宗方姉妹(小津安二郎監督)1950
いまでいうDVの夫三村亮介(山村聡)にも我慢しながら仕え続けて来た京都出身の古風な姉節子(田中絹代)と、そんな姉を古いと言うドライな現代娘で東京の姉の家に同居する妹満里子(高峰秀子)を対照的に描きながら、姉妹の昔からの知り合いで満里子にずっと思いを寄せてきたパリ帰りの田代宏(上原謙)との関りに起因する姉夫婦の間の波乱を描いていきます。
いまこの映画を観ておそらく多くの観客がひどくショックを受けるのは、職がみつからず、苛立ちの募る夫三村亮介が、妻節子の心が田代にあることを知って彼女を責め、激しく彼女の頬を殴打するシーンではないかと思います。今時一発でも殴れば世間からDV亭主として非難の大合唱になるところですが、三村は不倫もしていない妻への疑惑だけで何発も力任せにひっぱたくのです。
こんな夫に我慢を重ねて仕えてきた彼女もこれで踏ん切りがついて離婚し、密かに心中思いを寄せて来た田代のもとへ赴く決意を固めます。ところがその矢先にいつものように泥酔した夫亮介は心臓麻痺で急逝してしまいます。それですっきりして彼女が田代のもとへ行けるかと言えばそうはならないのです。
彼女は夫の突然の死が、単なる病死や事故死のようなものとは思えない。自分と夫との関係自体に起因するように思えて仕方がない。そんな暗い気持を引きずったまま田代のもとへ行っても、田代をも暗い気持ちにさせるだけで互いに幸せにはなれない。この自分の気持ちに正直でありたい、と田代の誘いもかねてからけしかけていた妹の勧めも断わって、自分に嘘をつかないことが一番大切だと思った、と言って一人でいることを選びます。最後に二人して御所の塀際を並んで歩きながら、妹は「おねえさんて昔からそんな人よね」と言います。
この作品では姉妹の性格が誇張といっていいほど対照的に古風と現代風とに分けて描かれていて、そこが見せ場になっています。お姉さんは古い、古い、という妹に対して、姉は、あなたのいう新しさというのは去年短かかったスカートがきょうは長くいなるってことでしょ、口紅の色がきのうときょうで違うとか、そんな新しさでしょう、と。でも私は、古くならないことが新しいってことだと思ってんのよ、と言うのです。おぅおぅ!と思いましたね。実にいいですね、このセリフ。節子のような女性が言うと本当にすごい真実味を持って響いてきます。これは小津自身が、いまの(戦後の「新しさ」の大安売りみたいな時代の)世間の風潮に心中ひそかにぶつけていたセリフなのかもしれませんね。
節子が単に棄て去ってしまうほかないような古臭さに凝り固まっただけの女性ではないことは、夫の急逝を受けた最後の生き方の選択にもあらわれています。しっかりと筋のとおった、自分らしさを貫く強さを持った女性として描かれています。だからといって、いくらかはすっぱで時代の流行を追っかける軽薄な現代娘らしい妹が否定的な眼差しで描かれているわけでもありません。姉に、お父さんに聞いてごらんなさい、と言われて京都に住む生い先短い父に、どっちが正しいと思う、と訊く妹に、父(笠智衆)は、節子もお前も、自分がええと思うようにすればええんじゃよ、と両方とも肯定するような返事を返すのです。
いまの私たちから見ると、夫三村亮介と妻節子の夫婦関係はひどく古風で、職がないことに苛立って妻にあたりちらしたり、妻の日記を読んで彼女が若いころ田代に想いを寄せていたことを知って嫉妬し、田代が妻を訪ねてきて一緒にいたことを邪推して、ねちねちと不倫を勘ぐるようなことを言って責める、とんでもない夫であることは申すまでもないでしょう。まして夫の言い分をきっぱりと否定して抗弁する妻に立腹し、いきなり暴力を振うなんて言語道断でしょう。
しかし、このときの二人の言い争いには、実はちぐはぐさがあります。妻節子は、夫が自分と田代との不倫を疑っていると受け止め、自分は潔白だと主張しています。たしかに夫亮介のねちねちした責めかたは、まるで妻が不倫したのを白状させようとするかのような責め方ですから、それを言葉通り受け止めればそういう受け方になるのは当然のようにも思えます。
しかしながら、このとき亮介が本当に妻と田代の間に現実的な何かがあった、つまり不倫があったと疑っていたかといえば、私はそうではないと思います。そういう意味では妻の無実を疑っていたわけではなかったでしょう。けれども、妻の過去の日記を読んでしまった亮介には、妻の心の中にいまも田代への想いが生きているのではないか、という疑念がきざして、それが膨らんでいたのだろうと推測されます。節子への想いがかなえられずパリへ行って成功裏に帰朝し、順調にビジネスをこなしている、人格的にも愛される穏やかな田代が、いまも節子への想いを胸に秘めていることは、大学時代の友人らしい亮介にはわかっていたでしょう。そして、節子もまた実は胸の奥深く、田代への想いを隠しているのではないか。
この疑念は、「それから」の兄弟の兄嫁をめぐる心理的な三角関係において、兄が弟に、また妻に対して懐く疑念と似ています。別段弟のほうは兄嫁となにかあったわけではない。ただ、兄嫁に対する一種の憧れは持っている。それを兄嫁のほうも心憎からず思っているようでもある。兄は弟と妻との間のそうした秘めた思いというものに対する猜疑心を拭い去ることがどうしてもできない。だからわざわざ弟を妻に近づけるようなことをし、試そうとする・・・
実際節子は、妹満里子がなぜ田代さんと結婚しなかったの?と訊かれて、つきあっているときは自分が田代を愛しているのかどうかに自信が持てなかったの、そして確信が持てたときにはもう三村亮介との結婚が決まったあとだった、と答えます。そんなの取り消して田代と結婚すればよかったじゃないの、という満里子に、もうそのときは田代さんはパリへ行ってしまっていたんだもの、と言うのです。それでうかがえるように、節子はむしろ田代と別れて三村と結婚するときになってはじめて、田代への自分の愛を確信しているのです。その気持ちをいかに抑え、殺してきたとしても、その思いが完全に消え去ることはなく、心の底に封印されて隠されてきたことは疑いようがなく、そのことを彼女自身、わかっていたはずです。
ほんとうはあの夫婦の言い争いの場面で、夫亮介が妻に問いただしたかったことは、その封印された思いではなかったか。彼はたぶん自分がその封印された恋には勝てないことも本能的に感じていたでしょう。でも妻節子は夫のその思いに率直に封印を解いて答えようとはしなかった。夫の言葉の表面だけを受け取って、それにみあう公式的な返答として、不倫はしていない、彼とは誰からも非難されるようなやましいことはしていない、という、それはそれで間違いでも嘘でもない事実をもって抗弁します。
このとき夫亮介が彼女をひっぱたくので、両者の気持ちのすれ違いに気づかないで表面の言葉のやりとりだけ聞いている観客であれば、無実の妻に不倫の嫌疑をかけて、妻としては当然の無実を主張しているのに暴力を振うなんてなんてひどい亭主だ!と一方的に判断するでしょう。しかし、そこには見えていない誤差があると思います。
ほんとうに亮介が求めていたのは、「それから」の兄一郎が弟二郎に訊きたくて聞けなかった言葉と同じような、妻節子が自ら封印した思いを率直に語り、さてそこで夫に対してどういう気持ちなのか、どう接してきたのか、どう接していくつもりなのか、ということであったろうと思います。けれども、節子は胸の奥深くに封印した思いには一指も触れることなく、夫の言葉を不倫を疑う言葉としてのみ受け止め、それに対しては当然ながら自分の無実を主張する言葉を返す、という態度をとります。
これが亮介の逆鱗に触れるわけですね。夫にとって、妻の返答は居直りにしか見えないでしょう。
ここでは亮介は、「心の中で姦淫したものは姦淫したのである」というイエスのような個人の内的な倫理に踏み込んで追究する眼差しで迫っているわけです。でも節子のほうは、私は何も世間から非難されるような不倫なんて罪は犯していませんよ、と共同体的な倫理への無違反を主張しているだけで、夫の、内面の倫理を問う問いかけにはまったく答えていないのです。
だからこそ亮介はカットして殴打しながら、「おまえのそういうところが嫌いなんだ!」と言い放つのです。「そういうところ」とは何か。そこを考えないとこの場面の本当の夫婦の関係のちぐはぐさは理解できないでしょう。
そして、そこのところの理解がなければ、なぜ節子が夫の死後、それまでは夫と別れて田代の元へ行こうと決意していたのに、なぜ夫の単なる心臓麻痺による死と考えられる死を、「自分と夫との今度のことと関係があるように思える」として、頑として田代の元へ行こうとせず、「自分に嘘をつかないことが一番大切だと思った」と言って一人で生きていこうとするのかが分からなくなるでしょう。
彼女は夫との言い争いのとき、夫のひどい言葉に対して、「それじゃあんまりじゃありませんか。これまで何十年もの間、私がしてきたことが全部無になってしまう・・」というような言葉を吐きます。でも、その間、彼女は自分でも自覚はしなかったでしょうが、自分の胸の底に沈めて封印してきた田代への想いがあったわけです。
そのことに、結婚してからそれこそ何十年もたってから、おそらくはパリから帰国した田代が宗方姉妹と接触するようになったのをきっかけに、たまたま見てしまった妻の日記によって気づいたとき、亮介は自分がその何十年もの間、いわば下意識の世界で妻に裏切られてきたかのような心理を味わったのではないでしょうか。それは妻が実際に不倫したとか、実際にいまも夫と引き比べるような現実的な気持ちとして田代を愛しているとか、そういうこととは違うけれど、「それから」の一郎が弟二郎の存在を意識するときに、妻に対して感じざるをえない疑念と同様の疑念を懐かざるを得ない、ということなのです。
これは実際的な肉体の関係でないのはもちろんのこと、心理の問題でもないのかもしれません。いわばほんらいは幾つも散在する点の中で三つの点があたかも星座のように線で結ばれて、三角形をかたちづくるように見えてしまうときに、その配置、その関係自体がわたしたちに強いる内面の倫理性にまつわる葛藤なのかもしれません。
Blog 2018-12-2