連想しました(笑)。早口にまくしたてるこの作品のイエスは宗教者というより煽動家にみえます。
俳優さんもいい存在感を出していたと思いますが、この作品で何よりも強烈なのは、そのイエスのまくしたてる「言葉」です。もちろん一言一句新約聖書の言葉で、そこから一歩もはみ出るものではありませんが、それがこの作品で聴く者、観る者に肉薄してくるような強度で立ち上がってきています。
ひとつにはあの速射砲のように猛烈なスピードで繰り出される科白まわしのせいでしょう。イエスの声も聴く者を激しく煽動するもので、教え諭す言葉ではありません。よく調べてはいませんが、あれは福音書の中でもマタイを使っているでしょう。あの激しさは素朴なマルコでも優等生のヨハネでも網羅的なルカでもなく、激情の人マタイのものだという気がしました。
旧約の世界と新約の世界との違いが、民族なり民俗から離脱しない牧歌的な共同体的な倫理の世界と、それらを振り捨ててぐいぐいと個人の内面にぎりぎりの選択を迫ってくる個人的な倫理の世界との違いで、キリスト教がユダヤ教から生い立って世界宗教になった飛躍の根拠がそこにあったとすれば、パゾリーニの描くイエスの言葉は、まさにそのような新約の世界の本質だけを抽出した、物質のような「力」として、観客の心に働きかけてくるようです。
きっとこの映画の主役は言葉で、マタイの福音書から生命をもって立ちあがってきたものだったのでしょう。
Blog 2018-9-22