ゾンからのメッセージ(鈴木卓爾監督)
出町座で12日に見てきました。不思議な映画です。
わたしのように映画を気晴らしの娯楽としてたまたま出会うような形でたまに見る(最近は時間ができたので手当たり次第に見ているけれど)ような観客は、だいたい古典的な物語を追っかけたり俳優さんをめあてに見たりということが多いので、例えばこの映画をそんなふうに物語を追っかけてみると、なんじゃこりゃ?とさっぱり分からない、ということになります。
でも、それは自主製作映画や、最近映画評論家が、いい、いい、と褒めるような同時代の映画には少なくないから、あぁ、メジャーな商業作品とは違う系統の作品なんだな、と割り切って、たまたまそういう作品を見てしまった不運(笑)を諦めつつ見て、その中におや?あんがい面白いな、と思えるものがあれば儲けもの、という感じです。こちらがアングルのような古典的な絵画やせいぜい印象派が好きですなんて言ってるときに、いきなりポロックの絵具をキャンバスに投げつけたような作品を見せられるんだから、手ぶらで見て理解しよってのが土台無理なんだろうと思います。
映画評論家などが持ち上げる作品には、わたしのような観客は初めから来てくれるな、観てくれるな、と拒否しているような作品が少なくありません。のちにメジャーな映画の配給システムに乗るような商業映画で成功をおさめたような監督の作品でも、行って見れば習作時代にあたるような若いころに撮った作品は、そんな作品がむしろ一般的です。御本人は若いころから一貫して何か自分のこだわりをもってひとつのことを追っかけているのでしょうが、無責任な一人の観客としてはそんなことは知ったこっちゃないので、つまらないものはつまらないし、最初からお高くとまったセレクトショップみたいにオーナーの趣味を押し付けるような店に拒まれたら、なんだよ、お高くとまりやがって、と捨て台詞の一つも残して立ち去るだけのことです。
ただ、「わからなさ」がいつも「つまらなさ」とイコールかと言えば、そんなことはありません。わからないけれども、なんだか面白そう、興味をおぼえる、とか、なにかしら心にのこって、あとあとまで気になる、といった経験は始終しています。そういう映画と、もうあっしとは縁もゆかりもござんせん、これっきりでござんす、というような映画と、どこが違うのか、今の私にはうまく表現はできません。でも勘で言ってしまえば、閉じた映画と開いた映画、というふうに言ってもいいような気がします。
それでいうと、この「ゾンからのメッセージ」という映画は、わたしたちイチゲンさん的な映画観客にとっても、めいっぱい自らを開いてみせてくれている作品という印象です。作り手の趣味や思惑や思想(と思っているもの)に凝り固まって自閉し、開かずの扉を開けて入っていける者だけが映画的感性の持ち主だ、と言わんばかりの作品とはあきらかに違っているようです。
誰でもこの映画を観る人が最初に驚かされるのは、空がなにか視覚化されて色んな色のついた電磁波が入り乱れて干渉し合うような激しく変化する不思議な映像に置き換わっていることです。それが、或いはもしその向こうというものがあるとすれば、その向こうが、「ゾン」の世界のようです。そして、そのこちら側は、ごくありふれた日本の農村みたいな風景があり人々の暮らしが営まれているようです。もちろんそんなわけのわからない「ゾン」の存在をもはや既定の事実として受け入れて暮らしていること自体が異様といえば異様なわけですが・・・
ただ、その「ゾン」は自分たちの生きる前提みたいな既定事実として自然化されているかと言えば、そうではないようで、あっちの世界へ行こうとする人が常に少数ではあっても居て、行ってしまう。ただし戻ってきた人がいないので、向こうへ行くと死んでしまうことになるのか、それともあっちの世界が快適だからそのまま住みついて帰ってこないだけなのかは、こっちの世界の人にはわかりません。
だから、こちらの人々にとって、ゾンの世界はつねに興味と恐れと両方を感じさせずにはおかない世界です。また、それは、こちらの世界の人が一方的に思っているだけの世界ではなくて、つまりこちらの世界の人の単なる幻想にすぎないものではなくて、あちらの世界から、ビデオテープという「メッセージ」が降ってくるという形で示されるような、働きかけもあるような、現実的なものです。
ここまで書いてくると、自然にこのゾンというものにかすかなある種の既視感をおぼえないでしょうか。何か分からないけれども、私たちがいつも生きている「こちら側の世界」はのっぺらぼうに広がっているわけではなくて、どこかに境界があって、目に見える見えないは別として壁のようなものがあり、私たちが遠くを眺めているように思っているのは実はその壁を眺めているだけで、その壁の向こうの世界は私たちの理解を超えた世界のように感じられる、そしてもちろんその壁の向こうの世界に対する関心はあるし、行って見たいとも思うけれど、大きな不安や恐れもある。いまの暮らしを失い、この生きる場を失って未知の世界で出遭うものがなにかも分からないことへの強い不安と恐れがある・・・
それはいまの私たちだけではなく、多かれ少なかれ限られた時間と空間の中で自分たちを守る共同体を構成して生きて来た人間のありようにつながって、太古の時代までさかのぼるような原始的な関心と恐れのアンビバレントな感情のような気がしてきます。いまの私たちはその目に見えない壁はふだんは目に見えないんじゃなくて無いんだ、とみなして安心して生きているのかもしれませんが、ほんの100年もさかのぼれば、それは具体的に村人たちを脅かす雪女みたいな化け物であったり異様な姿をした山人であったりしたのでしょうし、「こちら側」からは移動を禁じる制度や関所のような具体的な壁として可視化されたことでしょう。
いま私たちがこの作品の異様な「空」を見る時に感じる既視感には、そういう歴史的な関心と不安の痕跡が私たちの心に残っているせいかもしれません。
この作品にリアリティがあるとすれば、その可視化された異世界(の入り口?)に、またそれに対する「こちら側」の人たちの関心や恐れのありように、またもしゾンが消えたら、そのときの解放感になるのか虚脱感になるのか分からないけれども、そういう感覚なり、それが生活風景の中に現れる現れ方にリアリティがあるか、といったことが問題になるのではないかと思います。この作品ではゾンが消えた世界は「2年後」という形でわずかにラストでさりげない形で表現されるので、それはとてもいい感じのラストですが、この作品自体はゾンが厳然としてそこに存在してメッセージを送ってよこしたときの人々の右往左往のところに焦点がしぼられています。
そういう意味では、この作品はあの「ゾン」の空を、あるいは大地にゾンの銀河が渦巻くような井戸を創り出したこと自体で、映像的にそんな「あちら側」の世界を可視化し、「こちら側」の人々の右往左往を通じて、リアルなSF的手法というよりは、マンガ的にぶっ飛んだ空想的手法で、その種のリアリティを生み出していると感じられました。
それを可能にしたのはこの作品の制作に用いられた非常に多様な表現技術なのでしょう。そこでは、生きた俳優や田畑の風景をとらえる映像の質やシネカリグラフィーと言われるらしい技法で描き出される「ゾン」の映像の地の質、あるいは「BAR湯」の四季を描くアニメーションの質みたいな、基本的な表現のベースの質の違い、ふつうは違和感のないように融け合わせ、相互に埋め込み、境界を消していくはずであるようなテクニカルな処理をせずに、そのまま接続してしまうような、一見素朴なアマチュアのコラージュみたいな手法で織り上げられた作品。
ごく普通の実写映画の作品みたいに見えるところでも、青年が村人たちにインタビューしてまわって言葉をかわしているところなどは、この作品のメインストリームに収まるよりも、なにか独立したドキュメンタリーで冷害による畑の作物の被害についてインタビューしている、みたいな印象で、作品を一つの織物として見たとき、あきらかにそこは素材の生地が違うんじゃないか、という印象だし、映画を撮っている撮影現場も継ぎ目なく登場するので、いったいこれは劇中劇で演じているのか、それともこの作品の演技として演じられているのか、観ていてあれ?と分からなくなるところもありました。
これはコラージュはコラージュでも、同じ紙切れや布切れなら布切れだけで作るコラージュではなくて、紙も布も石も砂もひょっとすると植物や動物も寄せ併せて貼る台紙自体が色んな素材で、みたいに、いまだとそういう可視的なモノの素材や生きた人間、動植物だけでなく、コンピュータで作り出す映像や音も含めて素材として集めて、デジタルに「糊付け(コラージュ)」する、といった技術ベースのApplied Science Fiction 的な作品になっているんじゃないか、と思います。
そのリアリティとマンガ的な嘘くささとが終始拮抗しながら展開されていくのが面白く、飽きずに見ていました。つい画面の隅々に、どこが「ゾン」の領域になっているかを探す目になってしまって、「あれ?あの空は普通の青空じゃねぇか?あれでいいの?塗り忘れたのでは?」と思ったり(笑)・・
非常に美しい場面もあって、それは最初と最後に登場する、あやしい紫いろっぽい空の上層・草の緑色に小さな黄色い花が所々見える原っぱか土手のような中層、そして紫の花が一面ぎっしりと群れ咲く下層に綺麗に画面を三層に分ける平行な色の三本の帯が構成する画面、そこを女の子が水平に横ぎって歩いていくシーンで、これはパンフレットの表紙(正確には表紙に空いた窓からみえる最初の絵)にも使われているシーン。それから映画の最後に近いシーンで、「一歩」と「麗実」が海辺へ来て麗実が瓶を海に落とし、二人がゾンからそれがまた落ちてくるんじゃないか、と見上げるシーン。
(16日追記:今朝ふと思い出したのですが、ずっと以前に奈良か京都の国立博物館でみた日本の古い衣装か何かをテーマにした展覧会だったでしょうか、その中に古代のものだったと思いますが「糞掃衣」(ふんぞうえ)といういろんな異なる素材の古布をパッチワークして作られた、一枚の比較的大きなボロ布と言っていいような展示品が目をひきました。釈迦の時代からそういういまでいう布地のリサイクルみたいなもので修行者が身に着ける粗末な着衣をこしらえたようで、何十種類もの異なる古布の小片をつぎはぎしたもので、たぶん当初は本当にボロ布だったでしょうが、だんだん色合いとか選ぶようになって結構華やかなものになったようです。「ゾンからのメッセージ」のテクニカルな手法を言うのに「コラージュ」なんていう横文字のお洒落な言葉はあんまりピンとこない・・・笑。で、連想したのがこの「糞掃衣」で、まさにあれではないか・・笑。上映後に行われた鈴木監督と細馬さんのトークを聴いていたら、フィルムにママレモンか何か垂らして、表面が融けて面白い効果が出る、というような手法も使ったそうですから、まさに何でもありで、しかも普通はまともな映画では(笑)使わないような手法も総動員して創り出された映像のようですから、その結果がこの開かれた誰もが新たな楽しみ方自体をみつけていけるような作品ということになっているのだろうと思います。)
blog 2018-11-16