お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました(遠藤ミチロウ監督)
出町座で昨夕、遠藤ミチロウ監督の「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」を見てきました。
いまや伝説のロックバンド「ザ・スターリン」の中軸メンバーで、解散後もいまにいたるまでミュージシャンとして精力的に活動を続けて全国還暦ツアーを慣行し、震災後の故郷福島で絶叫する遠藤ミチロウを追うドキュメンタリー・ロードムーヴィー。
彼がザ・スターリンを率いて、客席に鳩の死骸や豚の頭・臓物を投げつけたり、爆竹や花火を投げ込み、全裸で舞台から放尿するような過激なパフォーマンスで物議を醸していたらしい時期も、その前後も含めて、ロックミュージックなどには縁もゆかりもなく、ロックバンドなどに関心をもったこともない私が、こんな映画を観るなんてこれまでは考えたこともなかったので、出町座でやっていなければ、あるいは、たまたま身内やその関連でちょっと知った人の名をスタッフに見ることがなければ、死ぬまで縁のない世界のままだったでしょう。
正直のところ、先日ビデオで見た青山真治の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」で浅野忠信が演奏するような大音響の「騒音」を小さなホールで聴かされるのは苦手なので、あの場面はあの映画のクライマックスで、一番いいシーンでもあったと思うけれど、苦手には違いないので、今回はパンク系のロックミュージシャンのドキュメンタリーとなればそれは避けられないだろうな、と覚悟していきました。
たしかに私の苦手な大音響や絶叫はあったけれど、この人の声にはロックなどまるで縁のない私にも感じられる魅力があって、結構楽しんで受けとめることができたのは、こちらにもう若いころのように拒否するエネルギーが弱くなったせいかどうか(笑)。福島のライブでの「スターリン」の字幕の出た曲や、この映画のタイトルにもなっているラストの「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」は素晴らしいパフォーマンスでした。
ふつうは逆に若いころほど、全身でこういう激しい音楽を感じて、細胞の隅々まで響き合うような体験をするのでしょうが、私の場合は若い頃はこういう音楽をうけつけなかったのです。いまはもちろん身体で感じるなんてことはできないけれど、ある距離感を持ちながら、多種多様な音楽の広い幅の中の一つのありようとして、自然に聴くことができるようになっているのを感じます。
たぶん伝説で語られるような、ライブでのパフォーマンスの「過激さ」は、もちろんその時その場にいればびっくり仰天したでしょうし、歌詞の意味やグループのメンバーらの行動において、その時代の常識をはみ出すところがあって非難を浴びたり、排除されるようなことがあったのでしょうけれども、そんなことは時を経て振り返ってみれば、ほんとうにちっぽけなつまらないことのように思えます。
それは倫理的な意味で非難したり擁護したりするような目線で言っているのではなくて、広い意味で文化に属する人間の表現にとって、こういう現実の行為として現れるいわば実力行使みたいなものは、どんなに「過激」に見えても、その表現が行われる時代や社会のより大きな「現実」の前では、ほんの一ミリのひっかき傷さえ与えることができないほど卑小なものでしかなく、そのことがほんの少しそういう場を離れ、時を離れてみれば、よくわかる、ということなのだろうと思います。
けれどもまた、そういう卑小でしかないパフォーマンスを通してなされる表現が卑小であるかどうかはまた別問題で、その表現が多くの人々の心に響き、様々な意味で甚大な影響を与えてきたのだろうと思います。
このドキュメンタリー作品で大震災・原発事故を契機に、故郷福島で敗戦の日に行われたライブや映画のタイトルにもなっている「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」を歌うミュージシャンの姿を見ると、彼の80年代の過激なミュージシャンのありようから、鳩の死骸や豚の頭や臓物、あるいは全裸での放尿みたいなものを濾過して、もともと彼のうちにあった柔らかな感受性ややさしさにごく自然に裏打ちされ、一層純化された「過激さ」を感じさせるような気がするのは、これまでの彼をしらない私だけでしょうか。
若い女性詩人と語る彼の柔らかな物言い、優しく温かな眼差し、故郷で母親と見せるごく普通の、おそらくは比較的豊かで良識があり、愛情に満ちたきちんとした家庭の母子の姿などを見ると、このミュージシャンの「過激さ」が、決して欠如に由来するものではなく、むしろ過剰として、熱い魂から溢れ出たものであることがわかるような気がします。
それゆえ、彼は故郷に対して、あるいは肉親に対して、或る意味でアンビバレントな感情を持たざるを得ない自分について率直に語っていますが、そのことをあまり俗流フロイト的に深読みしないほうがいいと私は思います。そういうアンビバレントな感情は彼固有のものではなく、誰にとっても多かれ少なかれあるもので、それを誇大妄想的に拡張することでどう世界と向き合うか、という向き合い方に固有性があらわれるので、それを逆向きにたどっても彼に行き着くわけではないからです。
ネットの中で遠藤氏自身が語っている言葉がほかにあれば読みたいと思って探してみたとき、こんな言葉があるのを見つけました。
原発に対しては、ひとりの住民としてどう思うかが大事だよね。よくミュージシャンとしてどう思うかって聞く人もいるけど、そんなもんは関係ないんだ。例えば(放射線衛生学者の)木村真三先生が言うように、いま一番やらなきゃいけないことは除染や正確な線量検査だよね。僕らにできることはまずそれをきちんとやって、対応の仕方を知って、少しでも放射能の被害を少なくすることだから、そこに表現者もくそもないんだ。それは市民として行政と一体となってやらなきゃいけないことだから。で、この<プロジェクトFUKUSHIMA!>でやっているのは、今の福島から思いや文化を表現として発信することができないかということで。そこで初めてミュージシャンとして何が出来るかを考えるんだ。文化で何ができるかを考えた時に、初めて詩人とかミュージシャンっていう名前が付いてくるんだ。だけどこれが今の原発問題をどうするかに取り組むだけのものだったら、和合(亮一)さんであろうと大友(良英)さんであろうと、肩書きなんて必要なくなるんだよ。
ーーー「project FUKUSHIMA ! 8.15 世界同時多発フェスティバルFUKUSHIMA! 8.15 遠藤ミチロウ インタビュー」(インタビュー&文:渡辺裕也)https://ototoy.jp/feature/2011100500 より
みごとな見識だと思います。
遠藤氏は吉本(隆明)さんの影響を深く受けたと、この映画でもちらっと紹介されていました。
吉本さんがまだ詩人として少数の人には知られていても、一般に広く知られる人ではなかったころですが、'60年安保闘争で共産党や社会党など既存左翼と袂を分かった全学連(当時の)の急進的な学生らと共に戦って、共闘者たちに強いてマイクを持たされ壇上にあげられたとき、こういうときに詩人なんてものは何の役にも立たない、自分は一人の大衆としてここへきているので、諸君の戦いを尊敬している、というようなことを言っただけで壇を下りたという逸話があります。
後の論戦の中でこのときのことに触れた文章でも、こういう場であくまで物書きの肩書を背負ってふるまおうとするような姿勢を批判して、自分はあくまでも一兵卒として参加したのだし、そうあるべきだとし、しばしばそうではない知識人、文化人のありようを虚名による錯誤として批判していました。遠藤氏の上のような発言に、吉本さんの思想の影を見るのはいまも吉本ファンの私の主観かもしれませんが、そうであろうとなかろうと、すぐれた思想的態度だと思いました。
彼が福島のステージに立って歌い始めるとき、私はカメラに従って彼の間近に寄り添う目線になって、遠く距離を置いて見える多数の聴衆と向き合うことになりました。ほかに演奏するメンバーは何人かステージ上にいるけれども、実際上、たった一人で、何千人か何万人か知らないけれども、これだけの聴衆に対峙して、さあこれから彼らの魂に自分の叫びを、自分の歌をぶつけて、なにかを伝えようとするわけです。
そのとき私は自分の中に、途方もないエネルギーが必要なことをこの映画のこの場面を見ていて、まざまざと感じました。テレビの人気アニメでゴクウとかなんとかいうのが出て来て、自分の肉体の外部の広大な大気から「気」を集めて自分の内部へ取り込み、メガトン級の「気」の塊みたいなものに凝縮して、「カメハメハァーッ!」とかなんとか叫びながら、ものすごい高エネルギーのレーザー光線みたいな白く輝く放射光をぶつけて吹っ飛ばすシーンがありましたが(笑)、福島のステージに立った自分にも、あれくらいのエネルギーが要る、と思えるほどでした。
間近にとらえられた遠藤氏には、そんな「気」の塊がいまその身体の中にみるみる膨らんでいくようで、彼が叫びを発したときは、そのレーザー光線のような「気」の塊が遠く離れた無数の聴衆のほうへものすごい勢いで放たれていくのが見えるような気がしたのです。ああ、これか!と、そのとき彼の「過激さ」と言われているものの正体を見たような気がしました。彼の絶叫も、あの「過激な」歌詞も、激しい演奏も・・・。
もちろんそれは彼ほどのミュージシャンをまるで知らなかった私の他愛ない思い込みで、幻視・幻聴の類だったかもしれません。けれども、この映画作品の一素人観客としてあのシーンを見ていて、カメラや音録りが、見る私、聴く私を、そのように導いていくのを感じたことは疑うことができません。それらは確かにそんな「気」をとらえようとしてステージに立つミュージシャンに肉薄していたように思われ、また実際にそれをとらえていたように思います。
もしたった一人の相手にあれだけの膨大なエネルーをもつ「気」をぶつければ、あのアニメのように相手は一瞬にして吹っ飛んでしまうでしょう。ひるがえって、そんな「気」をちょうど磁場の内部にプラズマを閉じ込めるように集めるなんて常人には耐えられないし、私があのカメラに導かれ見ていて味わったのもそんな怖れのような感覚でした。
あのプラズマのような「気」を集め、ステージに立つ瞬間にいつでも自分の内に再生できる、というのはものすごい膂力が必要で、少しでも心身が衰えれば、まずそんな「気」を集める力が衰えて不可能になっていくに違いないし、よほどの精神力で続けても、今度は身体がボロボロになるのではないか、という気がします。遠藤ミチロウというミュージシャンが、そんなことを還暦すぎてまで続けてきたというのは、ほとんど信じられないことです。
いま彼はすい臓がんで手術して病床にあるそうです。この映画の一観客でしかないご縁ですが、すぐれたミュージシャンのご回復を、心からお祈りしています。
Blog 2018-12-10