ハルノ宵子さんの『猫だましい』というエッセイ本を、昨日寄った書店でたまたま見かけ、タイトルからして面白そうだな、と買ってきて読み始めたらほんとに面白くて一気に読んでしまいました。
面白いと言っても、面白可笑しい、というだけとは一味も二味も違い、書いてある内容は、ほんとうは相当に凄まじいことです。間質性肺炎でほぼ余命が限られていますよとか、階段を上がるにも息切れがし、股関節変形症で朝起きれないほど激痛があったんですとか、そんなのが全部ヤワに見えてくるほど、そこに描かれている生身のハルノ宵子さんの日常は、壮絶の一語につきるようなものです。
ところがそれを彼女はいかにも面白可笑しいことのように、何といえばいいのか、生身の彼女が遭遇するそれら常人には耐えがたい出来事のすべてを、いつものように仕事をし、三度の食事をし、排泄し、眠りといった日常を送っているところへ、たまたま自分を訪れる不意の客のように、驚きもし、当惑もするけれど、その様子は、ほとんど目を輝かせ、まるで「まぁ久しぶりねぇ」と長く会わなかった友人でも迎えるかのように、普通だとショックで落ち込んでしまいそうなその遭遇をありえないほど素直に受け入れて、好奇心に満ち満ちた目で仔細に観察し、ほとんどブラックジョークになりそうでいて、ぎりぎりのところでその重さも暗さも鋭さも軽やかな語り口に昇華して、読む者が思わず吹き出したり、ニヤリと笑ってしまわざるをえない(そして、おいおいこんなところで笑ってもいいのかな、不謹慎じゃなかろうか、などという思いが一瞬心をよぎるものの、つい笑ってしまう)読み物になっています。
「ま〇こからう〇こ」なんて、常人はもちろん並みの作家やエッセイストなんかには、とても口にすることはできないでしょう(笑)。ハルノ宵子さんはそれをさらっと言ってしまう。それは言葉の上のことではなくて、彼女には普通は恐ろしく深刻に受け止めるべき事態、もちろん彼女にだって驚きも衝撃もないはずのない事態を、そんなふうに受け止める姿勢、生き方といってもいい、生きる姿勢が一貫しているからだと思います。
私のパートナーはハルノ宵子さんの前の著作を読んでファンになり、わたしあなたにお会いしたことがあるんですよ、とファンレターを送ろうと思ったことがあるそうです。彼女がハルノ宵子さんのどこに惹かれているんだろうね、と話していて、その文章の巧みさかな、その生活思想かな、生き方かな、などと話していたのですが、それらの言葉のどれも、ちょっと大げさすぎてどれもピッタリきませんでした。それで、私たちの結論は、彼女のものごとに対する「姿勢」に惹かれているんだろうね、ということでした。
ちょっと曖昧な言い方になりますが、「ものごとに対する」を「ひとに対する」あるいは「自分がこの世の中で出遭う一切のものやことに対する」さらに大げさにいえば「世界に対する」姿勢と言いかえても同じことのように思います。
それは生身の彼女の父親である吉本隆明さんが思想家と言われるような意味での「思想」というと大仰に聞こえてしまうし、彼女はプロの物書きだから、吉本隆明さんのいう「大衆の原像」のように、すべてを生活に還してしまう大衆の生活思想と言っても違和感があるのです。
それが彼女の資質に由来するものなのか、またこれまで生きてきた中で自然に鍛え上げられてきた姿勢なのか、さらには彼女の強い意志的な姿勢が長い歳月を経て自然になってしまったものなのか、あるいはそのいずれもであったりするのか、それは微妙で私には分からないところがあります。
しかしこの本を読めば、ずっとそうした「姿勢」がごく自然な形で貫かれていることが見えてくるし、ひとつひとつの事態の受け止め方や人との関わり方の底に、彼女のそうした「姿勢」があることは疑いようがないと思えます。
彼女のそうした「姿勢」は、私たちに限りない勇気を与えてくれるような種類のものです。それは、世の中にはあんたよりもっとひどい目に遭ったり、つらい思いをし、激しい苦痛を強いられている人が現にここにあるのだから、あんたはまだマシだと思いなさい、という類の慰めではありません。そういうものにはこれまでも何度か遭遇してきましたが、それは単に強い人だな、自分には及び難い人だな、と思うだけで、「ひとごと」のようにしか感じられなかったのです。
しかしハルノ宵子さんがここで限りなく自然に見せている「姿勢」は、いわば気持ちの持ちようによって、或いは自分も、それこそ姿勢をちょっと変えてみたら、或いはそんな姿勢がとれるのかもしれないな、という、励ましに似たものを感じさせてくれます。
ひとが悲惨なこと、凄絶な事態と見なすようなことも、それに遭遇するまでは何でもないことなんだから、そんなこと取り越し苦労する必要なんかないし、全然こわがることなんてないんだよ。そいつがやってきたらやってきたで、おう、とうとう来たか!と迎えればいいだけのことじゃないの。どっちみち逃げようはないんだし、やってきたものは素直に受け入れて、そのかわり耳も目も研ぎ澄まして、その初めての出遭いを徹底的に観察し、味わってやろうじゃないの・・・なんだかそういう、ふてぶてしいまでの素直さ(語義矛盾のようですが・・・笑)、こういう「姿勢」の前では、どんな事態も、ただその実際の物的な作用以外のどんな過剰な恐れ、不安、絶望も与えることができないでしょう。
ハルノ宵子さんに私のパートナーがお目にかかったことがある、というのは、ハルノさん、そのころは本名の吉本多子(さわこ)さんですが、京都のS大学の学生さんだったときのことです。S大学は全国の大学に先駆けてマンガが専攻できる学科を作っていたので、漫画家を目指した(そして実際にプロの漫画家になった)彼女はそこを志願して、多分東京のおうちを離れて入学し、下宿での一人暮らしを始めたばかりの頃だったのではないかと思います。
私は仕事に出かけてパートナーはそのころ生れたばかりの長男と家にいたのですが、ある日呼び鈴が鳴るので玄関に出てみると、一人の女子大生がちょっとばつが悪そうな様子で立っていて、「吉本隆明の家族なのですが、父に言われて・・・」と長男の誕生祝いを持ってきてくださったのです。
パートナーは私が吉本ファンであることも、雑誌「試行」を読んでいることも知ってはいましたが、そんな個人的な関わりをもつようなことがあろうとは全然予想もしていなかったので驚いたようですが、多子さんは「父のやっている『試行』の長年の購読者ですから・・・」と言っていたそうです。見知らぬ人のところを訪ねるのは億劫なことだったでしょうが、お父さんに言われて、おそらく自分で選んで買ってきてくれたのでしょう。何頭かの動物たちが座席に座る形で、動物と座席を同じ木の厚板から切り出して一体化した列車をかたどってあり、子供たちが動物園で見て好むような象や鰐たちは簡単に取り外しができ、赤ちゃんが舐めたり噛んだり口に入れても危険のない、いい感じのおもちゃでした。
パートナーがまだ生まれて間もない長男を抱いて玄関先で見せると、可愛いですね!と言ってくれたと今でもパートナーはそのときのことをよく覚えています。その後、この玩具は長男も2年後に生まれた次男も使いまくり、しゃぶりまくって(笑)、遂には動物たちの首が折れたり、割れたりするまで役目を果たしてくれましたが、いまはたしか地下の「メモリーボックス」の中で静かに眠っています。
長年の『試行』の購読者だったとはいえ、もとよりそれを発行してきた主宰者に個人的な関わりを持とうというような考えは私には全然なかったのですが、ちょうど購読料切れの案内がきて次の何号か分の購読料を送るときに、いつも何か時候の挨拶みたいなことをひとこと書きそえたりしていたので、たまたまこのときは長男が生まれた直後だったことから、自分でも初めての子で気持ちが高揚していたせいか、親しい友人、知人への手紙に書くような長男の誕生のことを何気なく、枕に書いたのだったと思います。
それは雑誌の一読者に過ぎない自分の分を越えたある意味でちょっと常識外れの振る舞いだったと思いますが、吉本(隆明)さんの面白いところというのか、私などが好きなところは、そういう非常識に対しても意に介さず、逆に向こうからすっと手を差し伸べてくる、といった印象があるのです。ちょうどスクリーン上で憧れていた俳優が、突然観客の一人にすぎない自分に手を差し伸べてくれるような感じです。
こういう率直さは、それ以前にもう一人、秋山清さんという詩人にも感じたことがありました。私家版のような小さな彼の詩集を読んでみたいと思って、代金は分かっていたけれど、いきなり送金して在庫がなければ迷惑をかけると思ったので、ぜひ読ませていただきたいのだが、まだ在庫はあるでしょうか、と尋ねる手紙だったか往復はがきだったかを出したのです。すると、いきなり詩集を送ってきてくださって、お手紙が添えてありました。このときも、なんだか憧れの俳優さんがいきなり銀幕から観客席の私に声をかけてくれたような気がしたものです。
そんなわけで多子さんは私の長男の誕生祝いを持っていくようにとお父さんに言われて、そんな知らない人のところへ行くのぉ?と思われたに違いないけれども、わざわざ時間を割いて素敵なお祝いの品を探し選んで持ってきてくださったのです。
夕方仕事から帰ってこれを聞いて、多子さんに直接会ってお礼が言えなかったのは残念でしたが、きっと自分が知らない初めての家を訪ねてばつの悪い思いをされたろうな、と気の毒に思いながら、それでも本当に気持ちがうれしくて幸せな気持ちになったのを覚えています。
パートナーも、また遊びに来てくださいね、くらいのことは言ったでしょうが、何といっても私はお父さんの雑誌の一読者というだけの人間だから、彼女もそう気軽に訪ねては来にくかったでしょう。その後はもちろん一度もお目にかかる機会もなく、後日彼女がハルノ宵子さんというペンネームでプロの漫画家になっておられる、ということはお父さんの著作(誰かとの対談か何か)で知ったのでした。また、妹さんのほうも吉本ばななのペンネームで人気作家になったことを、こちらは書店で著書がたくさん並ぶようになって知りました。
あの時戴いた玩具で遊んだ長男も、いまではもうアラフォーで、そろそろ昔の言い方で言うなら「中年」の域に入ろうとしています。だから、あの時大学生だったハルノ宵子さんが、高齢者の仲間入りし、平生の結構不規則で身体的には苛酷なものと想像される長い作家生活で、色々と不調に見舞われるお年頃であろうこともまた、無理からぬことでしょう。ただ、そうしたご自身の状況をこのような見事な姿勢で受け入れ、凄絶な状況を哄笑で笑い飛ばすような姿に、あらためて感動すると同時に、逆に自分がつよく励まされるのを感じています。
ぜひ私のような高齢者にも、また遅かれ早かれ歳をとるには違いない若い人にも、ぜひ読んでほしいエッセイです。もちろん猫好きにもね(笑)
(追記)
私も最近このブログで「半医の医」を20回前後書いて、自分の背負った病について比較的じっくり考えてみると同時に、今の日本の医療や医師のありように疑問を呈するようなことをしてきたので、ハルノ宵子さんの医師や看護婦との関わり方や感じ方、医療に対する考え方には共感するところがたくさんありました。
ちょっと私的なことを書き込み過ぎたので、ブログを整理する時についでに全部カットしてしまいましたが、読んできてくださった方が、ハルノ宵子さんのこの本を読まれたら、あ、似たようなことを考えるもんだな、と思われるかもしれません。
骨粗鬆症対策で骨密度を上げるために「4週に1度、起きぬけに呑んだら、今度は寝てはいけないという珍妙な薬」で、「場合によっては顎骨壊死という重大な副作用もある」という薬剤の話のところへ来ると、あぁ、ベネット錠でしょう!と一声入れたくなったりして(笑)。
私も足掛け6年間ほど飲まされて、確かに多少骨の代謝を遅らせて骨成分が増えるような効果があったようですが、歯を1本抜くにも大学病院の高圧酸素室で「手術」しなければならなかったり、私のみるところ長期のひどい味覚障害がこの薬のせいで起きたのでした。
あまり味覚障害がひどいので、医師に訴えて薬剤の量を減らし、ベネット錠の服用はすっぱりやめてしまったので、それからほぼ1年で味覚障害は消えていきましたが、このビスフォスフォネート製剤といわれる薬剤は相当問題のある薬剤であることは確かです。ああ彼女もこんなのを飲まされていたんだな、と。
吉本隆明さんが亡くなった事情についても、「肺炎で入院したが、実際の死因は多剤耐性菌感染症(MRSA)だった。つまり院内感染だ。」というのを始めて知りました。
実は私の両親も全く同じで、父の場合は特発性肺線維症が進行し、肺全体がスリガラス状にくもったようになる炎症を起こしたのと腎臓がひどく悪くなったのが入院のきっかけではあったけれど、それでステロイドを大量に入れ、その結果免疫力が落ちて、入院してからMRSAにかかってしまい、呼吸困難になり、父の場合は人工呼吸器を装着しなかったので、あっさりと亡くなりましたが、直接の死因は院内感染のMRSAでした。
母もほぼ同様で、結核で若いころに片方の肺を全摘出していたので、残る片肺で80歳まで生きてきたのですが、やはり最後は特発性間質性肺炎になり、最後の最後はMRSAで呼吸困難を起こし、人工呼吸器をつけて1週間はほぼ意識のない(と信じたい)状態ながら痛みではなく苦しみは残るらしくて、苦しみぬいて亡くなりました。
だから、あぁ吉本さんも私の両親と同じような状況だったんだなぁ、と思ったのです。
もう一つ吉本(隆明)さんについて私が初めて知った情報がありました。それはA新聞社系の出版社の女性スタッフが吉本さんのおうちへ緊張しきった表情でやってきて、帰りはほっとした表情で帰って行った、と描写されている出来事です。
そのA出版が文庫本化しようとしていた吉本さんの著書『老いの超え方』の初版には、被差別部落問題について批判的な発言の箇所があるのを、A出版では文庫化にあたって、その部分を削除してほしい、と頼みに来たものの、思想的な原則を曲げない吉本さんのことだから拒否されるんじゃないか、と編集スタッフは戦々兢々の思いで緊張して訪れたらしいのです。ところが吉本さんがあっさりOKしたものだから、肩の荷を下ろしてほっとした表情に一変したというところらしい。
吉本さんにしてみれば編集スタッフの質問に率直に何でも答えたインタビュー記事を編集した本で、話のついでに話題として軽く触れただけのこと、もはやそんな文言が残ろうと削られようが、どうだってよかったのでしょう。
当時社会的な被差別者の正義を独占販売するかのような態度で他者の言論に脅迫的な姿勢を隠そうとしない左翼面した文筆家や怪しげな団体に対して、一般的な文化人、知識人たちが難癖付けるチンピラを避けるように口をつぐみ、下を向いて、率直に批判しなかったのを、吉本さんは間違っていることは誰が言おうと間違っているし、そもそも被差別者を支援するふりをして、スターリニズムそのままにそうした組織の権力、権威を盾に個人としての言論人を脅迫したり、潰そうとするような行為を断じて見過ごしてはいけない、という考え方でしたから、自身が主宰する『試行』誌の冒頭に毎回状況への自由なコメントを掲載していた「情況への発言」などにおいても、しばしば何の遠慮も会釈もなく批判していました。
出版社などの中には、その種の団体からイチャモンを付けられるのを恐れ、またそうした団体の同伴者を装うことが進歩派の看板を掲げていられる証だと思い込んでいるようなところがあったので、吉本さんのような率直な批判的言辞に逆に恐れをなしたのでしょう。
彼らの過敏症が、吉本さんが拒否するのではないか、という緊張を強いたのでしょうが、吉本さんは思想的な道筋を通すことはいうまでもないけれど、そんなつまらない対象に対して、たまたまいきがかりで浴びせた一言にこだわって、そこに過剰な思想的意味を担わせ、削除を拒否するような人ではないことも、長年彼の著書を愛読してきた者には自明のことではありました。
私は一般の書店〈および京都の「三月書房」のように特に吉本さん関係の本を集めていた書店)で手にはいるような一般刊行物としての吉本さんの著作は、たぶん断簡零墨の類に至るまで一度は目を通していると思いますが、後半になると文庫本しか買ってなかったのもあったかもしれないし、あるいは両方買ってはいても、主著以外は、文庫化されたら、もとの単行本のほうはかさばるからもう処分していいか、なんて思ったせいか、単行本が手元になくなっている著作もかなりあるようです。
今の話題の『老いの超え方』も、確か初版の単行本があったはずだと思い、そのどこで被差別部落問題について批判的なことを言っているのか、どう批判しているのか、再確認してみたいと思って探したのですが、結局本そのものがみつからず、見つけたのは出版社に頼まれたその箇所を削除したという文庫本だけでした。残念!(笑)
まあこんな風に、直接にハルノ宵子さんがご自身の体の不調に関して今の私と似ているところがあったり、医療等々についての考え方、姿勢に共感できるところが多かったり、ちらちらと見え隠れする家族としてのお父さんの姿がファンの私にはやっぱり興味深くて、この本は色んな意味で楽しめました。
お父さんに対する形容句で苦笑せざるを得なかったのは、「戦後最大の思想家などと言われている、めんどうな人」だったでしょうかね、とにかくそういう文言に、まさに「戦後最大の思想家」と彼のことを考えてきた隆明ファンの私などは、家族にとってはそうなんだろうねぇ、と苦笑するほかはありませんでした(笑)。
しかし、例えばオウム真理教についての発言で他の物書きやマスメディア、多くの普通の市民たちからもバッシングを受け、中には結構親しかった友人、知人の中にも離れていく人があった、と書きながら、ハルノ宵子さんは、吉本(隆明)さんがきちんと思想のレベルで語っていることを理解し、決して麻原の犯した殺人等々の犯罪を擁護するようなものではなかったことをはっきりさせているのは当然ではあるけれど、さすがだと思いました。
本当は誰しもあの事件が起きたとき、東大だったか東京工大だったか、忘れたけれどそんな世間で一流と言われる最高学府で学んだような人たちが、なぜ一見とんでもない食わせ物にしか思えない麻原などに惹かれてその言葉に耳を傾け、命じられるままに無差別殺人を自らの手でやってのけるところまでいきつくのか、と信じられない思いがし、疑問に思ったはずでした。
しかし、私も含めて多くの人々の目は、そのことよりも犯罪事実の重さやその組織の異様さのほうに行ってしまい、自分たちと何も変わるところがなかったはずの平凡な(むしろ私~たち~よりも優秀な頭脳を持っていたのであろう)人たちが、そのような行動を引き起こすに至ったのは何故なのか、という当初の疑問、不審にこだわることを手放し、この事件を自分のこととして考えることを放棄してしまったのだと思います。
しかし、吉本さんは、この当初の問い、疑問を、ずっと思想家として問いつづけて、安易な答えを導くことなく、それを問うことが必要なのではないか、と語り続けていたのでした。
吉本さんが世間のいわゆる多数派からバッシングを受けるのはこれが初めてではなく、たぶんオウム真理教の事件、そして反核運動に対する「反核異論」、それにおそらく連合赤軍事件に対する発言あるいは先にみたような被差別部落関係の団体やそれを代弁する同伴知識人たちへの苛烈な批判等々、数え上げればきりがないかもしれません。
多くの進歩的知識人たちが、そうした事件、問題に対して、マスメディアに象徴されるような世論の大勢になびき、とりわけリベラルな体裁をとったきれいごとにつくか、さもなければ沈黙してやり過ごす、という態度をとってきたのに対して、吉本さんは殆どつねにたった一人で、孤立をおそれることもなく、自分の批判的な見解をはっきりと私たちに伝え、公表してきたのです。
こんな思想家は誰が何といおうと、現代の日本にはほかに一人もいなかったし、この社会、この時代への向き合い方として類例のない稀有な「姿勢」であったことは誰にも否定できないでしょう。
おそらくハルノ宵子さんは父親とは別の道を歩んで自立してこられた作家として、「戦後最大の思想家などといわれる面倒な人」とは、この種の議論をかわそうとはしてこられなかったに違いないけれど、語らなくてもよく父親の思いを理解している素敵なお嬢さんをお持ちだったのだな、と一ファンとしてはほっとさせられるようなところがあります。
blog 2020.12.29