ラルジャン(ロベール・ブレッソン監督) 1983
トルストイの中編小説が原作(原案?)の作品のようですが、私はその小説は読んでいません。裕福そうな家庭の少年が友人に借金していて、返すために親のすねをあてにしたのが断られて、言い訳にその友人のところへいくと、友人はニセ札を渡して、それを使って釣りをもらうよう唆し、二人で写真店へ行って小さな額を買って、少し怪しまれながらも首尾よく店の奥さんから釣りをせしめます。
騙されたその店の奥さんとご亭主は、今度はその札を燃料屋への支払いに使い、結局燃料屋の従業員イヴォンヌが貧乏くじをひかされ、知らずに食堂でそのニセ札を使って告発されます。彼は写真店を告発しますが、写真店の店員ルシアンの偽証によって裁判では敗北して、刑務所には入らずに済んだけれど、保釈されるだけで、失職します。
それでニセ札に端を発した連鎖は断たれず、イヴォンヌは知り合いの強盗の手助けで逃走用の車を用意していて未然に逮捕され、3年の実刑を受けて今度はほんとに刑務所に入れられます。
妻も娘もいて平穏だった彼の生活はそのことで一変し、服役中に娘が病死し、妻の気持ちも離れてしまいます。妻の離反のことをからかった同僚に集団での食事の最中に怒りをぶつけ、その男をか止めにはいろうとした職員かを通りかかった食堂の台車にあった金属製の杓子みたいなので殴ろうとして思いとどまり、彼の手から落ちた金属製の大きな杓子がコンクリートの床を音立てて滑って柱にぶつかります(このシーンは印象的)。
イヴォンヌは夜ごとコップを独房の床にこすり付けて不快な音を立て、神経を病んで眠れないことを訴え、睡眠薬を手に入れては呑んだ振りをして貯めこんで、それで自殺を図りますが、一命をとりとめます。
他方、写真屋の夫婦に言いくるめられて偽証したルシアンも店の金をくすねているのを知られて解雇されますが、ちゃっかり店の合鍵を盗んできていて、あとで泥棒に入るのですが、結局彼も刑務所に入ることになり、イヴォンヌとそこで再会し、偽証の件を謝罪して、脱獄を勧め、その手助けをすると提案します。でもイヴォンヌはその誘いには乗らずに、服役して刑期を終え、出所します。
そして現代ホテルという安宿に泊まり、そこで宿の主人夫妻を殺してわずかな金をとって逃走します。この殺しそのものは描かれず、血のついた手を洗うシーンでそれが暗示されるだけです
次に彼はたまたま出会った老婦人が金融機関で金を引き出すのをみていて、彼女のあとをつけ、キリスト教的博愛主義らしいこの老婦人に寛容に受け容れてもらって、老婦人の家に泊まり、そのことを激しく難じて老婦人をひっぱたく老父や彼女と同じ家に暮らしながら無関係無関心に生きる妹夫婦のことも知ったイヴォンヌは、ひたすら家事にいそしんでこの家を支えている老婦人に、あんただけが犠牲になっているじゃないか、と言いながらその働く姿を傍で眺め、ときに洗濯物をほしたりするのを手伝って言葉を交わしたりしています。
ところが、ある夜、突如惨劇は起きます。彼が納屋でたまたま見つけた手斧で、老父や妹夫妻を斬殺。その足で老婦人の寝室にも行き、起き上がってベッドで向き合った老婦人に手斧をふるって殺すのです血が壁に散るけれども、殺される夫人の姿などは一切映像化されません。
ラストはイヴォンヌが食事をするレストラン(居酒屋?)で、警官たちが入っていくと、イヴォンヌはみずから立ち上がって近寄り、ごく冷静に、自分が宿の主人たちと老婦人たちを殺した、と告げ、警官たちが彼を連行していきます。それをワヤワヤと立ち上がった店の大勢の客たちが見送るわけですが不思議なことに、連行されるイヴォンヌを目でおっかけるのではなく、警官たちとイヴォンヌの一行が立ち去ったあとの部屋のほうをみんなが覗き込むように見ています。別にそこで殺しがあったわけでも、抵抗して争ったわけでもないのに、です。
この映画、そういえばかなり以前にも一度見たことがあって、なんだか狐につままれたような気分で細部はよくおぼえていませんでした。今度あらためてみて、やっぱりずいぶんとんがった映画だな、と思いました。つまり、ふつう私のようなごく平凡な映画を娯楽として楽しむ観客が見て、物語を追って行って、すっと受け容れられるような作品ではなさそうだということです。少し皮肉なことを言えば、シネアストを気取る人種が、映画の分からんやつにはこの映画はわからんだろう、わからん奴は近づくな、と言いそうな(笑)映画です。とんがった、という意味は。
幸か不幸かそんな人種でなくても、いまはビデオでいくばくかの対価を払えば、この程度有名な作品は誰でも見ることができるので、そういう連中が何と言おうと、わたしたちはわたしたちなりの観方で楽しむなりくさすなりして話のネタにすることができますから、好きにやってみましょう。
私たちはふつう、いくばくかでも物語性のある小説なり映画なりを読んだり観たりすれば、つまり、なにか現実の出来事に似たことが継起的に起こるようなドラマを読むなり見るなりすれば、これが語られる順に、その時間を追って継起する出来事を追って行くでしょう。そして、次に何が起きるのかという好奇心で先へ先へ導かれていきます。それはどんな物語でも基本で、ごく自然なことです。
ところが、どうもそういう物語の提示の仕方が繰り返されることで、どんどん新鮮味が失せ、あらたな物語をつくるにもパターン化され、陳腐化していって、同じパターンを繰り返しているだけで、どんどん現実から乖離していくと感じられるようになったのでしょう。
内容的に色んなヴァリエ―ションを作って見ても、もうその物語の枠組み自体が嘘くさく感じられる。なんとかその枠組みを壊したい、はみ出したい、そういう潜在的な欲求が書き手、つくり手のほうに強くなって、物語の定型としての物事の継起する順序をひっくり返してみたり、一部を省いてみたり、途中でぶった切ってみたり、もう物事の継起自体を失くしてしまおうとしたり、枠組そのものを無化しようとするそれこそ四苦八苦の工夫を作り手たちが試みてきたのが、現代の小説だの映画なのかもしれません。
この「ラルジャン」も物語そのものはたぶんトルストイの小説がごく自然な継起的なものであったように、タイトル通りの「おかね」、この場合はニセ札ですが、それがきっかけになって、人と人の間にわたっていくことで引き起こされる「悪」の連鎖というのか、意図的な悪が宿命のように訪れる不運になってイヴォンヌの人生を狂わせ、当初の姿からはるかに遠く隔たった地点まで彼を連れて行ってしまうまでに、まるで悪魔の意志が深くひそかに浸透していくように広がり、波及していく、そういうありさまを描いているといえるでしょう。
トルストイの場合は、イヴォンヌの老婦人との出会いあたりでの転回によって、今度は逆過程、つまり悪ではなくて善がそうした連鎖を創り出していく帰り道も描かれているようですが、ブレッソンの映画では往路だけで還路は描かれていません。
黒沢清監督はこの映画のラストに「希望」を見たそうで、そのことが二、三のネット上の映画ファンの記事で話題になっていましたが、それが私の違和感を覚えたあのラストのシーンです。レストランの客たちの視線が向かっているのがイヴォンヌや警官の一行ではなくて、彼らが立ち去ったあとの空虚な部屋のほうで、その空虚な部屋に辛うじて、すでに過ぎ去った「希望」を見る、というか、現代における希望というのは、そういうものとしてしか実現されない(描けない)んだ、というブレッソンの意志をみるといった解釈をしている人がありました。
なかなかうがった解釈だけれど、そこまでこの作品が明示的か、誰もが肯ずることができるような物的証拠があるか(笑)と言えば、とてもそうは言えそうにありません。わかるやつにはわかる、ってことでしょうかね、ここんところも。
不自然と言えばこのラストほど不自然な光景はありませんよね。誰だってその場にいたら、連れて行かれるイヴォンヌを目で追うでしょう。なんで殺しがあったわけでもなければイヴォンヌが抵抗して暴れたわけでもない、空っぽの部屋のほうを揃いも揃って観てる?(笑)
ホテルの惨劇も、古典的なふつうの映画なら、イヴォンヌがなぜここでいきなり殺人を犯そうとしたのか、その行動と心理を納得させる根拠を何らかの形で明示した上で、彼がどんな武器を使って、どんなふうに、どんなタイミングで宿屋の夫婦を殺したのか、彼らがどんなふうに断末魔を迎えたのか、そのときイヴォンヌはどんな表情をし、どんな精神状態だったのか、そのあとどんな行動をとったかを見せるでしょうし、観客は見たいと思ったでしょうね。でもブレッソンが見せるのは、洗面台で手についた血を洗い流す、その洗う手と流れて吸い込まれていく血の色をした水だけです。
老婦人の家での惨劇についても同じです。たしかに老婦人以外の死体は見せられて殺したことは示されるけれど、みな惨劇のあとです。
普通の物語では、殺人は現実と同じで登場人物にとって重い行為ですから、自然にそれは物語の流れの中でひとつの山場になり、ぐっと密度が濃くなる部分で、それまでの色んなことがそのシーンに集約されて現れ、その後のできごとにまた波及していく、結節点のようなものになるのが自然です。
でもブレッソンの物語の語り方は、その結節点だけを慎重に全部外していくんですね。言って見れば山場だけ見せないで外していく。ただ、結果としての血液だけ見せたりするから、観客はいやおうなくそれぞれの仕方で殺人の場面を想像することはするでしょう。そういうやりかたで、全部結節点をはずして、それを観客の想像で埋めさせるやり方ですね。
それはベタに殺人のような山場を描いてみせて、想像力をその絵柄のうちに固定させるやり方が陳腐に思えるようになった時代には、そういう定型はずしの一つの工夫であるのかもしれません。だから起伏の「起」の部分を全部はずしていくと、平らになってしまうけれども、それは観客の想像力が欠けているからで、映像の作り手はその想像力を挑発する映像を提示しているのだから、生き生きした想像力でもってその結節点になるハイライトシーンを思い描いてくれなくちゃ、というのがブレッソンって人の意図なのかな、と思ってみたりもしました。
ついでに実は書店に『シネマトグラフ覚書~映画監督のノート』というブレッソンの著書があったので買ってきて、このアフォリズムのような著書を最初から最後まで読んでみました。映画と違って(笑)ここに書かれていることは全部よくわかるし、どこにも変なことは書かれていなくて、ごくまっとうな人じゃないか、と思いました。
シネマという言葉を従来の映画、彼の嫌う演劇的映画にあてて否定的に使い、彼が思うような映画というのはシネマトグラフというふうに区別して使い、またモデル、と言う言葉にも独特の使い方をするなど彼独自の言葉遣いはあるけれども、その説明を読めばみな納得のできるものだったように思います。
彼は繰り返し繰り返し演劇の比喩で語られるような映画、ないし映画のつくりかたというのを嫌悪し、否定しています。
シネマトグラフとは、運動状態にある映像と音響を用いたエクリチュールである。
フランス人はこういうオシャレな言い方をするから、日本のインテリの中にもすぐにイカレテしまって、横文字を振り回すような人が出てくるんでしょうね(笑)。でもきっと映画の本質をこれ以上端的にズバッと言い切るのは難しいでしょう。
二種類の映画ー演劇の諸手段(俳優、演出、等々)を用い、再現するためにキャメラを使う映画と、シネマトグラフの諸手段を用い、創造するためにキャメラを使う映画。(翻訳では下線部が傍点)
演劇的な映画を映画と認めない彼の立場を鮮明に表現した言葉。あとはもうひたすらこれの解説みたいなものです。
音に関しても素晴らしいセリフをつぶやいています。
伴奏の、支えの、補強の音楽はいらない。音楽はまったく必要ない。
雑音が音楽と化さねばならぬ。
トーキー映画は沈黙を発明した。
彼が思い描くような運動状態にある映像、不意打ちとしての映像を理解するヒントは次のような言葉にあるのかもしれません。
原因は結果の後に来るべきであり、それに伴行したりそれに先んじたりするべきではない。
先ほど述べたような「不自然な」血だけ見せたり、・・・というこの映画は、こんな彼の考え方の忠実な実践なのでしょう。
この本を読んでいると、自分の方法についてブレッソンはすごくストレートで職人的に正直な人だな、という気がしました。それは例えば「断片化について」、というような一節で、です。
もし表象に陥りたくなければ、断片化は不可欠だ。
存在や事物をその分離可能な諸部分において見ること。それら諸部分を一つ一つ切り離すこと。それらの間に新たな依存関係を樹立するために、まずそれらを相互に独立したものとすること。
私が先に書いたような「ふつうの」物語のように継起的にものごとを映像化していくような映画に対する嫌悪はこんな感じ。映像ではパンやトラヴェリングという撮影技法に置き換えられるわけですね。
Xの映画。文学病に感染している。次々に継起する事象による描写(パンやトラヴェリング)。
「訓練」という一節を読んだら、なんだか「ハッピーアワー」や「寝ても覚めても」で濱口監督が俳優にセリフの読みをさせるときに本番まではずっと棒読みさせるらしい、というのを雑誌かなにかで読んだのを思い出しました。
音節を均等化し、故意の個人的効果はすべて除去することをめざす読書訓練を、君のモデルたちに課せ。
ついでに、もうひとつ私がこの本で一番気に入った一節。
自分が何を捕まえようとしているかについては無知であれ、ちょうど釣竿の先に何がかかってくるか自分でも見当もつかない釣り人と同様に。(どこでもない場所から出現する魚。)
でも、これらの言葉どおり彼自身の作品が作られているかどうかはまた別問題のはずだし、彼の言葉を使って彼の作品を解釈したからといって、正解とは限らないでしょう。
先に書いたような物語の山場を外してしまって、結果だけ表現して、原因はそのあとで観客の想像力で埋める、みたいなやり方(実に乱暴なまとめ方ですが・・・笑)は、決して「運動状態にある映像」ではありません。モデルも別のところで述べている「俳優の自信に対立するものとして、自分が何者なのかわからないモデルの魅力の方を取れ」と言っているような理想のモデルではない。
監督は何が起きたかを継起的な出来事として全部把握しているし、その上でその中から彼は彼の美学にのっとって、或るシーンを選択し、再構成しているのであって、俳優もまた、セリフを棒読みして訓練してようがいまいが、何をなすべきかをすべて頭に入れて、「自信」に満ちて演技しているはずです。
そこはウォン・カーウァイの「恋する惑星」(重慶森林)のように、脚本もなく現場でいわば行き当たりばったり(笑)つくり上げた稀に見るような幸運な作品とは違うのではないか。そういうところは、いくら作り手本人が書いたものであっても、その映画がその理屈どおり作られるものだと考える必要はないし、全然別の見方ができるだろうし、すべきものだろうと思います。
「ラルジャン」という作品自体を或る意味で面白いとんがった作品にしているのは、必ずしも「運動状態にある映像」だから、などではなくて、そのシーンの選択と構成の強度に魅力があるのだと私なら考えます。映画の評論家なら繰り返し見て実証してみたいところだけれど、私はそんな能力も気もない(笑)ので、また彼の映画に出会った時に思い出せればそんなこと言ってたことを思い出すことにして、他の映画へ移っていくことにしましょう。
Blog 2018-9-24
「ラルジャン」と原作
ロベール・ブレッソンの「ラルジャン」の原作であるトルストイの一般には全集版の翻訳タイトル「にせ利札」として知られている中編小説をまだ読んだことがなかったので探したら全集版の適当なのが見当たらず、また分厚い本が増えるのもいやだったので、最小限の作品で編んだ、北御門二郎訳の『トルストイ短編集』(人吉中央出版社 2016)をみつけたので、その本で「贋造クーポン」という同じ原作の翻訳を読みました。
予想はしていましたが、映画の「ラルジャン」とは似ても似つかない、トルストイらしい、いい作品でした。映画と小説を比べるのもどうかと思いますが、どっちをとる?と言われたら、わたしの場合は躊躇なくトルストイの小説のほうに軍配を上げます。
ある人がラルジャンに触れて、トルストイの原作の前半だけ映画化して、後半をカットした、といった趣旨のことを書いているのを読んでいたので、原作を読まずに映画だけ見たときは、ただそういうものかとちょっと誤解していたのです。つまり、「贋造クーポン」が最初に使われたことが悪の連鎖を広げていって、映画で言えば主人公のイヴォンヌによる自らを救済してくれた老婦人の一家を皆殺しするというところまで行きついて、彼が自ら警官にその殺人について自首する、いわば「往路」で映画は終わっていて、トルストイの原作ではそこから回心する主人公の行為が善の連鎖を生み出していくいわば「還路」を描いているのを、ブレッソンは意図して後半の還路をカットして映画化した、というふうに。
それはある意味でその通りなのですが、原作を読むと、それほど単純じゃないな、と思わざるを得ませんでした。トルストイの話はもちろんロシアの土俗的な世界を背景としていて、悪の連鎖には階級的には様々な階級の人物が参加することになるけれど、殺人や盗みに直接かかわるのは無知無学な貧しい下層民です。トルストイが描く連鎖は悪の方も善のほうもポリフォニックで、その連鎖は単純ではなく、連鎖を形作っていく一つ一つの輪がおそろく多様で、どれ(だれ)が幹でどれ(だれ)が枝などというのもないように、いわば竹の根のように際限なく広がって相互にまた思わぬところでくっついて網目状をなすというふうで、読んでいて、あるエピソードが終わって次の輪に進むとき、前に登場した人物の長ったらしいロシア名がいきなり出てくると、おぼえてなくて、その話がなんでここに置かれたのかよくわからなかったりして、前の方のページを振り返ると、あぁ、ここで登場していたこいつか!と分かってつながっていく、みたいなところがあります。
建築家アレグザンダーの「都市はツリーではない」で知った、ツリー構造とセミラティス構造の区別で言えば、「ラルジャン」のほうはイヴォンヌを幹とするツリー構造のようにみえ、原作の「贋造クーポン」はセミラティス構造のようにみえます。ドゥルーズやなんかがいう根茎(リゾーム)と言ってもいいのでしょう。もちろん先に書いたような往路、還路の構造があって、ちゃんと連鎖はひとめぐりしてメビウスの輪のようにひとひねりして表裏逆になって元へ戻ってくるようになってはいますが、その中身はとても豊かな印象です。
それに比べると「ラルジャン」のほうは、或る意味とても洗練されていて、余計な枝をできる限りそぎ落として幹というのか、連鎖をつなぐ芯になる軸としてのイヴォンヌとその行動に的をしぼって、シンプルな物語になっています。
おまけに先日感想に書いたように、ブレッソンは通常の物語の出来事の発生順に継起的な映像を見せていくことをしないで、意図的な選択をして、むしろその継起的な出来事のピークを形づくる映像をことごとく棄て去って例えば結果を示すような表徴だけ見せて、肝心の登場人物の決定的な場面での行動や表情は観客の想像力に委ね、原因だの理由だの動機だの経緯だのといったものは、もしそうしたければ結果から逆に観客たちが考えなさい、と言わんばかりの「不親切な」映像なので、トルストイの原作ではそれぞれのエピソードに相当する出来事が継起的なつながりをもって自然に納得されるのに、「ラルジャン」では、まるで不条理劇のように唐突に殺人が行われ、また唐突に殺人者の転回が起きる、というふうです。
いくら正義のとおらない世の理不尽さに鬱屈したものをかかえていたにせよ、また、そのために刑務所でとらわれているあいだに最愛の娘を失い、愛妻に去って行かれてもはや生きる希望をなくして、自殺を試みてたまたま命が助かっただけという状況のイヴォンヌであるとしても、脱獄を手伝うからやらんかという悪いかつての知人で囚人仲間の誘惑にも乗らずに、無事刑期をつとめて出所したにもかかわらず、その足で泊まった宿の夫婦を惨殺し、また自分を寛容に受け容れてくれた老婦人とその家族一家を惨殺するのは、そうした異常な行為に及ぶに至るイヴォンヌの心の動きなり、彼をそういうところまで追いつめる外在的要因なりが示されてはいないので、ふつうは理解しがたいでしょう。だからみずからの殺人を太陽のせいにしたムルソーと重なってみえます。
たしかにいまでは、まったく自分と縁もゆかりもない人たちを殺しておいて「ただ殺したかっただけ」、相手は「誰でもよかった」という殺人者は珍しくないので、そういうもののハシリなんだ、と思えば、別に理由だの動機だの原因なんて無くていいわけでしょうし、世の中は不条理なものだし、人間の行動というのは原因があって結果があり理由があって行動があるなんて合理的なものじゃなく、もともと不合理なものなんだ、ということが言いたいなら、そういう作品があってもいいでしょう。
でもわざわざトルストイを原作に選んで、そんな映画をつくるだろうか?(笑)と考えると、私はこの映画監督のことは何も知りませんが、ちょっと違うんじゃないか、という気がします。仮に不条理劇に類するものであったとしても、そこには逆にトルストイの原作を強く意識したカウンターウエイトみたいなものを置いたようなものなんじゃないか、という気がするのです。そうでなければ、わざわざ原作の物語の枠組みを借りる必要はないでしょう。
トルストイの物語の枠組みを使いながら、後半の還路をカットしてしまったのはもちろん意図的で、トルストイ流の宗教的回心を契機とする善の連鎖を、「金」(贋造クーポン)を契機とする悪の連鎖からなる往路のようには信じられないのは、おそらく私たちも監督も同じで、後半をカットしてしまうのはわかるような気はしますが、では自分が二件の惨殺事件をひきおこしたことを淡々と平然とした顔で警官に申し出るイヴォンヌの心のうちはどういうものなのか。
そこだけはトルストイの描くような、自分を受け入れてくれて殺される前でさえも自分はいいけれどもあなたは人を殺す前に自分を殺してしまって・・・それでいいの?と言った老婦人の幻影に悩まされて回心を遂げるステパンと同じ種類のものだと言っていいのでしょうか?イヴォンヌの殺人の場での姿もこの事件が彼に及ぼした作用も最後のシーン以外には何も描かれていないので、それは分からない、というより、この映画はそれはわからなくていいんだ、というスタンスで作られているわけでしょう。そこがやっぱりよくわからない。じゃ彼の行為というのは何なんだ?と。
そうするとそれは意味なんかない、何なんだ?という問いかたそのものが間違っているので、彼はただ金がほしかったから、あるいは殺したかったから、でもいい、彼のほうの事情でやったわけで、私たちは老婦人に寄り添って、あるいはそれに近い眼で見るから、そんな理不尽な!と思うけれど、彼の立場に立ったら、そんなことは関係ない。俺は殺したいから殺したんだし、金がほしいからとっただけだ、ということになるでしょう。
濱口監督のPassionの女教師の暴力の話ではないけれど、外部からやってくる暴力というのはそういうものなのかもしれません。暴力を受けるほうは、ただ赦すことしかできないのだ、と。
トルストイの世界には神があったし、登場人物にもそれが何らかの契機によって神があることが信じられた。では神が死んだと言われてからの私たちの世界で、トルストイの登場人物たちが経験するような転回、回心というのは可能なのか。可能だとすればいかなる契機で可能なのでしょうか。
その意味では「ラルジャン」のラストのイヴォンヌの、殺人を告白して連行されるときの、悪びれる様子もなくむしろ平穏な表情がどのようにして可能なのか、あれはどういう契機でもたらされたものなのか。どうみても彼が老婦人を斧で惨殺する場面にそれが示されていたようにはみえないのですが、どうでしょうか。
警官に連行されていくイヴォンヌの姿を目で追わずに、レストランの客たちがみんなイヴォンヌらが去ったあとの隣の部屋を覗き込んでいるのはいったいなぜなのか。そこにはなにもない(血の跡も抵抗の後もない)はずなので、空っぽのありきたりのレストランの一室を見ているはずです。そこにはトルストイの登場人物たちが見るような神の世界はない。小さな善が広がっていく連鎖の往路なんか見えないはず。じゃ何が見えるのか。現代はそういうものがすべて消え失せた空っぽの部屋のように空虚だと言いたいのか。希望を空虚な部屋で示そうというのか。あるいはそこに私たちが埋めるべき善の連鎖の糸口を見よというのか。そうでなければイヴォンヌのあの居直りでもないのに平然とした表情は何なのか・・・
Blog 2018-9-25