キム・ギドク監督「うつせみ」
しつこいようですが、またキム・ギドク監督。昔の京一会館のやり方を真似て、今週はずっとキム・ギドク特集(笑)。
でもこの映画「うつせみ」は以前に見た覚えがありました。それをほとんどしまいまで観ないと思い出さないのが後期高齢者たる所以。最近はほんとうに前に見たとき何を観ていたんだか、何一つ覚えていなくて、最初から最後までもう一度楽しめる、すばらしい老人力を備えるに至りました。
ところで、原題は「空き家」という意味の韓国語だそうです。私は邦訳もそれでよかったと思います。なぜこんな意味ありげな凝った邦題をつけたのか疑問です。日本語としては綺麗な言葉ですが、日本人がこれを聴いて連想するのは、即物的には蝉が飛び立って樹の幹にしがみついたまま残された、背の割れた抜け殻でしょうし、もう少し文化的な連想をする人なら、源氏物語の「空蝉」でしょう。そして源氏の「空蝉」は、もちろんその即物的な連想をうまく的確な喩として用いているわけで、この映画の邦題のように、単に意味ありげで意味のない使い方とは似ても似つきません。
キム・ギドク監督はまさに「空き家」が描きたかったのでしょうし、それは文字通り赤の他人がそこで生活を営んでいる(家具はちゃんとあり、日々の生活がそこにある)住宅をたまたま少なくともしばらくの間留守にしている、という意味での「空き家」を独自の方法で探してはピッキングして入り込み、盗んだり荒したりするわけでもなく奇妙なことに整理整頓、お片づけをして暮らすという奇妙な侵入を試みては見つかって追い出されるというようなことをしている、その「空き家」であり、これを喩として読みたければ、様々な人々の何の変哲もない(よく見れば変なのだけど)日常生活そのものに彼等自身が気づかず、見えてもいない空隙として観ることもできるでしょう。
なんの変哲もなく繰り返され、日々の時間・空間を自分たちの営為が埋めることで過ぎていくように見える日常生活そのものが、ガランドウの「空き家」なのでしょう。だから、テソクも彼と行動を共にすることになるソンファも、ごく当たり前のように、ちょうどそこに本来住んでいるはずの家族には自分たちが目に見えない透明人間で、そこに共存し、重なって存在していても、見とがめられるはずもないかのように、平然と侵入します。
ふつうの盗人なら、家財道具も日用品もすべてつい今しがたまで使っていたようにそこにあれば、家族がいつ帰ってくるかと戦々恐々、帰ってくるのに出くわせばパニック、というところでしょうが、テソクもソンファも、そこに生活用具はすべてそのままあるのに、平然とその家の住人であるかのように「自然に」振る舞い、本来の居住者が戻ってくると、え?と予想もしないかのような表情をして、それれらの居住者に「あなたがた誰ですか?」と叫ばれ、警察に連絡され、追い出されます。
このちぐはぐさは、本来の居住者にはみえていない空隙が、テソクやソンファにはえ?それが見えないの?というほど、自然に見えているわけで、それらの家は、みな二人にとって本当に「空き家」なのです。
なぜテソクやソンファにだけそんな日常生活の空隙が見えるのか、といえば、それはソンファが夫に痛めつけられる関係のありようを通じてちゃんと表現されています。「空き家」であることが見えない側の人々は、それが「空き家」だ、と無言のうちに指さす者を決して許さない。徹底的に、暴力的に排除します。ソンファもテソクもこの空隙だらけの社会で、暴力にさらされ、徹底的に疎外される、生き場の無い存在です。だからこそ二人は自然に結びついていきます。
この作品の世界は暴力に満ちています。ソンファをひっぱたく夫。取り調べと称して手錠をかけられたテソクに暴力を振う刑事。刑務所の独房で気配を消す練習を繰り返すテソクを棍棒でどやしつける看守等々・・・・いたるところにテソクとソンファを傷めつける暴力があります。
でもこの作品での暴力はそういう殴る蹴るの物理的な暴力にとどまりません。ここで人々の吐く言葉はほとんどすべてが暴力なのです。キム・ギドク監督が、言葉もまた暴力であると考えていることは疑うべくもないと思います。
だからこそ、テソクもソンファも、最初から最後までほとんど言葉を発しません。ソンファとの出会いのきっかけになる、ソンファに暴力を振う夫にゴルフボールで物理的な暴力は返しても、言葉で罵ることはしません。(物理的暴力のほうは、まったく同じ仕返しをあとでその夫から受けてイーヴンになります。)
ソンファのほうも同じで、彼らは二人ともほぼ全くと言っていいほどセリフを持たないのです。
かといって彼らは口がきけないわけではありません。実際、ソンファはラストに近いシーンで、夫に向かってであるかのように、実は背後のテソクに向かって、「愛してるわ」という唯一のセリフを吐くのです。
でも二人にセリフがないことは、この作品の中で少しも不自然ではありません。彼らは、この社会で「普通の」日常生活を送っている他の住民たちと違って、言葉の暴力を振わないのです。彼らはいわば受け身に徹していて、他者に徹底的に排除され、痛めつけられるけれど、自分たちが他者を攻撃することはない、受難者として設定されています。夫へのゴルフボール攻撃の時を除けば、ほぼ終始一貫無抵抗で受け身(passive)な2人の、これは受難(the Passion)劇だと言っていいでしょう。
最初に登場するソンファの家の毀れた体重計が最後に再び登場します。ほとんど透明人間のように気配を消すことができるようになったテソクが、ソンファが夫の元へ戻った住まいで、夫の背後に立ってソンファのつくる食事をうまそうに食べ、彼女を抱く夫の肩越しにソンファと接吻し合い、深夜ベッドを抜け出したソンファが彼の気配を感じて彼の存在をその手に捉える瞬間、重なり立つ二人は体重計の上。そしてそのメモリはゼロを指して動きません。
本当に彼らは透明人間になってしまったんですね(笑)。夫にはもう姿も見えず気配も感じられなくなったテソクとそれが現実に見え、捉え、抱き合い、口づけすることもできるソンファは、ともに「空き家」の見えない人たちとは存在の次元が違うことが、ここではっきり明示的になっています。
さきの受難を拡張して、いわゆる合理的、現実的な解釈でこじつけたいなら、テソクはすでに監獄の独房で痛めつけられ、受難の果てにあの世に旅立っています。監獄を出るテソクだとか、保釈されて帰ってきたテソクだとか、そんな場面もなく、カメラはソンファと夫の場面に切り換えられています。そこには切れ目がある。これは3日後の岩屋の墓(独房)からの「復活」ですね。ソンファはさしずめマグダラのマリアといったところでしょうか。
(blog 2017.7.11)