うまい小説・へたな小説
長嶋有の『ジャージの二人』と井上荒野の『夜を着る』を、たまたま続けて読んだ。
そうすると、自然に、「うまい小説・へたな小説」という言葉が浮かんできた。
ここでいう「うまい・へた」は作品が文学的に価値があるかどうか、すぐれた作品かどうか、ということとは違う。
ここでは、『夜を着る』が「うまい小説」。同じ作者の直木賞をもらった『切羽へ』も同じ。ほかにただちに思い浮かぶのは、向田邦子の『思い出トランプ』、最近だと山田詠美の『風味絶佳』。
こういう作品は、ときに「うますぎる」というような否定的ニュアンスを含んだ奇妙な評し方をされることがあるけれど、舌がとろけるようなグルメを、ほんとに舌なめずりして食べるようなところがある。舌を巻いて感心するようなところが何箇所もあって、小説を読む楽しみを堪能させてくれる。
(その意味では、若い学生さん、ぜひ『夜を着る』の冒頭に収められた「アナーキー」という短編を読まれるといいと思います。)
『ジャージの二人』は、ここでいう「へたな小説」。「へたな小説」は世の中になんぼでもあるけれど、その多くは単に「つまらない小説」。でも『ジャージの二人』はそうではない。
「うまい小説」はその良さを簡単に指摘できるけれど、「へた」で「つまらなくない」小説の良さを指摘するのはそう簡単じゃない。
この作品はなんというか文体が「脱力系」なんですね。良いように言えば、気取りがない。文学でございという臭みがない。ケレン味がない。気負いがない。良いように言わなければ、そっけない。サービス精神が足りない。客の前へジャージで出てくる感じ?だから「ジャージの二人」なのかな?(笑)
「僕」が「別荘」へ行くこと自体が、夫である「僕」ではない不倫相手の子供を産みたがっている妻との関係抜きでは無かったことだろうし、全編にわたって「僕」の意識の中心は妻とのことで占められているはずなのだけれど、「僕」はその中心を視界に入れながら、いつも焦点はそれ以外の何かに合わせている。
小説の描写としては、その「僕」が焦点を合わせている外部のモノやヒトやコトが淡々と描かれている「だけ」のようにみえるし、そのモノやヒトやコトになにか特異なところがあるわけでもなく、劇的な展開があるのでもない。
だいたい次に何か物珍しい、新しいことが起こりそうな気がしないから、そういう意味では面白くもなんともない。
ではアンチロマン風に、外部のモノやヒトやコトを「僕」の気持ちや語り手の意図と無関係にただそこにあるモノやヒトやコトとして、意味づけされない対象として即物的に描いているのかというと(解説者はそう読んでいるようだけれど)、そうは思えない。
もしも語り手の意味づけや「僕」の気持ちから独立した対象それ自体に関心があって、そこに新鮮な驚きを見出してこのような外部のモノやヒトやコトを描いているのだとすれば、一つ一つの細部はもっと新鮮で、初めてその対象を見る幼児のように初々しい眼差しで見るはずだ。そのときには、米粒が一粒一粒立つように言葉が立つだろう。
でも、この小説の描写はそうではない。ここで描かれる対象はそうではない。むしろきわめてありきたりで陳腐な対象を、ありきたりで陳腐な眼差しで几帳面に追っている。むしろ紋切り型のそっけない視線しか注がないぞ、と決意しているかのようだ。
それは「僕」が本能的に正面から見るべきものを避けて、これら外部の何の変哲もない対象に焦点をあわせ、そこに意識的に視線をとどめているせいだ。
「僕」がこれら外部の対象のディテールに本気で関心を持って、新鮮なまなざしでその対象を見、自分の気持ちとは関わりのないそのもの自体の意味を開示している、というようなことは、この作品では起きていない。
むしろ彼は見るべきものを視野に入れながら、そこに焦点をあわせないために、これら外部のとりとめないモノたち、ヒトたち、コトたちに焦点をあわせ、几帳面にその表面を鮮明な像としてなぞっていく。
だから、そっけなさの印象は、ほんとうは関心が無いくせに、やたらディテールにこだわっているかのような視線を外部に向け、この次にはこれが見えて、その次にはこれこれが見える、というふうに、ことこまかに手順が辿られる、その「僕」のスタンスに由来する。
この、対象に向かう意欲を欠く本質的な無関心と淡白さが脱力系の印象を与えている。
対象を描く言葉はありきたりで、対象に食い込むこともなく、対象の意味を豊かに開示することもない。対象を描く文体は貧しく、その貧しさに「僕」の妻とのかかわりにおけるいま現在のありようを見なければ、これはおそろしく「へたな小説」でしかない。
敵は本能寺にあるのだと思う。その本能寺に向かうことを「僕」に禁じて、めざす敵のいないことがわかっている別の場所ばかり探すから、その抑圧のエネルギー分だけ、探し方が無意味にディテールにこだわって鮮明になる。逆にいうと、その無意味さにだけ意味がある。
「でも、夜がこんなに暗いってことを東京の人にどんなに説明しても、うまく説明できないの。いいなあとか、星が綺麗なんでしょうとか、そんなふうにいわれちゃうの」いいなあとか、そういうんじゃなくて、暗いってことだけ伝えたいのにな。
これが解説者柴崎友香が引用した作中の「花ちゃん」の言葉。でも「僕」が対象を見て描写するとき、「暗いってことだけ」伝えている、というほど素朴ではない。
むしろ、「暗いってことだけ」(妻との関係)を伝えたいのに、「花ちゃん」が言うように、そんなふうに直接、素朴に言っても、絶対に読者には伝わらないことを作者は知っているからこそ、このような「無意味」なディテールをえんえんと描写していく迂回路を通って、この作品は「暗いってことだけ」を伝えようとしているのではないか。
ではなぜ「僕」は、どこの夫婦にもありふれた他愛ないことのようにみえる、そんな妻との関係のありように、そっけない脱力系の文体を全編にくりひろげて拮抗させてみせなくてはならないほどこだわるのだろうか。
「僕」は、佇まいも性格も趣味嗜好も異なる妻と「花ちゃん」が「同じ」だと感じる自分の感じ方を辿っていって、「この世界にとって、今この瞬間にこの場所でそれをした人が花ちゃんでも妻でもどっちでもよかった、そういう感じだ」と思い、こう考える。
「そのように捉えていくと、妻の心変わりは世界の心変わりだ、そうはいえないか。僕は目を閉じた。僕はレコード針のようなもので、小さな点としてしか世界に触れることができない。だが触れている点にたまたまいた小さな妻と世界とは、実は地続きなのだ。」
blog 2008年08月25日