ヴィヨンの妻(根岸吉太郎監督 2009)
もちろん封切のときから気にはなっていたけれど、原作に恥じない映画が撮れるわけないだろう(笑)とハナから映画を信用していなかったので、まぁ若い頃からの太宰ファンの端くれとして、見に行く気にはなれなかった作品。
ひとつには、森田芳光の「それから」をみて、森田でもこれか、と思って、いわんやほかに誰がこれ以上のことができる?と思い、この種の精神性の高い文芸作品を映像化するのは極端に難しいんだろうな、と思って敬遠していました。
谷崎の「細雪」などが映像化しやすいのはよくわかりますが、漱石や太宰はうわっつらを撫でるような「再現」映像はできても、所詮テレビのワイドショーなんかでやっている "事件の「再現」映像です"、なんてのと変わらないものになってしまうんだろうな、という偏見を持たざるをえなかったのです。
しかし、今回手当たり次第ということで、まぁ一度観なきゃ話にもならんわ、と思って観てみたら、これが案外良かった。根岸監督の作品というのは、昔々、時々読んでいた立松和平のたぶん代表作だった「遠雷」を映画化した作品を1本だけ映画館で観たことがあって、悪くはなかったけれど、それほど心を動かされはしなかった(原作も同じ)ので、今回観る2作目についても期待していませんでした。それが結果的には良かったかも(笑)。
松たか子が主演というので、う~ん、さっちゃんに松たか子・・・と疑問だったのですが、案に相違して私の理想のさっちゃんから言っても80%くらいの出来で、彼女の持つ身体性とか資質から考えればかなり距離があるはずの役をすばらしく演じこなしているな、と感心しました。
本当は芯の強い女性だけれども(それは松たか子もそうだけれど)、外見だけで言えば私は、みかけはもう少し見ているだけで哀しくなるような色白の透き通るように美しい、ほっそりした首筋の、凛とした女性というイメージなので、その種の幻想味よりも現実味のある強さを感じさせる松たか子は、少しイメージが違ったのです。
でも椿屋の夫婦が「こんな立派な奥さんがあるのに」と驚くような、古典的な意味で申し分のない気品に満ち、美しく、賢明で、貞淑で、控えめだが芯の強さを感じさせる、しかも既婚の女性ならではの自然な色気も備えている、そういう面では原作のさっちゃんを見事に生きてみせてくれたように思います。
昨夜これを見てからずっと、ほかにどんな女優がこのサッチャンを演じられるだろうか、と考えてみましたが、どうしても思い浮かびませんでした。きょうの昼間、パートナーと喋っていて、彼女にも尋ねてみたけれど、やっぱり彼女もほかに思い当たらないようでした。それほど難しい役なのです。
外見だけで言えば、森田芳光が「それから」で使った藤谷美和子が、色白の哀しくなるような美しさにやや近いように思うけれど(好みによるすごい偏見かもしれないけど・・・笑)、本当は芯の強い、感覚的に鋭敏で、決して古いタイプの女性ではなくて、貧しさや荒廃や不信の中で、汚されても汚れずにささやかでもまっさらな紙に初めて文字を書くように自分の人生を選び取っていこうとするような、或る意味で「新しい」前向きの資質を持つ女性でなくてはならないので、それはやっぱり彼女には無理じゃないか、という気がして、この松たか子のさっちゃんは、すごくいい線いったな、と思って、代わりができる人を思いつけませんでした。
太宰のファンならこの原作は私もそうですが、10回や20回は読んでいるでしょうから、ほとんどすべてのセリフを、自分では暗唱できなくても、聴けば、あぁ、そのセリフがどの場面であったな、というようなことは何十年たってもすぐ思い起こせるので、こういう映画をつくるのはめちゃくちゃ難しいはずです。セリフが原作と違ったりするとすぐ耳につくし、その場合はおそらく原作を超えるのは難しいので、改悪に違いない(笑)。
でも一カ所、決定的な場面で、原作でさらりと触れられていることが、この映画ではその通りに描かれてはいません。「お店に一人で残っていた二十五、六の、やせて小柄な工員ふうのお客さん」は原作では大谷先生のファンで自分も詩を書くと言いながら、荒っぽい口のきき方をする、工員らしい工員で、その他大勢の客の一人のようにアクセントを置かずに書かれていますが、この映画では妻夫木聡が演じて何度か登場し、さち子とのやりとりを通じて独自のエピソードを形成していますが、決して悪い人間ではなく、さっちゃんに想いを寄せる純情素朴な青年として描かれ、それゆえ、何も二人にやましいところはないのに、大谷が不信を抱いた妻を試す、というまるで漱石の「行人」で兄が妻直に不信を持って弟の二郎に彼女の節操を試させる、例のエピソードを思い起こさせるような設定になっていて、そのことで大谷の人を信じることができない孤独と絶望を浮かび上がらせるという仕掛けになっています。これはもちろん原作にはありません。
しかし、この処理については私は感心して観ていました。原作ではほんの一行「そうして、そのあくる日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。」とあるだけだけれど、これはこの作品を読んでいて私と同じ十代初めの純情な読者は絶対にショックを受けるところで、作品の中の決定的な意味をもった一行でしょう。まるで幼子のように透明無垢なところのあるさっちゃんが汚される。それは神様が大谷に下した罰のようにも読める、作品にとっては非常に重要なエピソードです。
それを映像作品としてどう処理するかは、見る前からとても関心を持っていました。或る意味では太宰的ではない、漱石的な主題へ転移することで処理したんだと思いますが、かといって、その主題自体が深められているわけではありません。
ただ、原作では問題にならない大谷の妻への不信や嫉妬心がこの映画では登場人物の行動を促す重要な要素として、いくつか伏線を張って持ち込まれているので、それはそれで納得のいく処理になっています。そのために妻夫木演じる工員との店での出会いや帰りの電車内のエピソードも原作より濃い意味をもって丁寧に時間をかけて描かれることになります。
ただ、そういう不信や嫉妬心を持ち込んだために、さっちゃんは無垢で透明な幼子(≒神様)のような存在ではなくなっています。もう少し人間味のある、というか女性味のあるというか、現実的な女性に近づいています。
原作ではさち子を透明無垢な存在にすることで、そのむこうに大谷の見る神様のように絶対的なものを私たちも感じ、またそのようなさち子を鏡のようにして大谷≒太宰の自画像がよりくっきりと浮かび上がるようになっていますが、根岸の映画作品ではさち子がより現実的な女性の肉体と心を持ち、不信や嫉妬の対象となる女性となることで、そのような絶対的なものは透視しにくく曖昧になり、大谷≒太宰の自画像も変質しています。
或る意味では、嫉妬し猜疑心に苛まれる凡庸な夫、恰好をつけているだけの凡庸な文士に見えてくるところがあって、原作のような彼らの向こうに神様のような絶対的なものを垣間見させるような透明感は失われています。従って、原作と同じ、ラストのさち子の決め台詞「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」が原作ほど効いてこない憾みがあります。
最後のシーンはモノクロで終わりますが、原作に忠実であろうとするなら、上記の決定的なエピソードに変更を加えない処理をして、この映画をモノクロで撮ったほうがよかったのではないかと思いました。