第二部 『黄色い家』の言語表現の系譜
ここまでは、『黄色い家』という作品で描かれた世界、何が描かれたのか、いわゆる小説の中身(内容)とよく言われるもの、これこれの主人公が、こうしたことを考え、行って、こういう波紋が生じ、かくかくの抵抗が生じ、やがて主人公がそれらを、協力者を得て克服していく、などといった物語の展開に即して、あれこれ述べて来た。
それは小説の言語表現としては、主として指示性に着目し、その起伏とともにその流れをたどっていく読み方だった。それに対して、ここでは、そのことともちろん密接に関わっている、というより一体のものである、それがどういう主体的な言語で表現されているか、という点に着目してみてみよう思う。
「主体的な言語」とは奇妙な言い方で、小説の言語はみな作家の主体的に発した言語に違いないが、言葉というのは認識をもとにして、作者が描きたい対象を指示する、指示的な言語として、そこに何が描かれているかを読者に伝える、伝達機能としての側面を持っている(それがごく一般的な日常会話などの言語表現の主な役割だろう)と同時に、その言葉は語り手(話し言葉の場合)や書き手(書き言葉の場合)の意識、もっと具体的に言えば、対象を描こうとするときに、どんな視点に立ち、どんな距離をおき、どんな視角でそれを見るか、あるいはそれをぼんやりと視界に入れるような見方をするのか、鋭く焦点を絞って突き刺すようなまなざしでみるのか、あるいはまたそこにどんな感情を込めて見るのか、等々といった様々な内面の思い、主観、主体の側の条件をも、その言語のうちに自動的に表現するものだということができる。
それは絵画の場合を考えれば分かり易いが、眼の前のカップを描くにも、真上から見れば円い縁取りと奥行しか表現できないだろうけれど、真横から描けばこちら側に膨らみをもった長方形のようにしか描けないだろう。いずれの対象も同じカップには違いないが、その絵には画家がそれを見た観点、視角が、対象を描くと同時に刻印される。
言語の場合、そうした主体の側の条件は絵画のように描かれたものの具体的な形状等、目に見える形で示されるものではないから、ちょっとわかりにくいかもしれないが、「わたくしは」と「俺は」とでは同じこの<わたし>を指しているとしても、その<わたし>をこの<わたし>自身がとらえるとらえかたが異なる。
私たちは小説を読むとき、日常的な会話や伝達文、あるいは学術書のように、そこに何が書いてあるか、つまりそこに描かれた対象(物質的なものであれ精神的なものであれ)が何で、それらの間の関係がどうであるか、またそれがどう変化していくか、といったことだけを追っかけているわけではなく、そうしたことを描く主体(作家)がどんな視点から、その対象群をどのように捉えているか、という感情的な面も含めた主体的条件をも同時に読むことによって、その作品をはじめて文学として読むことができる。
そこで、ここではいま取り上げている『黄色い家』という作品を成り立たせている言語表現を、いま述べて来たような表現主体の側の条件を読み解く形で、それがどのように「何が書かれているか」(物語性)と関わっているかについて考えてみたいと思う。
その場合、抽象的な話に終始しないために作品の中からいくつかの文例を挙げるが、この作品だけについてそれをやってみても、少し分かりにくいところがあるだろうから、同じ作家がそれ以前に書いて来た主な(というのは短編を軽視するようで語弊があるが)作品、どちらかといえば長編小説または中篇小説に属する幾つかを取り上げて、その言語表現を確認し、その間の推移をみることによって、『黄色い家』の言語表現が、この作家の作品史において、どのような特徴的な言語表現の流れの中で形成されてきたか、いまどういう水準にあるかを自分なりに検討してみたい。
(なお、タイトルのあとに記した刊行年はそれぞれ単行本の発行年。文例の引用は文庫版によるものもあり、その場合は引用ページにその旨を書き添えた。)
●「わたくし率 イン 歯ー、または世界」(2007)の言語
わたしたちはふつう、小説を読むとき、最初はそこに書かれた<物語>を追うのが常だ。
よく知られているように、E.M.フォースターは、storyを次のように定義した。
(E. M. Forster, Aspects of the Novel, 1927)
It is a narrative of events arranged in their time sequence―dinner coming after breakfast, Tuesday after Monday, decay after death, and so on. Qua story, it can only have one merit: that of making the audience want to know what happens next.
そしてプロットを定義したところで、storyとplotの違いを次のように分かり易く説明している。
‘The king died and then the queen died,’ is a story. ‘The king died, and then the queen died of grief’, is a plot.
私がここで<物語>と呼んでいるのは、フォースターのstoryもplotも含めて、言語がなにかを指示するものとしてその指示されるものを辿っていくときに読みとられるものを指している。それは『日本語はどういう言語か』の三浦つとむのいわゆる「客体的表現」をたどることであり、吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の語彙で言えば「指示表出」に沿って表現を読んでいくことである。
しかし、言語表現にはそうした指示的な面と、表現する主体のありよう自体をいわば自動的に表現する面とがある。三浦つとむのいう「主体的表現」、吉本隆明のいう「自己表出」だ。
三浦がよくポンチ絵を描いて分かり易く説明しているように、たとえば写生画を見る時、私たちはたとえば花瓶に活けた薔薇の花の絵を見れば、薔薇の花の絵だな、と思って見る。描かれた薔薇の形や色合いや大きさ等々の特徴には気づくだろうが、そこにその絵を描いた画家の目の位置(視点)、その遠近や高低、視覚、あるいは視野がどうといった、描く主体のありようを意識することは、特別な場合を除いてあまりないだろう。
しかし、もしその絵が花の一部に拡大鏡をあててみたように細部が画面いっぱいに描かれていたり、あるいは画家の目が花に接するほど近づけられた像のように歪んだ形をしていたなら、私たちは描かれた対象である花よりも、いっそうそれを描いた画家の目あるいは心のありようの方に注意を向けるに違いない。
しかし、こうして気づくか気づかないかに関わらず、描き手がどの位置、どんな距離から、どんな角度で見たのか、広々として視野のうちで見たのか、小さなノゾキアナから覗いたのか、上から見たのか下から見たのか、どんな感情を込めて見たのか、そういった主体的条件は、実際に絵が描かれた瞬間に対象の像とともに、その像のうちに自動的に埋め込まれて(外化され、対象化され、表現され、固定されて)いる。
言語に於いても同様に、言語として表現された瞬間に、指示的な意味なり像なりと同時に、その言語を語り、あるいは書いた者のありようを自動的に表現している。その「書いた者のありよう」とは、先の絵画の例になぞらえて言えば、書き手の視点であり、距離であり、視覚であり、描こうとした指示的な意味や像を選択する(構図を切り取り選ぶ)意志であり、それに対する強調であり、思い入れであり、それにまつわる様々な感情であり、これまで泥んできた表現を超えようとする意志・・・等々のようなものである。
先の三浦や吉本の語彙で言えば「主体的表現」あるいは「自己表出」と呼びうるそうしたモメントは、それと対になる「客体的表現」あるいは「指示表出」と一体のアマルガム的構造として、表現としての言語を成立させている。
先の絵画の見方で述べたのと同様に、言語表現を聴き、あるいは読む場合も、ふつうの伝達文や学術書を読む場合のように、その表現が何について語り、何を書いているのか、「客体的表現」あるいは「指示表出」に沿って、それを辿るように読むこともできるし、詩を読む場合のように、その表現がどのように語られ、どのように書かれているか、「主体的表現」あるいは「自己表出」に沿って、それを辿るように読むこともできる。
もとよりいずれをとっても、「客体的表現」と「主体的表現」、「指示表出」と「自己表出」は不可分離なものとして両方を同時に読んでいるのではあるが、いずれかに着目して一方の流れを追うことはできる。
従って、ほとんど散文詩といっていいような川上未映子の『わたくし率 イン 歯―
または世界』も、物語固有の時間的順序が解体されて前後し、また物語の断片が切り離されてあちこちに埋め込まれているのを、読者があえて繋いで、ひとつの<物語>を再構成することは不可能ではない。うまく行くかどうかは分からないが、拾って繋いでみよう。
お母さん*の世界には、体を持ち、同時にそこに意識を持った人たちが数えきれないほどいて、その誰もに他人と自分を間違えようのない、私、としか名づけようのない、なにか中心のようなものがあって、そこからそれぞれの世界を開いているのですよ。お母さんにもそれがあって、なんで、お母さんの私はお母さんのここに、この体に、このようにして一致してしまっているのかしらねえ。それはどれだけ筋道をたてて一生懸命がんばったとしても、納得のいく答えのでない問題で、これを奇跡というのだという人もいるのです。(p39)
*「お母さん」というのは語り手の「私」自身であって、彼女が妊娠もしていない将来の「わが子」に対して手紙をしたためていて、そのときに自分のことをそう呼んでいる。)
<わたし>が<私>であること、あるいは<私>が<わたし>であるという自同律の不快に取りつかれ、形而下的な<わたし>と形而上的な<私>とが分離してしまった<わたくし>は、そのいずれか一方におさまるでもなく、その予定調和的な一致に安堵できるわけでもなく、いわば「形而中」的な中途半端にして両方を抱え込んで、<わたし>が<私>のうちに囚われ、また逆に<私>が例えば女としての肉体をもち生理をもつ<わたし>に囚われるありように、不断の根源的な不快を覚え、おびやかされて精神を病んでいる、そんな女性がこの物語の語り手だ。
ねるまえに、ぜったいまいばんみえへんとこをつねられてた、学校の行きしなまいにちパンツに砂いれられた、集会場のうらっかわでそとから見えへんとこに連れていかれてかさぶた連続で食べさせられた、すわされた、怪物みたいな、あれはなに、あそこにおったん、あれはなに、裸にされて歌うたわされてふりつけがあってそれ見てみんな転げまわってわらってた、おはしをおしっこのところにさされて血がでたけどだれにもゆわれへんかった、血がとまれへんかったらどうしようってずっとほんまにこわかった、ティッシュが白くてこわかった、あらゆるがけからつき落とされた、あの怪物らはいったいなに、学校のトイレに何時間も正座させられてスカートがいつまでも濡れたままやった、あのにおい、角っこはぜんぶ黒くてトイレのドアはなぜぜんぶ四角いのん、色んなものを飲まされて瞬きすんなって蹴られた、誰もがこっちをわたしを笑ってんのに、誰にも私は見えへんかった (p103-104)
彼女がいまのようになったのは、どうやら極めて貧しい複雑な家庭環境に育ったこと、学校生活にも適応できず、上の引用のように、ひどいいじめに遭ってきたことが主な原因らしい。(彼女は歯科医のところでバイトをしていて、いまも「三年子」というひどく意地悪な「みならい医師」の女にいじめられている。)
彼女は想像を絶するいじめによって身心の耐え難い苦痛を味わうたびに、その痛みを意識的に身体のどこか一カ所に封じ込めようとすることによってしのいできたのだった。
そうや、わたしは、いつもこうやって来たんやった、痛かったり悲しかったりどうしようもないもんがわたしに入ってきたときは、誰にも絶対潰されへん、わたしがどんなに傷つけられてもぜったいに傷つけられへん私を入れた、勝手に決めた奥歯の中に、痛みの全部を移動させてぜんぶ閉じ込めて来たんやった、わたしは歯が痛くなったことがないのやから、そこに痛みを入れてしまえば、わたしはどっこも痛くなくなる、わたしはいっつもそうして来たんや、(p98)
作品の冒頭で歯医者に対して語るのは、そういう彼女がいま<私>(自意識の根源としてのわたし)も<わたし>(身体としてのわたし)も一体の<わたくし>を封じ込めて、「わたくし率100%」となり得ていると信じているのは彼女の奥歯であり、彼女はこれまで一度も虫歯などなったことも歯痛をおこしたこともないので、歯に封じ込めた<わたくし>はどんな苦痛にも耐えられるのだ。
彼女は、なんとかして自分の陥った<自同律の不快>の罠を脱しようとする過程で、唯一その解決の方向を指し示してくれたと思えたのが、中学時代の同級生青木という男だった。
彼は図書館ではじめてわたしと喋ったとき、川端康成の小説『雪国』の冒頭「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という書き出しを見せて、この文章の主語はなんだと思いますか、と聞いた。「この文章の主語は、トンネルをくぐってゆく列車でも主人公の島村という男でも、ないよ」と。
わたしは不思議な気分になり、それ以来、いまでも、そこには「自分が知りたい秘密のようなものが、いつでもあるような気がしている」。
もちろんその「秘密のようなもの」があからさまな言葉で与えられるわけではない。しかし主語がない、ということは彼女に或る解放感を与えるらしい。
雪国のあのはじまりの、わたくし率が、限りなく無いに近づいて同時に宇宙に膨んでゆくこのことじたい、愉快も不快もないこれじたい、青木がわたしに教えてくれた、何の主語のない場所、それがそれじたいであるだけでいい世界、それじたいでしかない世界、純粋経験、思うものが思うもの、思うゆえに思うがあって、私もわたしもおらん一瞬だけのこの世界、思う、それ (p106)
物語の中で、歯医者でアルバイトしているわたしは、そこへ治療を受けにやってきた青木をストーカーよろしく追ってその家まで押しかけ、自分が恋人であるかのごとく思い込んでいる青木に対して、またその同居者らしい女を相手にまくしたてる。その中でこの「主語がない」話が再登場する。
青木くんがゆうたんじゃ、雪国のあそこをゆうたんじゃ、なんであれがあんな大事な秘密のにおいがするのんか、わたしとおんなじこの問いを、わたしとおんなじ問いを持ってるくせに、なんで知らんふりしてんのや、なんでそんな女と一緒におるんじゃ、そんな女なんやねん、化粧ばっかりしやがって、人の目ばっかり気にしやがって、そんなんちゃうで、そんなもんちゃうんじゃほんなものことは、自分が何かゆうてみい、人間が、一人称が、何で出来てるかゆうてみい、一人称なあ、あんたらなにげに使うてるけどなこれほどえらいもんなんや、おっとろしいほど終りがのうて孤独すぎるもんなんや、これが私、と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私と思ってる私!! これ死ぬまでいいつづけても終りがないんや、私の終りには着かんのや、ぜんぶが入ってぜんぶが裏返ってるようなそれくらい恐ろしいもんなんや私っていうもんは考えたら考えるだけだだ漏れになっていくもんなんや私ってもんはな、そうなんや、そやから苦し紛れに、みんながんばって色々を決めてきたんや、なあ、自分考えてゆうてみい、そこになんでかこうしてあるそのなんやかやの一致の私は何やてほれ今ゆうてみい、わたしは歯って決めたねん、わたしは歯って決めたんや、・・・(p79-81)
<私>という主語を立てれば、それはたちまち、これが<私>と思ってる私と思ってる私・・・と無限に立ち上がって来て連鎖をつくって果てることがない。「私は私だ」と言い切ることができなければ、「私」はほかの何ものであることもできないだろう。彼女には<私>という主語を立てることが逆に<私>のよるべなさを証明するような事態であり、限りない孤独であり、おそろしいことで、簡単に口にできることではないのだ。
それゆえ主語がないことは一筋の光であり、希望だ。それは「雪国」の冒頭の一節がやっているように、書くことの中では可能だ。そこでは主語がなくてもいい。また、一人称であれ二人称であれ三人称であれ主語を自在に選ぶことができる。わたしは<わたし>である必要も<私>である必要もない。誰であってもいいし、誰でなくてもいい。
たしかに、一人称であれ、二人称であれ三人称であれ、いかなる主語を立てることもでき、表現の主体というものを考えるなら、その主体は自在にその主語で語られる誰にでも憑くことができるし、誰にも憑かないでいることもできよう。
しかしたとえ「私」という主語を立てることができたとしても、それは対象化された<私>あるいは<わたし>にすぎず、主体それ自体ではないのであって、「彼」や「それ」と変わるところはない。
ただ、「私」だろうと「彼」だろうと、そうした主語を立てる時、それを立ち上げる<私>自体が立ち上がって来るはずだ。そのとき、この物語の語り手である彼女の場合、それが確固とした主体として存立することもないまま、次々に立ちあがって来てしまい、とめどもなく「<私>と思ってる私」の連鎖が無限につづくことになる。
そこにこの物語の語り手であるわたしの根源的な不安がある。従って、青木くんの「雪国」の話ではとうてい彼女が癒されるとは思えない。
ただ、彼女が青木くんも共有しているはずだと固く信じている、問いだけは彼女にとって真剣であり、ほんものの怖れだといっていい。
彼女はまた、子供もいない、いや妊娠さえしていないにもかかわらず、そしてそれは自分でも分かっているにもかかわらず、その前からわが子に語り掛けるのだと称して、その未だいかなる形もなさぬわが子に対する手紙をしたためる。
意図したわけでもないのに、すでに「有ってしまった」自分が、「まだ無い」わが子に、自分もお前と同じ状態であったことがあるはずなのだが記憶もないし、おまえに聞くことも難しそうだと語るところがある。いま「有る」ということがどういうことなのか、この語り手の<わたくし>には根源的に分からないのだ。いやそれは私たちにも分からないだろうが・・・この物語はその問いを不断に投げかけて来る。
自同律の不快も、こうした「有ること」と「無いこと」への自問も、この語り手の女性が、想像を絶する苛酷な境遇の中で、もはやこの世界に自分の居場所はどこにもなく、存在することができない、というところまで追いつめられることによって、根源的な存在の不安として、怖れとして抱え込んだものに違いない。
物語のほぼラストで、語り手であるわたしは、歯科医の治療室の中央の大きな舌の形をした椅子に横たわり、「わたくし率100%」の<わたし>ないし<私>にほかならなかった奥歯を抜かれて「雪国のあのはじまりの、わたくし率が、限りなく無いに近づいて同時に宇宙に膨らんでゆく・・・(中略)・・・愉快も不快もないこれじたい、青木がわたしに教えてくれた、何の主語もない場所、それじたいであるだけでいい世界、それじたいでしかない世界、純粋経験、思うものが思うもの、思うゆえに思うがあって、私もわたしもおらん一瞬だけのこの世界」へ旅立つ(あるいは旅立ちたいと夢見る)・・・
私たちはこんな風に、この書かれた作品の時間と空間に散在した物語の断片を拾い集めて、読者の恣意で、一つの物語めいたものを再構成することができなくはない。
しかし、それを首尾よくやってのけたとしても、それがこの作品を理解した、ということにはならないだろう。
私などがたとえば一番面白いと思うのは、歯医者に「あなたは脳じゃないところで思考もろもろをしているというような実感を持つとこういうわけであるのですか。」と訊かれて、こんな風に思い、こんな連想につながっていくところだ。
ああ、実感の根拠を尋ねられてそこから話しなならんということは面倒で、そうこうしてる間も、やっぱりどうにもわたしはしんどさを感じつつ医師の黒目かつ洞穴をうろうろしてるうちに、ああこれ知ってる、この黑、知ってるわ、この黑は、や、オセロの丸の黒やないのと思いあたって、オセロといえばただいっこ、わたしの思い出でただいっこの、まだわたしにもうだる夏休みなどがあった頃、祖母に連れて行かれたスーパー・イズミヤの帰りに、必ず立ち寄る団地の一室があって、そこには全体的に灰色の男が住んでいたのやった。隣の部屋に入ったきりなかなか出てこん祖母を待っているというようなことが度々あって、何回かはそこの家の子であろうか当時中学生くらいのお姉さんとオセロでもして遊んどりなどと促され、オセロ盤を挟んで向かいあってわたしらは云われたとおりにオセロを開始したりするのであった。しかしそのお姉さんは全体的にいい感じであったのやけども、なんせ次の手を考えるあいだ毎度毎度オセロのあの丸いコマというかのあれを、口に入れてこちゃこちゃしながら、枡目を見下ろすふりをしてわたしを見て、またこちゃこちゃして、考えるふりをしながらまたこちゃこちゃ、んでしばらくして手が決まるかなんかすると、お姉さんの口からオセロの丸が唾液の糸を引きながら指にはさまれて取りだされて、すうーっときて枡目のうえにぺたこん、と置かれたそのときに、わたしは、ああ、と思うのでありました。
・・・(p9-10)
ここは本当に素晴らしいところだ。 この「口に入れてこちゃこちゃ」がたまらん(笑)。
こういう語りの面白さは天才的だと思う。
けれども、この鮮やかな語りは、ひたすら対象に近い視線で対象を指示する言語で書かれていて、ひとつひとつの言葉がなにか含みをもって別の何かを指示したり、喩えたり、象徴したりするわけではなく、あくまでも地べたを這うような指示的な言語として働きながら、その全体が大阪弁の語りともども、すぐ後で語られている「ああ今わたし裏返りたい」という心情や状況の喩となっている。
それは単純には、自分を待たせて隣の部屋へ行ったきりなかなか戻ってこない祖母を待って、オセロゲームをしながら、「隣の部屋の襖あけてもう帰りたいわ帰ろうやあと懇願したい」という強い気持ちを抱いていることの喩にすぎないように見えるけれど、同時にそれは「ああ今わたし裏返りたい、顔だけはこのお姉さんの方に向けたままオセロのあれみたいに裏返って立ち上がって」と、自分自身が「裏返って」しまうという表現を伴うことで、この語り手の語り全体の中に置かれたこのエピソードが、まるごと、自分の存在の在り方自体を「裏返し」てしまいたい、「わたし裏返りたい」という、自己異和、埴谷雄高のいう自同律の不快」に通じる根源的な異和を脱したいという欲求の喩にもなっている。
つまり、この一見何でもない、平易な指示言語で書かれた、おもしろおかしいエピソードの全体が、ここで描かれている出来事を指示するだけではなく、その指示性自体が、語り手の置かれた状況と心情の喩として、さらにより根源的な<わたし>の存在論的な異和に届くような言葉として、作品の自己表出を高めることに奉仕させられているということができる。
自分が「裏返る」というふうなことは、普通の日常的な伝達言語の指示性としては「意味がわからない」表現に属するだろう。しかし、それは今の自分のありようを否定して、全く別のなにかに一瞬にして変えてしまいたい、という<私>自身の根源的な自身のあり方に対する異和感と変わりたいという強い欲求の、意味的な喩としては、誰にとっても非常によくわかるはずだ。
このように、語り手≒作者に潜む根源的な存在論的異和が、日常的な伝達の手段として奉仕するかにみえる言語を、こうした自己表出の高みへ引き寄せ、ある意味で指示性に歪みを与えているということができる。その言語は、対他的な言語であるよりも、自身と向き合い、自身と語る、対自的な言語だと言ってもいい。
それは歯科医と脳や歯をめぐって、<私>あるいは<わたし>について言葉をかわし、「医師の頭がわたしの口の粘膜に密着してすっぽりと奥までおさまっ」てしまうような、それが何かの喩であることが見易い場面ではいっそう分かり易いかもしれないが、そうではなくて、ごく普通にわたしや誰かとのやりとりが何でもない光景のように見えたり聞こえたりしている対象をたどるように描写されている指示的な言語で書かれた表現もまた、全体として三浦つとむのいう「主体的表現」、吉本隆明のいう「自己表出」に仕えるように使われている点が、この作品の特徴なのだと思う。
破格的な大阪弁の語り自体が、何かをあたかもカメラでそのまま写し取った写真のように指示性100%の歪みのない像を、整然たる標準語で語ってみせようというのではなく、対象をとらえる目自体の歪をあらわにしつつ、その目だからこそ型通りの対象像を壊して、新鮮な対象像を垣間見せるための仕掛けとして用いられているだろう。
こうした川上未映子の特色ある表現は、詩集『先端で、さすわさされるわ そらええわ』(2008年青土社刊)はむろんのこと、この作品のような初期の小説作品から、エッセイに至るまで、詩か小説かエッセイかの区別なく登場する。
それまでの季節を洗濯機に入れたのは二十歳のこと。それをきしめんにして、きざんで乳液にまぶす。で、君の粒だった背中を保湿したのもいつかの荒れ狂う最大の四月のことであった。
(「四月、鉛筆をとっきんし忘れる」初出「未映子の純粋悲性批判」http:www.mieko.jp, 2003.9.9『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』講談社文庫2009所収)
こういう文章は文法的には間違っていないけれど、指示性をすなおに辿って読もうとしても理解不能だろう。「季節」をどうやって「洗濯機」に入れるんだろう?(笑)「それ」(「洗濯機」に入れた「季節」を?)「きざんで」って、どうやってきざむのだろう?・・・
けれども、現代詩を読みなれた読者なら、こんな表現には始終出遇っていることだろうし、十代のころにあれこれ悩んだり思い煩ってきたもろもろの想い、記憶、血や汗や涙の痕等々、沁みついたシミ、汚れの類を、着ていたものを洗濯機に放り込んで、きれいさっぱり洗い流し、いいように始末してしまおうと思って、過去と決別したのが二十歳のことだった、という風な意味合いの喩としてこれらの言葉たちがあるのだろうと理解することだろう。
このとき、日常的な「季節」「洗濯機」「きしめん」云々といった指示言語は、そのコンテクストの中で、そうした決意の爽やかなありようを鮮やかな像的喩で強めようとする自己表出に仕えるように使われている。「季節」のあとに続くべき「移り行く」とか「終わる」とかの予期される指示性の連なりが突如「洗濯機に入れた」という予期せぬ転換を呼ぶかたちで指示性にではなく、自己表出性に仕える形でいわば歪を受ける。
私達読者はこの転換の背後に潜在する指示表出の流れに沿った意味をたどりながら、言葉としては「季節を洗濯機に入れた」という指示表出の流れを断ち切られたかのような転換によって表現された自己表出の高みをたどり、潜在する指示性との乖離にこの表現の強意を読み取ることになる。言葉としてはこのようにして自己表出のつらなる頂をたどるようにして読んでいくことを強いられる表現だといっていい。
現代詩において多用されるこうしたいわゆる詩的表現を、川上はエッセイにも小説にも境なく使っている。『わたくし率 イン 歯―、または世界』はその典型的な作品で、さきのように普通の物語を読むように指示表出の流れに沿って読もうとすれば、意味不明の言語で書かれたもののように見えてしまう。
この作品のように指示表出が極端に自己表出に仕えるように書かれた表現、言ってみれば読者のような他者に何かを伝え、語り掛けるときの、いわば「話すように書く」言葉ではなく、自分自身と対話しようとして書いてはそこに対象化された自身と語り、そのことがまた次の言葉を生み出していく、いわば「書くように書く」言葉として書かれる文体を、吉本隆明は<文学体>と呼んでいる。
川上未映子がそのような<文学体>を表現の基底に据えて、そこから出発した作家であることは記憶しておくべきである。『わたくし率 イン 歯―、または世界』はその記念碑的作品であり、「処女作にすべてがある」という俗説に敢えて倣って言うなら、この作品は、川上未映子という作家のαでありωであるような作品だと言っていい。
●「乳と卵」(2007)の言語
巻子は湯に浸かっている間、風呂場を行き来する女々の体を舐めるように観察、それは隣のわたしが気を遣うほど無遠慮に視線を打ち続けるので、ちょっと巻ちゃん、見すぎ、と思わず小声で注意する、ああとかうんとかの生返事をして、その目は入ってくる体、湯に浸かる体、出る体、泡にくるまれる体をじっくりとせわしくなく追うのであった。そうしてる巻子は特に喋ることもなくただ湯気のなかを移動する女々の体を黙って見つめているので、わたしもひとりで喋るわけにもいかないもんで、仕方なく湯に並んで黙って女々の体を見てみれば、当然ながら改めて様々な形態のあること輪郭のあること色味のあること甚だしく、裸の中央に当たる部には、ほとんどの場合に、胸がある。肌色の分量がとても多く、この裸の現場においては、普段ならかなりの割り合いで識別の重みを持つ顔、という部位がとんとうすれ、ここでは体自体が歩き、体自体が喋り、体自体が意思をもち、ひとつひとつの動作の中央には体しかないように見えてくるのやった。わたしはそれを思いながら行き来する女々の体を追ってると、よくあるあの、漢字などの、書きすぎ・見すぎなどで突如襲われる未視感というのか、ひらがななどでも、「い」を書き続け・見続けたりすると、ある点において「これ、ほんまに、いい?」と定点決まり切らぬようになってしまうあの感じ、今の場合は、わたしの目に女々の体がそうなってきており、だいたいなぜあそこが膨らみ、なぜ一番てっぺんに黒いものが生えてい、しゅるっとなってこのフォルム、そしてなぜここでだらりんと二本でなぜ足はあのような角度で曲がってこんな具合をしているのかの隅々を、見失ったというか改めて発見したというかの状態になって、その改めて感から抜け出せぬような予感におそわれ端的にぞわりとおそろしくなり、「ま、巻ちゃんは、さっきから何を見てるの」と声をかければ、「え、胸」と即座に答えた。(p53-54)
豊胸手術をすることに憑りつかれたような姉巻子が、一緒に行った銭湯の女湯で、女たちの体を食い入るように見ることを気にする語り手のわたしが、所在なく同じように女たちの体を見ているうちに陥る妄想のような感覚を表現した一節だ。
普段から目にしている、どこにでもある女たちの体が、いつものように自分が眺めている対象でしかないものから、何かひとつひとつの体が、いやその体の各パーツまでが、見えている形の下にある存在そのものをあらわに主張しはじめるかのように、あらためて、なぜそれがそのようなものとしてそこにあるのかが分からない不気味なものに変わって「ぞわりとおそろしく」なる。
こうした対象の歪みは語り手であるわたし自身の、女性の肉体に対する、あるいは女性という性に対する根源的な異和から生じているものであり、もう少し踏み込んで言えば、自分が自分であること、存在それ自体への異和から生じているものだと考えられる。それがこうした瞬間にもろに姿をあらわす。
そういう個所では、言語がひととおりの女たちの体をかくかく見えるところの体として描写する言語、対象をまっすぐに指示する言語から、「ぞわりとおそろしく」なるような存在論的なおそれが産みだす自己表出のほうへ引き寄せられ、指示性としてみれば奇怪な歪みをもった言語として実現される。
そこでは対象の客観的な像が得られるよりも、語り手が自身と向き合い、この作品の書き手が自身と向き合うことで紡ぎ出される言語をわたしたちはより多く読み取ることになる。
同様の表現が、自身の体を鏡に映してみる作品の末尾の場面にも見られるので挙げておこう。
わたしは背筋を伸ばして、顎を引いて、まっすぐに立ち、少し動いて顔以外の全部を鏡に映してみた。瞬きせずにじっと見た。真ん中には、胸があった。巻子のものとそれほど変わらぬちょっとした膨らみがそこにあって、先には茶色く粒だった乳首があって、泣き笑いのようだった。低い腰は鈍くまるく、臍のまわりにはそれを囲むように肉がついて、横に何本もゆるい線が入り、渦を巻いていた。夕方の光と蛍光灯の光が小さく交差する湯気のなか、どこから来てどこに行くのかわからぬこれは、わたしを入れたままわたしに見られて、切り取られた鏡の中で、ぼんやりといつまでも浮かんでいるようだった。(p112)
「わたくし率 イン 歯―、または世界」の文学体は、あれほど極端な形ではないが、この作品においても文体の基底として採用され、そこから登場人物たちの行動や心情を物語る話体のほうへ下降していく過程にある。しかしその指示的な言語は独特の大阪弁のリズム、きびしい場面選択、絶え間ない転換による自己表出の高みに支えられ、強化されて、互いにせめぎあい、ぶつかりあい、緊張感に満ちた文体を作り出していく。
緑子は再び、お母さん、と、大きくはっきりした声ですぐ隣の巻子を呼び、巻子も驚いた顔で緑子を見た。体はぶるぶるとして顔は張りつめにつめ、ちょっと押せばぐらっと崩れる瞬前のなか、鼻で震える呼吸をしながら緑子は、お母さん、ほんまのことを、ほんまのことをゆうてや、と搾り出すような声でそう云った。お母さんは、ほんまのことゆうてよ、と緑子はそれだけを云うのがやっとで、うつむいてそのまま体中に力を込めて立ってるということに、いま何かがみなぎっていて、巻子はそれを聴いて、ちょっとの間を置き、は、ははははっはっははあ、と大きな声で笑い出した。ちょ、いややわ、なによ、ほんまのことって、いったいなにをゆうてるのんよ、と緑子に向かって大げさに笑って見せて、それからまた大げさに声を出して笑ってみせて、わたしに向かって、聞いた?びっくりするわあ、ほんまのことてなにやのよ、な、あんたちょっと翻訳したって、と驚きと不安と訴えを笑いで誤魔化す巻子はあかんと思ったが、緑子は笑い声のなか、うつむいたまま黙ってる、肩で大きく息を吸い込んで、流しの横に廃棄のために置いてあった玉子のパックをすばやくこじ開けて、玉子を右手に握ってそれを振り上げた。あ、ぶつける、と思った瞬間に、緑子の目からはぶわっと涙が飛び出し、ほんとにぶわりと噴き出して、それを自分の頭に叩きつけた。ぐしゃわ、っていう聞き慣れない音とともにしぶきのように黄身が飛び散り、それから、お母さん、お母さん、と連呼しながらすでに叩きつけたのをさらに何度も叩きつけ、手のなか髪のなかで泡だった、割れた殻が突き刺さり、耳の穴からも黄身が垂れ、額をなすりつけるようにてのひらで押しまわし、ぼたぼたと泣きながらパックからさらにもう一個を手にとって、なんで、と息を吐くように云い、・・・・(p102-103)
このように句点(「。」)なしに、読点だけで、まるで落語やひとり漫才のように、そして、それから、と切れ目なく語りついでいく話体ながら、表出位置は巻子のふるまいを見る<わたし>から<わたし>に対して語り掛けるように話す巻子へ、そしてすぐにまた巻子からその巻子のありようを「あかん」と思う<わたし>へ、さらに<緑子>を見る<わたし>へ、そのまままた<緑子>の視点へ、彼女の噴き出す<涙>へ・・・と激しく転換していくのがわかる。
そして選択される場面は、<わたし>が見ている笑う巻子であり、巻子自身が<わたし>に向けて発する言葉であり、再びそんな言葉を発している巻子の姿であり、笑い声のなか、うつむいたまま黙っている緑子であり、流しの横に置いてあった玉子のパックをすばやくこじ開けて玉子をにぎり、ふりあげる緑子だ。
この目まぐるしい場面選択と転換に自己表出のいわばポテンシャルが高められ、指示性を強め、このとめどない語りを稀に見る緊迫感あふれるクライマックスシーンと化していることがわかる。
巻子の中学生の娘で、語り手の姪にあたる緑子は、あるときから母親にひとことも口をきかなくなり、意思伝達はすべてノートに文字を書いて日常生活を送るということがもう何年か続いていて、語り手の私に対しても自分の意志は筆談でしか伝えようとしない。その緑子が、或る晩、外出した巻子の帰りがあまりに遅く、きょうのうちに彼女がこだわっていた豊胸手術に行ったのではないか、などとひどく心配していた緑子が、元亭主(緑子の父親)に会い、酒に酔って帰ってきた巻子が平生は自分に口をきかなくても適当にやりすごしていた娘に対して、あんたはわたしを馬鹿にしているやろ、と激しく迫ったのを機に、突然母親に対して堰を切ったように口を開く場面だ。
ここは本作品ハイライトと言っていい、素晴らしい場面だ。緑子はこの作品の中で語り手の語りの間に彼女自身が書いている日記が挿入されて、母親に口はきかないが、とても母親想いの優しい娘であることが読者には理解される。
だから、母親の巻子が何かに憑りつかれたように豊胸手術をしようとしていることについて、「胸をおっきくして、お母さんは、何がいいの、痛い思いして、そんな思いして、いいことないやんか、ほんまは、なにがしたいの」と叫ぶ。
なにかはわからなくても、巻子がとらわれているものが「ほんまのこと」ではないことは直観的に感じているのだ。そして、そんな母親を大事に思い、母親のようになりたくはないと思いながら、早くおとなになって母親を援けたいとも思い、同時に大人になどなりたくないという矛盾した気持ちをかかえ、生まれてこなければよかったと思うほど苦しい思いをしている。それをここで一気に吐き出すのだ。
ここでは抽象的な言葉はひとつも使われておらず、物語を語る話体にみられるような指示性に徹した言語でつづられているが、その矢継ぎ早に繰り出される指示的言語の選択と転換の強さは自己表出の高みに支えられており、緑子という存在の根底にまで届くかのようで、彼女が自分自身とぶつかる存在論的な不安を垣間見せる場面を実現している。
緑子が叫ぶ言葉や自分の頭に玉子を叩きつける行為は、巻子に対する言葉であると同時に、自身に対する言葉(あるいは行為)でもあり、指示的な言語がそのまま自分が自分と交わす言葉(あるいは行為)であるような、文学体を基底においた言語表現として実現されている。
●「ヘヴン」(2009)の言語
「ヘヴン」は凄絶な<いじめ>の物語だ。これについては別途ブログに感想を書いたことがある。ここではその物語を追うことが目的ではないので、深くは立ち入らないでおこうと思うけれど、もちろん物語と言語表現のありようは一体のもので、その物語を語る上でこの言語表現のありようが不可避だった、というような関係にあるのだから、その言語表現について触れる上で必要最小限の物語性を辿らざるを得ない。
語り手は「僕」という斜視で「ロンパリ」と同級生らに呼ばれている男子学生で、二ノ宮とその手下、仲間の百瀬らに、毎日想像を絶するようないじめを受けながら、なすすべもなく、彼等のなすがままにいじめられている。
その彼のもとに四月末のある日、筆箱に入れられた紙片で「わたしたちは仲間です」と書いたメッセージが届けられ、それ以降いろいろな形で同様のメッセージが届くようになる。
やがて届いた「会いたい」というメッセージによって、「僕」はコンクリートのくじら像がある「くじら公園」で手紙の相手と会う。
それは「いつも鼻の下に汚れのようなものがうっすら生えていて、そのことをいつも笑われ、家が貧乏であること、不潔だということでクラスの女子から苛められている女生徒「コジマ」だった。そこから「僕」と「コジマ」の手紙でのやりとりや、誰にも見られない校内の非常階段で会って会話し、あるいはときにコジマの誘いで外部の美術館へ出かけるようなつきあいが始まる。
タイトルの「ヘヴン」とは、「僕」とコジマが一緒に訪れた美術館のシャガールの或る絵画(「誕生日」かと思われる)に描かれた「恋人たちが部屋でケーキを食べてる絵」で、「赤い絨毯とテーブル」「そこにいる恋人たちは首をにゅーんとすきなだけ自由にのばすことができる」、一見何でもない普通の部屋だが、じつは「とてもつらいこと」「とても悲しいこと」を乗り越えることでたどりついた「最高のしあわせのなかに住むことができている」、そんな場なり状況なりをコジマがそう呼んでいることに由来している。
この「ヘヴン」についてのやり取りの中で、「僕」はコジマに、「ヘヴンってことは、その恋人たちは死んでるってこと?」と訊くが、コジマはそれには答えないで、ただ上のような試練のはてにたどりつく最高に幸せな場所と語るだけだ。
コジマは、自分が汚いなりをし、汚い靴を履いているのは、懸命に働きながら事業に失敗し、妻に責められ、離婚して一人で暮らす父がいつも履いていた「どろどろの靴」を、自分もいまここで履いているというしるし、父と一緒に暮らしたということのしるしなのだと言い、そんなことは自分をいじめる連中には言っても金輪際わかりっこないが、ものごとにはこのようにすべて「意味」があるのだ、という。
そして、この「ヘヴン」の恋人たちに仮託するかのように、自分たちが苛められていることにも「意味」がある、これを耐えた先には、これを耐えなければたどりつかなかったような場所やできごとが待っているのだと言う。
また、いじめる連中と年齢も同じで似たような体格なのだからその気になれば抵抗も復讐もできるのになぜ自分たちはそれをしないのだと思う?というコジマに、「僕が弱いからだと思う」と答える「僕」に対して、コジマは、自分たちは弱いからされるままになっているのではない、「受け入れている」のだ、と言う。
「自分たちの目のまえでいったいなにが起こっているのか、それをきちんと理解して、わたしたちはそれを受け入れているんだよ。強いか弱いかで言ったら、それはむしろ強さがないとできないことなんだよ」と。あるいは、自分たちは弱いのかもしれないが、この「弱さ」は「意味」のある弱さなのだ、と。
そうしてコジマは「僕」に対して、あなたは正しいのだ、と言う。
「僕」が苛められる原因になっていると考えている斜視を手術で治そうと思っている、といった話をすると、コジマはそれは苛めに屈服して逃避することだ、というふうに言い、むしろこちら側(彼女のいう「仲間」)からあちら側(苛めたりそれを見て見ぬふりする大多数の加害者側の人間)に移ることだと考えているようだ。彼女は「僕」の斜視の目が好きだと言った初めての人間だ。
こういうコジマの考え方は、キリスト教の思想そのままのようにみえる。現世的、現実的な権力に支配され、抑圧され、虐げられている者が、抵抗することができず、その屈辱や痛みをすべて自身の内部で処理するほかないときに生み出される思想だ。
虐げられていること自体に何らかの「意味」を見出し、それは単にやられているのではなくて、むしろ「受け入れる」という自分たち自身の能動的な選択であるかのように意味づけ、また自身の「弱さ」をも意味づける。
そしてまた、その「意味」が外在的な現実として誰の目にも明らかになるような世界(「最後の審判」のような)を思い描き、待望する。まさにニーチェが嫌悪し、鋭く批判したキリスト教のルサンチマンを核にした弱者の宗教思想そのものであるようだ。
「そんななにもかもをぜんぶ見てくれている神様がちゃんといて、最後にはちゃんと、そういう苦しかったこととか乗り越えてきたものが、ちゃんと理解されるときが来るんじゃないかって、・・・そう思ってるの」とコジマが語るところがある。(文庫版p118)
これに対して「僕」は「その最後っていうのは、生きてるあいだのこと?それとも、死んだあとのことなの?」と訊くが、ここでもコジマは明確に答え(られ)ないで、「生きている間に色々なことの意味がわかることもあるだろうし、死んでから、ああこうだったんだなって、わかることもあると思うの」と言い、「いつなのかってことはあまり重要じゃなくて、大事なのは、こんなふうな苦しみや悲しみにはかならず意味があるってことなのよ」としか答え(ることができ)ない。ここでは、彼女の思想はループを描いて彼女の「信」である「意味」へと回帰してしまう。
こういうコジマの言葉はしかし、「僕」を励まし、勇気づけてくれるし、コジマと手紙をかわし、会うことが楽しみにもなり、救いにもなる。
しかし、「僕」がたまたま病院でみかけて後を追った、苛め集団のボス二ノ宮の友人格の百瀬と言葉を交わす中で、「僕」は、ちょうどコジマの言葉とは真逆の言葉、真逆の思想に出遭うことになる。
何故君たちは僕に暴力をふるうのか、なにもしていない者に暴力をふるう権利が君らにあるのか、僕の斜視を君たちが胸の内でどう想おうとかまわないがほっておいてほしいんだ、と言う「僕」に対して、百瀬は、全然言ってることがわからないと訝しい様子。
斜視がどうのと言っているようだが、そんなことは君が苛められることと何の関係もないし、人は権利があるから何かするわけでもない。ただ「したいからする」だけだし、苛める相手は誰であってもいいのだ、たまたま君がそこにいただけだ、と平然と答える。そして、「たまたまっていうのは、単純に言って、この世界の仕組みだからだよ」と。
コジマの言ったような「意味」は百瀬のこの考え方のなかでは全面的に否定される。
「意味なんてなにもないよ。みんなただ、したいことをやってるだけなんじゃないの、たぶん。まず彼らには欲求がある。その欲求が生まれた時点では良いも悪いもない。そして彼らにはその欲求を満たすだけの状況がたまたまあった。君を含めてね。それで、彼らはその欲求を満たすために、気ままにそれを遂行してるってだけの話だよ。」)(p214)
「僕」の反論もことごとく否定される。「そんなのは、…君が都合よく解釈してるだけだ。」と。ここでは「僕」が相手をしているけれど、コジマの言葉を知った読者にとっては、百瀬の言葉がコジマを否定する思想であることは明らかだ。コジマのいう「意味」なんてものはみな彼女が「都合よく解釈しているだけ」の、後付けにすぎない、と。
百瀬はさらにいう。「なあ、世界はさ、なんて言うかな、ひとつじゃないんだよ。みんながおなじように理解できるような、そんな都合のいいひとつの世界なんて、どこにもないんだよ。そういうふうに見えるときもあるけれど、それはただそんなふうに見えるというだけのことだ。みんな決定的に違う世界に生きてるんだよ。最初から最後まで、あとはそれの組みあわせでしかない」(p217)
そして百瀬は「僕」に対していわば現実的な解決策を提起しさえする。「だから、君の言葉で言うところの苛めを君が受けたくないんだったら、僕たちを、というか二ノ宮を、まあどうにかするしかないよね。」(p218)
この「僕」と百瀬の対話の一節は、明らかにドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の大審問官の章のコピーだと言ってもいいのではないか。以前にブログに書いた本書の感想でもそう書いた。一読して、日本の現代小説には珍しい本格的な思想小説といってもいい、と思った。
現実に民衆を支配し、その命運を一身に背負う立場から、大審問官は、中世に突然あらわれたイエスに対して、きわめて現実的な思想を整然たる論理で語り、もはやおまえは誰からも必要とされていないと告げる。その言葉を聞けば、まことに反論の余地もなく、読者は大審問官に説得され、同意するだろう。イエスはそれに対してどう反論するだろうか?
しかし、イエスらしき人物は一言も反論することがない。ただ、黙って大審問官に接吻して静かに立ち去るのだ。
「ヘヴン」における百瀬はこの大審問官に相当することは一読してわかる。しかし「僕」はイエスではない。イエスの役割を果たしているのはこの作品ではコジマだ。それまでのところで、コジマが「僕」に語り掛ける言葉によってさんざん彼女の思想を聞かされてきたわたしたち読者には、すぐにそれがわかる。対決の火花は、その場にいないコジマと、百瀬の間で交わされているのだ。
イエスが一言も発することなく大審問官に接吻して去っていく場面に相当するシーンも用意されている。それは、「僕」が斜視の手術を受けることをコジマに告げて以来、彼女がもはや「僕」を当初彼女が書き送った手紙にあったような「仲間」とみなさなくなり、連絡が途絶えたのちに、珍しく彼女から会いたいという知らせが来て会いに行くと、それは苛め連中の罠で、どうやらコジマが無理に書かされたものであって、「僕」と「コジマ」はそれまでの関係を暴露され、苛める側の大勢の生徒たちに囲まれて、その場でセックスをしてみろと強いられる場面だ。
その時、コジマは苛めのボス二ノ宮に命じられるままに、黙って衣服を脱ぎ棄てて全裸になり、驚愕する苛めっ子たちひとりひとりに近づいてそっとその頬を撫でたりして、恐怖におののかせる、という本編のクライマックスと言っていい場面だ。
その場面から、もうコジマは「僕」の視界から消える。おそらくは二ノ宮たちいじめっ子らもまた。
「僕」は百瀬にもコジマにも同一化してしまうことはない。どちらの道も選ばない。
彼は斜視の目を手術し、自分自身のあらたな道への一歩を踏み出す。
ここまできて、ようやく本書の言語表現の特徴をあらわす例を引くことにしよう。
べつだん上に書いて来た物語そのものを構成するような表現ではないが、ここに書かれた物語のすべてを踏まえてはじめて、「僕」がこのような目で新たに世界を見、そこに一歩を踏み出すことを表現する、小説のラストの文章だ。本作品の中で最も美しい文章だ。
僕が立っていたのは、並木道の真んなかだった。
僕は両目をとじたまま右目から眼帯をはずした。それから眼鏡をかけて、ゆっくりと、目をひらいた。
それは僕が想像もしなかった光景だった。
十二月の冷たい空気のなかで、何千何万という葉のすべては濡れたような金色に輝き、その光りかたはまるでその一枚一枚がそれぞれの輝きを鳴らしながら、僕のなかへとめどもなく流れこんでくるかのようだった。僕は息をのんで、その流れに身をまかせるしかなかった。一秒がつぎの一秒へたどりつくそのあいだの距離が、何か大きなものの手によってそっと引きのばされているのを僕は感じていた。息を吐くことも、まばたきをすることも忘れ、僕は黒々とした鮮やかな木の肌にもぐりこみ、その肌ざわりを身体のいちばんやわらかな場所で感じとることができた。黄金に鳴りつづける葉のすきまにゆれる光の粒子をひとつひとつ指さきでつまんで、そのなかに入ることもできた。正午だった。しかし太陽はもう見えなかった。なにもかもがそれだけで光り輝いていた。僕は目のまえの光景が信じられず、口をあけたまま何度も首をふっていた。地面にひざをつき、葉の一枚を手にとって見つめてみた。その葉にはこれまで僕の知らなかった重さがあった。僕の知らなかった冷たさがあり、輪郭があった。僕の両目からはとめどもなく涙が流れ、涙ににじみながら目のまえにあらわれた世界はあらわれながら何度も生まれつづけているようだった。
なにもかもが美しかった。これまで数えきれないくらいくぐり抜けてきたこの並木道の果てに、僕ははじめて白く光る向こう側を見たのだった。僕にはそれがわかった。僕の目からは涙が流れつづけ、そのなかではじめて世界は像をむすび、世界にははじめて奥ゆきがあった。世界には向こう側があった。僕は目をみひらき、渾身のちからをこめて目をひらき、そこに映るものはなにもかもが美しかった。僕は泣きながらその美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた。映るものはなにもかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰に伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった。(p310-311)
このただ並木道に立ち尽くし、手術後の眼帯を外した目で新たな光景を見る「僕」の目に映る光景を描くだけの文章が、全体として、この作品の世界すべてを包括し、主人公=語り手の「僕」の全ての経験をのみ込むことによって、自分だけの道を切り開いてまさに新たな一歩を踏み出すことを見事に象徴する表現になっていることは、誰にでも分かるだろう。
言葉のひとつひとつが、「僕」が目にする対象を指示すると同時に、そんな「僕」の新たな門出を、その喜びを、決意を、強さを、美しさを、すべてを含んで高みへと高揚していく意識を一語一語がきらきらと輝き、突出するかのように表出して、その指示性を研ぎ澄まし、強め、輝かせている。
「何千何万という葉のすべては濡れたような金色に輝き、その光りかたはまるでその一枚一枚がそれぞれの輝きを鳴らしながら、僕のなかへとめどもなく流れこんでくる」・・・圧倒的な昂揚感のもとで、視覚的な像は聴覚的な像に変容して「僕」のなかへ流れ込んでくる。
「僕」は息をのんで、その流れに身をまかせるしかない。そのなかで生理的な時間感覚も変容し、「一秒がつぎの一秒へたどりつくそのあいだの距離が、何か大きなものの手によってそっと引きのばされている」。
「僕」は「黒々とした鮮やかな木の肌にもぐりこみ、その肌ざわりを身体のいちばんやわらかな場所で感じとる」こともでき、「黄金に鳴りつづける葉のすきまにゆれる光の粒子をひとつひとつ指さきでつまんで、そのなかに入ることもできた」。
日常的な伝達言語において、人間である「僕」が「木の肌にもぐりこ」んだり、「その肌ざわりを身体のいちばんやわらかな場所で感じとる」ことなどできないし、「光の粒子をひとつひとつ指さきでつまんで、そのなかに入ること」などできようはずもない。
しかし、ここではこれまでとは全く異なる新たな世界へと一歩を踏み出し、その世界の鮮烈な光景をはじめて目の当たりにした「僕」の昂揚感、視覚、聴覚、恐らくは嗅覚や触覚まで含めて全感覚細胞が異常に活性化し、融合し、激しく共振するかのように過敏に世界をうけとめ、変容させていることが、言語の指示性を極端な自己表出の高みへ引き寄せ、ある意味でその指示性に歪みを与えることで、このような表現が可能になっている。
わたしたち読者は、そのような自己表出の尾根を辿りながらその言語の指示性をたどらなければ、なにも読んだことにはならない。
ここでは「わたくし率 イン 歯―、または世界」以来の、文学体を基底とする川上の言語表現がひとつのピークに達している。
●『すべて真夜中の恋人たち』(2011)の言語
わたしは以前にこの小説を読んで、ブログに感想まで書いていたのだが、今回再読して、その内容を完全に忘れてしまっていたことに気づいた。どんなストーリーだったか、主人公はどんな人物だったか、どんなシーンがあったか、どんなセリフや地の文があったか、まったく何一つ記憶になかった。
もともと記憶力はかなり悪いほうだったけれど、歳のせいかどうか、近年はこうした傾向が著しくて、われながら呆然とすることが多い。ちょっと人の名前が出てこないといったレベルからはるかに遠く来てしまったらしい。
まあそのおかげで、一度前に読んだ本でもまったく新たに読む本のように新鮮な気持ちで読めるというメリットはあるが(笑)。
そして今回読んでみて、これも、今まで再読してきた川上未映子の小説に負けず劣らず、いい作品だと思った。ただ、この作品は「わたくし率 イン 歯―、または世界」のようにとんがった言葉だけで書かれている散文詩のような小説でもなければ、「ヘヴン」のように社会問題として取り上げられることも多い<いじめ>のようなテーマのはっきりした、ドラマチックな展開でぐいぐい引っ張っていく作品でもない。
ひとりのおとなしくて目立たない、なにごとにつけ受動的で、自分から積極的に行動したり、なにかを主体的に選択しようとするタイプではなく、仕事はきちんとこなすけれど、同僚や友人に自分のほうから積極的に関わっていくこともない女性、周囲からは、自己主張が強くない分、抵抗はないけれども、主体的に考え、動こうとするようには見えず、ただ自身が傷つくのをおそれて自分の中に閉じこもっているにすぎないかにもみえ、いわゆる<はっきりした女性>からみれば「いらいらさせられる」ような存在、そういう三十代半ばの女性・入江冬子が主人公というか、この作品の「語り手」である<わたし>だ。
彼女自身が回想する高校時代にも、彼女には友達らしい友達もなければ、彼氏もいなかったようだ。のちに現在の彼女の前に再登場する唯一の女友達は、ただ学校への行き帰りの車中でいつも一緒になったために言葉を交わしただけの女性だし、男子のほうは学校では口をきかないくせに電話で言葉を交わし、一度誘われて他に誰もいない自宅の彼の部屋へあがって、半ばレイプ同然に初体験をさせられたうえ、さいしょは「ごめん」と言った彼に、君は自分で選択して僕の部屋へ来たんだから、と「ごめん」を撤回すると言われ、なにも主体的に考え、選び、行動することのない君をみていると「ほんとうにいらいらするんだよ」(文庫版p190)と言われて、ひとり帰途についた、といった体験しかない。
こういう<わたし>が語り手なので、彼女の想いや行動が周囲を巻き込み、彼女の行動の軌跡がおのずから物語を生み出し、先へ先へと引っ張っていく、というふうにはいかない。むしろそっけないほど淡々とした彼女のどこにでもありそうな日常やとくに変わったところがあるわけでもない過去の出来事やその時々の彼女の想いとともに語られていくだけで、その日常といえば、勤めていた出版社で或る種の苛め的な人間関係の居心地の悪さに耐えて仕事をしていたのが、以前に同じ職場にいて独立して編集プロダクションをやっていた女性・恭子から声をかけられて、勤め先の仕事以外に大手出版社の個人的な委託で校閲のアルバイトをはじめ、やがて勤務先を辞めてフリーランスの校閲者となって、終日鉛筆片手にゲラを向き合い、仕事を持ってくる石川聖という、自分とは対照的な「はっきりと物をいう」女性と仕事のやりとりから一緒に飲みに行くような付き合い方をして過ごすようになる、といったまあありふれた生活といえばいえるような日常にすぎない。
それは冬子の消極的、受動的で自分の殻に閉じこもっていて、それなりに自足するようにも見える性格に合った生き方にも見えるが、かならずしもそうではないことが、彼女の生理的、身体的な一貫した不調によって窺われる。最初は酒は飲めない、あるいは飲まないようだった彼女がいつか飲むようになり、いつも日本酒で満たした魔法瓶をトートバッグに入れて歩くようになって、酒を飲まずには人と喋ることも難しいようだ。
そんな彼女があるときカルチャーセンターの受講を申し込もうとして出掛けたビルの会場で気分が悪くなってトイレへ駈け込もうとして間に合わずに嘔吐してしまう。カルチャーセンターへの申し込みはしなかったが、そのときの彼女の様子をみていた中年の男性と言葉をかわすようになり、決まった曜日に彼が決まっていく喫茶店で会うようになり、次第に親しくなっていく。
彼は三束(みつつか)といい、高校の物理の教師だと言い、年齢は58歳。彼は冬子に物理の話、冬子がたまたま興味を示した光について冬子に話、光に関する本を貸してくれたり、クラシックとくにショパンが好きだと言って、クラシック音楽については無知な冬子にショパンのCDを貸してくれたりする。
その間も冬子はずっと日本酒をたらふく飲んでいなければ彼と話すこともできないというありようにはいささかの変化もないのだが、三束のほうはそれに気づいていても何も言わないで、変わらずよき話し相手をつとめている。
そういう付き合いを続けるうちに冬子の中に三束への想いが募って来る。最初は彼女自身もそれが何なのかわからず、ただ楽しく癒されるような思いが、次第に苦しいものに変わり、やがて激しい恋心であることに気づく。
あるとき冬子は電話で、三束が好きだと告白し、私と寝たいと思ったことがあるかと問い、はいという答えに、自分もずっと・・・と言う。そして、三束の誕生日祝いの会食を約束し、楽しい夕べを経験し、さらに、いつもひとりでそうしていたように、自分の誕生日でもあるクリスマスの夜、真夜中に街を歩くことを一緒にしてほしいと三束に告げる。
一方、仕事の上での冬子と石川聖との関係は良好で、聖は冬子の仕事ぶりを信頼していたが、冬子の体調が思わしくなくなり、仕事の量を減らしてもらう期間がつづく。ちょうど冬子が聖からもらった自分のものよりワンランク上のオシャレな衣服を身につけて、三束の誕生祝いの会食から帰宅したとき、冬子の長引く体調不良を心配して見舞いにきた聖がいて、冬子の部屋できびしい会話が交わされる。
冬子の体を心配して来たのに、冬子のほうはいつにない化粧にオシャレ着で誰かに会って楽しい思いをしてきたらしいが、どこのどんな人間と会っていたのか、どういう関係なのか、どういう気持ちでつきあっているのか、冬子が親しいはずの自分になにも語ろうとしないことに、聖は腹を立てていて、次第に冬子をなじり、責め、やがてあからさまな攻撃を始めることになる。
それは冬子がこれまで、かつての職場で意地悪な先輩職員から言われたことや、高校時代に初体験をすることになった相手の男子生徒に言われたこととほとんど同じことだった。
冬子がただ自分可愛さに、自分が傷つきたくないために、自分自身のうちにこもり、主体的に考え、選び、行動しようとせずに、「楽をしている」のであって、はたで見ているだけで「いらいらさせられる」存在であり、そういう自分にとって一番「楽な」生き方をしながら、自分がそうしていられるのは、自身に代わって主体的に考え、選び、行動している(わたしのような)人間がいるからなのに、そのことにも気づかずに、そうしていられることが無性に腹立たしい、と言った意味の言葉を聖は冬子に対して浴びせかける。最後の捨て台詞は、またもや「あなたをみてると、いらいらするのよ」だ。
このとき冬子は聖に対して、「・・・みんながみんな、あなたの常識で動いてるって思わないでほしい」と、はじめて抗うような言葉を発する。「人の気持ちはもっと複雑だし、関係だって…色々あるでしょう」「大事なものは、ひとそれぞれ違うでしょう・・・それに、なぜあなたに、がんばったって・・・言ってもらわなきゃいけないの」
冬子は聖とのとげとげしい会話を遮断して、ひたすら三束のことを思い、ほかのすべてを意識から排除しようとするが、うまくはいかない。結局、ひどいことを言った聖も彼女に抗い、彼女にはとうてい理解されないと遮断した冬子もそれぞれに泣いて和解する。
他方、誕生祝の会食をして、クリスマスの夜の約束をした三束は、結局クリスマスの夜、いつもの待ち合わせの場所には来ない。一度だけ手紙で、自分は実は高校講師ではない、嘘をついてきたと打ち明け、もう会うつもりはないと書いてよこし、それきりになる。
二年後の誕生日、妊娠7か月の聖の祝福を受けている冬子。三束のことを忘れるには時間がかかったけれど、その想いも月日がたつにつれて過ぎ去っていった。いつか冬子は酒を飲むこともやめてしまっている。ラストは校閲の仕事に疲れて眠りに入る前に、冬子が新しいノートに「すべて真夜中の恋人たち」とどこかで浮かんだ言葉を掻き付けて眠りに入るところで終わっている。
長々とこの物語を辿ってきたけれど、それはこの作品が語ろうとしたことと、その語りの言語とには密接な関係があると思ったからだ。
ここに描かれている<語り手>の<わたし>、入江冬子は、そう言ってよければほんとうにネガティブ(消極的、否定的)な人物像だと思う。作中でまったく互いに無関係な、冬子の周囲にいて彼女と関わりをもった別々の人物(職場の意地悪女、高校時代に初体験した男子生徒、石川聖)から、「楽な」生き方をしていると罵られ、見ていると「イライラさせられる」という言葉を浴びせられる。まさにそういう人物なのだ。
ふつうはこういう人物は物語の主人公にはしにくいものではないだろうか。物語は、主人公が主体的に考え、選択し、行動することによって起動し、その行動が周囲に波紋を呼び、抵抗を呼び、何事かが起きる、人と人とがぶつかり合う、そこにドラマが生じ、物語が展開していくきっかけが生まれる。
その主人公がつねに受動的で、なにも主体的に考えもせず、これといった選択もせず、みずから行動して人にかかわることもないとすれば、いったいどこにドラマが生まれ、物語がころがっていく契機が生じるだろうか。
ところがこの作品はまさに、そのような人物、入江冬子という、およそドラマチックではない、ネガティブな人物を主人公=語り手=<わたし>として書かれている。
従って、その<わたし>がどう思った、こう思った、という思いも、どうした、こうした、という行動も、だれもが心に思うであろうこと、誰もがそういう仕事をしていればそうし、そう言われればそうしただろう、ありふれたものであって、どれひとつとっても、とりたてて珍しいことでも興味深いことのようにも思えない。
ただ、この冬子はどちらかといえば貧しく、見かけ上はどこにでもいそうな普通の都会住まいの女性にみえるけれど、たんに自分の趣味や好みによってというわけではなく、おしゃれな服装に身を包んだり、お金のかかる娯楽文化に接したりするほどのゆとりは、そもそもそのスケールの小さな生活の中にはない。
貧困で見かけまで明らかにみすぼらしくなってしまうほどではなくて最低限の身だしなみには事欠かない程度ではあるものの、それ以上に個性を輝かせるような一歩を踏み出せるようなゆとりは彼女にはない。
従って、大半は彼女の消極的で内向的な性格に帰せられるかもしれないし、それに合った仕事のせいかもしれないけれど、もともとそこから自由に出て行けるような余裕は彼女にはなくて、社会の片隅で目立たないように、出来る限り人間関係も最小限にとどめて、地味に生きていくのが、その性格にも考え方にも経済力にもこの世界で彼女が占めることのできる位置としても、最もふさわしいといったふうなのだ。
言うなれば、彼女はこの社会の中で、一番下層に属する人の一人であって、経済的にだけではなく、人間関係も貧しく、喜怒哀楽においても貧しい生き方にそれなりに適応して生きるほかはない存在なのだ。
自然、作品はある意味で単調さを免れないところがある。これ、といった事件など起こりようがないからだ。冬子の人生が起伏にとぼしい、ありきたりの人生に見える分、物語にも起伏は乏しい。
ドラマチックな激しいぶつかりあいや関係のきしみが見えるのは、冬子とは対照的に「はっきりものを言う」石川聖が自分の仮想敵を攻撃してみせる弁舌において、あるいは彼女があるとき冬子にぶつける礫においてであり、またその聖のことを冬子に対して全面的に否定し非難してみせる恭子の弁舌においてであって、そこでは冬子は埒外に置かれていて、唯一聖の攻撃に対して辛うじて抗弁する瞬間があるだけだ。
発展するかにみえた三束との愛も成就することなく、最後は突然ふつっと切れてしまう。作者はあきらかにドラマチックな展開になることを回避しているようだ。
作者が描きたかったのは冬子を主人公とするドラマではなさそうだ。むしろドラマになどなりそうもない、どこにでもいそうなこの社会の底辺で、経済的にも人間関係においても貧しく、孤独な生活を、目立たぬよう、地味な存在として、暮らしを立てるための仕事はきちんとこなしながら、これといった楽しみも喜びもなく、人を傷つけることなく、自らも傷つくことを怖れるように維持し、そこから出ていくゆとりもなく、勇気もなく、その小さな自分だけの世界を守って生きているような存在、そのあるがままのありように寄り添い、それにもかかわらず、そんな人生をせいいっぱい生きている女性、そんな彼女の日々にも確かに内在しているささやかな喜怒哀楽を、その日々を限りない共感をこめて丁寧にうつしとろうとしたのではないか。
このような人物、このような人生を描こうとするには、このような人物、このような人生に<価値>を見出す視点がなければ不可能だと思う。一般的に言えば、ひとは何か普通ではない非凡な能力の発露や、偶然であれ何事か非凡なことの成就に語ったり書いたり、伝えたりするに値する価値を見出す。
だれもが当たり前に習慣として経験する日常よりも、ひとふんばりして考え、行動する非日常的な達成に価値を見る。そうしたごく普通の見方は、より非凡なもの、より非日常的なこと、より高度なことに、一層大きな価値を見出し、その視線はどんどんより高いものを求めて上昇していく。それはとても自然なことだ。
にもかかわらず、この作品における冬子のような人物、そのどこにでもありそうなこの社会の底辺に近い片隅でひっそりと営まれている孤独な日常生活に、そこで生きる人物の思いに敢えて寄り添い、それを丹念に描こうとする作家の意志には、そうした生き方や思いに<価値>を見出す、さきの視線とは対照的な視線がなければならない。
ほうっておけば誰もがそのようにみなすであろうような、先の自然な精神の運動とはまるで逆方向に反転する精神の、意識的なベクトルがなければそれは不可能なはずだ。
私たちはそれを、かつて十代の吉本隆明が『初期ノート』に書き留めた上昇・下降の弁証法に倣って言えば、私たちが日常的な生活から離脱して、ほうっておけばどんどん高度化し、純粋な理念の結晶へと向かう精神の上昇過程との対照において、理念の世界から反転して日常的な生活の地平へと降りていく精神の意識的な下降過程とみなすことができる。
作者はこの作品においてはじめて、非常に明瞭な形で、従来の文学体でなしとげた達成点から、話体のほうへ意識的な下降を試み、冬子の日々の暮らしと思いの地平に降り立ち、そこに寄り添うようにして、冬子に自身の日常とそれに伴うささやかだがそれなりに多彩できめ細やかな起伏に彩られた様々な思いを物語らせていく。
それは作者自身が「わたくし率 イン 歯―、または世界」以来の高度な理念の高みから反転して、生活の地平へ下降し、そこに価値の源泉を見いだす視点を獲得したことと軌を一にし、そのことによって生み出された表現であり、また逆にそうした表現によって成し遂げられた反転だということができる。
それはまるで冬の匂いのような光りかただった。(講談社文庫版p120)
後ろからみつめる三束さんの背中は、やはりうっすらと白く輝いてみえ、わたしはそれをみながら、まるで冬から届けられた、おおきな葉書みたいだと思った。(同前p121)
三束さんを愛しています。そう言ってしまうとしたまぶたと目のすきまが膨らむようにみるみるうちに涙があふれ、頬を流れてあごにたまり、それからたくさんの粒になって夜のなかへ落ちていった。瞬きもせず、何かから逃れるように、わたしから逃れるように、涙は夜を目指す生きもののようにわたしの頬を這い、あとからあとから流れて行った。(p321)
ピアノの旋律は目にみえない粒子とまざりあって風になり、髪や肌をそっとなで、私の体はそのやわらかな中央をそっときりひらいていった。(p324)
具体的な形象をもつイメージを喚び起こすわけではないけれど、意味としては透明で幽かな、優しい光の、荒涼とし寒々とした孤独なこころにもたらされた幽かな希望、包容力に富んだ頼りがいのある広い背中、あるいはずっと自分で気づくことさえない孤独な夜の闇にあった思いが、突然眩めく光の世界にあふれ出て、どまどい、自分の姿を恥じるように散っていく涙・・・等々の対象を的確に強化する意味喩にあたるものを拾ってみた。
おおかたはまるで素っ気ないほどシンプルな日常語で語られる冬子の一人称の語りだが、彼女が切ない想いを抱くにいたる三束さんとのシーンになると、その高揚する心を映すかのように、この種の意味喩が現れる。
しかし、本書の場合、こうして喩によって、あるいは言葉の強い選択性や転換によって指示性が強化され、自己表出の高みへ引き寄せられて、指示的な言語がいくらかでも「歪む」のは、こうしたごく部分的な箇所にとどまる。
スパゲティ―に温めたレトルトのミートソースをかけて食べてしまうと、わたしは前髪をターバンであげて留め、右手に鉛筆をもち、手づくりの見台を(いまではふれることもなくなったギリシャ語の辞書と単語の本をかさねて支えにして、新宿の画材屋で買ってきたおおきな画板を斜めに立てかけて作った即席の見台は、いつかちゃんとしたものを買おうと思っているうちに四年もたってしまっていた)、いつもどおりに動かないように胃のあたりで押さえて固定しながら、そこに広げられたゲラの一文字一文字を追いつめるようにしてじっとみつめた。
すこし疲れてくると首を腕を交互にぐるぐるまわすストレッチをして、それから台所へ行って熱いお茶を淹れて、すこしずつ冷ましながら時間かけてゆっくり飲む。
わたしはいくらでも机にむかうことができるような気がしたけれど、適当なところで休憩をいれておかないと思いもしないところで見落としをしてしまうことがあって、だから二時間に一度は休憩をとるようにしなければならなかった。そしてひととおりのゆるんだ時間が過ぎると、また机に向かっておなじことを延々とくりかえした。(p8)
最初のほうの会話以外の任意のページを開いて引用してみたのだが、こういう調子の「話すように書く」文体は同じ調子でいくらでも続けて書けるような気がするし、冬子のようなありふれた日常生活の一齣一齣を語っていくのに見合った言語だと思える。
こうして、ああして、それから、そして、次にあれをこうして・・・とそれはとめどなく語られていく。「(<冬子が仕事にしている校閲の作業で>・・・見落としをしてしまうことがあって、だから・・・」という、因果関係を含み、物事の理由を言う、一旦切られて構造化されるべき表現も、ここではふたつの要素が並列され、起伏の無い平坦なつなぎになっているようなところに、話体としての特徴があらわれている。
こうしてつぎつぎに現われる日常的なモノたちや、その由来や、それを扱う冬子の手つきや、彼女の思いに、次々興味を持って追うことがこの言語を読むことであり、それができなければ、それこそ登場人物の幾人かが冬子に言うように、読んでいて、それがどうした、と「イライラさせられる」だけだろう。
これらの指示的な言語がするどくぶつかりあって或る緊張を高め、なにか別の意味や像を生み出す(喩)こともなければ、激しく転換し、あるいはそれぞれの言語の選択の強さを際立たせて競い合うようなこともない。
その言語は私たちの意識を高みへ引き寄せて、そこからしか見えない価値を垣間見せてくれるわけでも何でもなく、どこにでもありそうな街路に車をゆっくりと走らせるとき、まるでジム・ジャームッシュの映画「ダウン・バイ・ロー」の冒頭で快適に車窓を流れて、次々に現れる、ごくありふれた街の光景なのに、新鮮この上ない映像のように、冬子の日常の細部をつぎつぎに見せてくれる。
これは作者自身がそのような光景を美しいと思い、そのような日常に価値を見いだしていなければ紡ぐことのできない、理念の高みから意識的に街路へ、日常の光景の中へと下降して紡ぎ出された指示的言語だと思う。
夜があけて、朝がやってきて、すみずみにまで行きとどいている空の青さをみながら、目には映らないけれど、三束さんに教えてもらったそこにあるはずの無数の光のことを思い、仕事をし、そうしているうちに薄暮がおとずれ、毎日は何度でも夜になった。(p198)
そう、そのように繰り返されていく冬子の日々が飽くこともなくここには描かれている。
三束という不思議な中年の男性が冬子の前に現れ、次第に関係が深まっていくとき、わたしたち読者は、これは都市の底辺に近い片隅でひっそりと生きる、経済的にも人間関係においても貧しく、本当に心を開く友人も異性も持たず、自分の小さな世界に内向していた誰にとっても居ても居なくてもいいかに思われるような三十代も半ばの地味なことこの上ない女性が、五十代もおわろうという中年男性に出遇って徐々に心を開き、やがて恋に陥る、ささやかではあってもそこに恋愛を基軸にしたドラマが展開される物語かとも思ったが、それはいわば肩透かしに終わる。
むしろこの作品はそうしたドラマ性をいわば脱構築してしまうような、非ドラマ的な語りの言語で書かれている。
そのことと、冬子のような存在によりそう作者の思想は不可分で一体のものだろうと思う。
●「夏物語」(2019)の言語
その人が、どれくらいの貧乏だったかを知りたいときは、育った家の窓の数を尋ねるがてっとりばやい。食べていたのや着ていたものはあてにはならない。貧乏の度合いについて知りたいときは、窓の数に限る。そう、貧乏は窓の数。窓がない、あるいは数が少なければ少ないほど、その人の貧乏がどれくらいの貧乏だったのか、わかることが多いのだ。(p8)
この小説の第一部はこんな一節ではじまる。その後を読めば、以前に語り手の<わたし>が友人かだれかに話した内容だと知れるが、語り手の<わたし>は作家なので、この種のある意味で知的なものの言い方やこうしたちょっとしゃれた考えかたや会話は不自然ではない。
『夏物語』の(とりわけ第二部の)言語は、描写の対象に対する指示性と、自身との向き合い方自体の表出とが、こうした言語の抽象度に見合う水準で均衡を保って表現されている。
ここであらかじめ断わっておくが、第一部は既にふれた『乳と卵』と物語としての結構も登場人物も、その間に起きることも、そしてクライマックスシーンも含めて、多くの箇所で文章表現そのものもそっくり同じで、ただ物語としてより細部に行き届いた描写があり、表現が豊かになっている。
しかし、それは主として言語の指示性に関わるところで、ここで着目している自己表出としての言語からみた表現としては、まったくあらたに書き起こされた第二部の言語表現に本作品で達成された特徴的な言語表現が顕著にみられる。従って、ここでは第二部に焦点を定めて論じてみたい。
『すべて真夜中の恋人たち』で到達した話体への下降を経て、この『夏物語』では反転、高度な文学体への上昇を遂げて、一種知的な文体を確立している。
物語の語り手や登場人物がこの作品のあとで書かれた『黄色い家』のまだハイティーンの未熟な花や蘭、桃子、あるいは発達障害のある黄美子とは異なり、ここでは語り手であり主人公であるのは作家の<わたし>であり、その物の考え方や会話ははるかに知的なものだ。
彼女と対話する周囲の登場人物も、同じ作家の遊佐リカ、医師で不妊治療の一種であるAID(精子提供)治療についての会合をプロデュースする逢沢潤、編集者の仙川涼子、書店員時代に同僚だった紺野りえ、さらに逢沢とつきあっていた善百合子など、みな知的会話を交わせる知性の持ち主であり、自分の言葉を持つ人たちだ。その会話は激しくぶつかればぶつかるほど知的な高みへ、理念のほうへ上昇していく。
第二部のテーマになっている精子提供による人工授精をめぐる議論、さらにその背後にある子供を生むということをめぐる存在論的な議論も、ここでは直接に抽象的な理念の言葉を交わし合うことで可能だ。
「もしあなたが子どもを生んでね、その子どもが、生まれてきたことを心の底から後悔したとしたら、あなたはいったいどうするつもりなの。」(P432)
「きっとわたしが何を言ってるのか、わからないだろうと思う」
善百合子は鼻で小さく息をついた。
「でも、わたしはすごく単純なことを考えているだけなの。どうしてみんな、こんなことができるんだろうって。どうしてみんな、子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを、みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を、こんな途方もないことに、自分の思いだけで引きずりこむことができるのか、わたしはそれがわからないだけなんだよ」
そう言うと善百合子は、右の手のひらで左腕をゆっくりとさすった。黒いワンピースの袖から伸びた腕は白く、照明の光の加減でところどころが青みがかってみえた。
「一度生まれたら、生まれなかったことにはできないのにね」善百合子はかすかに笑って言った。(p433)
人工授精で子供を生むことを考えている<わたし>に対して、子供を生むこと自体を根源的に否定し、拒否する善百合子が詰問する場面だ。知的な言葉を頭の中だけで操作することを覚え、愛や性を冷笑するナントカ女史みたいな爪先立った女が言いそうな、ひどく観念的な言葉に聞こえることは善百合子自身が知っているが、彼女はただいきなり存在させられて、生れて来た瞬間から死ぬ瞬間まで痛みだけを感じ、苦しみぬいて死んでいく子どものその痛みを現実のものとして、自身の痛みのように感じざるを得ない女性として設定されている。
その設定には多少無理を感じるし、彼女がそういう存在で有らざるを得ない背景や事情が十分に説得的に描かれているとは思えないけれど、もしそういう女性がいたとすれば、子供を産むことについて様々な意味で無自覚なまま、いつもうまく行く方に賭ける賭けのように、「やってみなければわからないこと」と身勝手な決断を正当化して、自分の一方的な思いで、本人が望むわけでもないのに赤ん坊をこの世に存在させるという「暴力的」な振る舞いに対する彼女の否定と拒否は、少なくとも論理的には否定しがたい迫力があり、聞く者の胸に鋭利な刃のように突き刺さって来る。
善百合子の言葉は高度な文学体の達成によって可能になった理念の化身が語る言葉のようだ。
「わたしがしようとしていることは、とりかえしのつかないことなのかもしれません。どうなるのかもわかりません。こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも、わたしは」
自分の声がかすかに震えているのがわかった。わたしは小さく息をして、善百合子を見た。
「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」(p525)
先の会話からのち、再び善百合子と会う<わたし>が、いわば善百合子の詰問に対して答える形で語る場面だ。指示的な言語をたどって読むだけでは、「間違うことを選ぼうと思います」という<わたし>の言葉は「意味が分からない」と思えるだろう。
しかし、この言葉は<わたし>の善百合子の詰問に対する論理的な回答ではなくて、<わたし>の、人生に対する姿勢、子どもを生むことに対する覚悟、自分とやがて生れて来ることになるだろう子どもの将来に対する不安・怖れ・わからなさ・希望・夢等々のあらゆる思いとその果ての全身全霊もってする決意が込められた回答なのだ。
別の言葉で言えば、これは理念に対するに理念で応じる言葉ではなく、夏子の存在そのものによって、その根源から発せられる言葉だ。本作品全体が、そうした夏子の存在の根源的な不安や怖れに由来する、彼女の動揺、迷いの軌跡を描いたものと言っていいのであって、上の言葉はその苦しい行程の果てに彼女が自身の存在の根源から発した言葉なのだ。
そうした<わたし>の複雑にして高度な昂揚感を伴う内面の意識が、「間違うことを選ぶ」という通常ではありえない選択の決意表明であるような言語、つまり、それが正しいと思うから私はこの考えをとる、という言い方ではない、ある意味でそうしたストレートな指示性をあえて逆方向に歪ませた言葉で表現させている。
それは<わたし>の表出意識が、指示性を言語の自己表出性に強く引き寄せられることによって自然に生じた歪みであり、それがここで<わたし>が言いたいこと、つまり言語の指示性を、効果的に強めている。もちろんこうした言葉を語り手の<わたし>に語らせているのは言うまでもなく作者の表出意識だ。
ふと男が顔をあげてゆっくりとふりかえり、わたしのほうを見た。そして目があった。顔は服や髪とおなじくらいに汚れ、頬は痩せて削られたような陰をつくり、まぶたは洞穴みたいに落ち窪んでいた。口がうっすらとひらいて、ふぞろいな前歯が見えた。夏子、と呼ばれた気がした。夏子、と声がしたような気がした。心臓が音をたてた。みぞおちがはっきりと疼いた。夏子。わたしは思わず後ずさった。男はふたつの小さな黒い目でわたしをじっと見つめていた。わたしも男から目をそらすことができなかった。夏子、と男はふたたび小さな声でわたしを呼んだ。思いだそうにも記憶のどこにも残っていなかったはずのその声は、一瞬でわたしを過去に引きもどした。潮の匂い、防波堤の石。深い呼吸のように盛りあがって、砕けつづける硬い波。ビルの狭い階段。錆びついた郵便受け。枕のまわりに積みあげられた週刊誌、洗濯物の山。酔っ払いたちの怒鳴り声。おかんは、と男はさらに小さくかすれた声で言った。わたしはもう一歩後ろに下がった。おかんは、男はまた小さな声でわたしに尋ねた。死んだよもう、とわたしは絞りだすようにして言った。(p264)
銭湯に出かけた<わたし>が靴を履いて外に出て、冬の街をあてもなく歩き回り、ビルの谷間の喫煙スペースになっている暗がりにしゃがみ込んでいる人影に引き寄せられるように近づいて、眼の前のしゃがんで水が入った灰皿の吸い殻を排水溝の蓋に押し付けて汁を切っている男を見ていて、逆に見返され、名を呼ばれ(たと思い)、<わたし>は一瞬にして過去に引き戻され、男は記憶にもないはずの父親となって、おかんはどうした、なぜ助けてやらなかった、と<わたし>に迫るという、現実と幻想とが混然一体となった鬼気迫る場面の描写だ。
こういう描写はこれまで読んで来た川上の何冊かの長編小説では見られなかったように思う。<わたし>が銭湯帰りにたまたま通りがかって見かけたビルの谷間の暗がりの人影にちかよったときの心象風景にすぎないのだが、ここでは言葉の指示性が喚起する対象像が、現実と幻想との二重性を帯び、ぶれて二重写しになった像のように重なったり分離したりして見え、両者混然として、ふとしたきっかけによって一瞬にして過去に呼び戻され、<わたし>の内部に過去のモノたち(その中にはきっかけをなした記憶にもない父が筆頭として含まれているのだが)が堰を切ったようになだれ込んできて、激しい眩惑を覚えている状態を緊迫感あふれる文体で描き出している。
もちろんそれは、彼女の現在の心の状態を示すとともに、この一節、この場面全体が、彼女の過去に対する、あるいは父親に対し、あるいはまた母親に対する心のありよう、ありきたりの言葉でいえばトラウマといってしまってもいい、そんな過去へのこだわり、ひっかかりを暗示する暗喩となっている。
それを可能にしているのは、このような幻想と現実を目まぐるしく転換して二重の像をかたちづくる強い指示性を生み出している自己表出の高みであり、「わたくし率 イン 歯―、または世界」以来の文学体の達成を踏まえ、「すべて真夜中の恋人たち」の話体への下降を経て、反転、文学体へと向かった本作の達成に違いない。
大阪へ帰っている<私>を追ってきた逢沢に会い、港へとむかい、<わたし>の街と海と空が見える観覧車に二人で乗る場面がある。とても好きな場面だ。
観覧車は動いているのかいないのかが一瞬わからなくなるくらいの緩やかさで、ゴンドラは少しもゆれることなく、ゆっくりと上昇していった。わたしたちはむかいあわせに座り、窓から外を眺めた。特殊なプラスティックなのか素材はよくわからなかったけれど、よくみると窓の表面には細かな白い傷が無数についていて、それでかすかに靄がかかっているようにみえた。夏の薄暮を押し上げてゆくように、少しの音もたてずにゴンドラは昇っていった。水族館の屋根の高さが目のなかで少しずつ下がりはじめ、そのわきの公園の樹木や付近のいろいろな建物がだんだんに区切られて、静かに波打っていた。何艘かの船が海面に指でなぞるような小さな白い跡をつけながら、ゆっくりと移動していった。逢沢さんは目を細めながら、遠くを見つめていた。(p509)
観覧車にのったら、そんな風に動くだろうし、そういう景色が見えるだろう、という、とりたててどうということもない描写に見えるけれど、なぜが私はこの作品の中でこういうところにひどく惹かれる。
これは<わたし>と逢沢との距離がもうなにかが満ちて来るところまで縮まったころに、大阪へ来ている<わたし>を知った逢沢が、わざわざ彼女に会う為に大阪までやってきて、二人が会い、私たちもよくよく知っている観覧車に二人で乗って、<私>が生まれ育った町と海と空を見る場面だ。そしてこのあと二人はゴンドラを降りて駅へ向かう。
夕映えにそっと背中を押されるように、わたしたちはゴンドラのドアをくぐって昇降台に降りたった。深く息を吸いこむと夏の夕暮れが肺を満たした。潮をふくんだ風が肌を撫で、夜のはじまりをそっと切りひらいていくように、わたしたちは駅へむかって歩いていった。(p516-517)
そして別れ際に逢沢が言う。「いまも夏目さんが子どものことを考えているなら、僕の子どもを産んでもらえないだろうか」。
この言葉にいたるまでの二人のありようとして、先に引いた観覧車に乗った二人のありようは、何でもない描写に見えて、これ以外にありえないほどしっくりとおさまっている。<わたし>が目にする窓ガラスの無数の小さな傷とそれでできている靄のようなガラスのくもりも、「目を細めて遠くを見」る逢沢の姿も。
とんがった言葉もなければ、焦点をしぼった鋭利な場面選択も、激しい転換も、思わせぶりな喩もないが、このゴンドラの乗っていく二人を描く一節全体が、それを挟んでいる前後のコンテクスト、わざわざ彼女に会いに大阪までやってきた逢沢、そして自分の子を産んでくれと告げる逢沢、という<わたし>の遭遇する出来事のさりげない喩になっているかのようだ。
言葉はひとつひとつの語彙が指す物たちや風景に対する指示性に仕えながら、この一節の前後のコンテクストから与えられたかのような自己表出の高みに支えられて、全体としてなにか淡く目には見えないが確かな<わたし>や逢沢の抑制された強い思い、作者の対象に向かうと同時に自身に向かうありよう自体を表出しようとする契機を、その言語は孕んでいるようにみえる。
「観覧車は動いているのかいないのかが一瞬わからなくなるくらいの緩やかさで、ゴンドラは少しもゆれることなく、ゆっくりと上昇していった。」「夏の薄暮を押し上げてゆくように、少しの音もたてずにゴンドラは昇っていった。水族館の屋根の高さが目のなかで少しずつ下がりはじめ、そのわきの公園の樹木や付近のいろいろな建物がだんだんに区切られて、静かに波打っていた。何艘かの船が海面に指でなぞるような小さな白い跡をつけながら、ゆっくりと移動していった。」というような表現は、ここでは作者が語り手であり主人公である<わたし>に感情移入した上での、<わたし>の目から見たゴンドラの動きと読めるが、作者の視点からの描写とみることができなくはない。
この二重性の含みに、この場面を二人の置かれた状況と関係がいまどんなふうに近づこうとしているかについての作者の意想が込められている。逆の言い方をすれば、そうした表出意識が、この一見さりげないが、含みをもつ言語を、或る自己表出の高みで支えている。
このようなところにも、川上がこの作品で新たに到達した文学体の一例を見ることが出来るように思った。
真っ白な光が頭のなかに、体のなかに満ちていて、そしてそこに? ゆっくりと広がっていくものがみえた。それは、はるか何万年も、何億年も離れたところで音もなく呼吸している星雲だった。暗闇のなかでありとあらゆる色が渦を巻き、けむり、星々は瞬きながら、そこで静
かに息をしていた。わたしは目をみひらいて、それをみた。そのもやは、その濃淡は? こみあげてくる涙のふくらみのなかで静かな呼吸をくりかえし、わたしは瞬きもせずに、その光を見つめていた。わたしは手をのばして、その光にふれようとした。腕をのばして、わたしはそれにふれようとした。そのとき、泣き声が聞こえた。打たれたように目をひらくと激しく上下する胸がみえ、わたしはあおむけになって看護師に汗をぬぐわれながら呼吸をくりかえしていた。わたしの心臓は全力で体じゅうに酸素を送りこんでいた。瞬きのあいだから、赤ん坊の泣き声がした。四時五十分ですと声がした。赤ん坊の泣き声が鳴り響いていた。(p542)
大団円だ。ここの表現も指示的な言語の意味する内容はまったく異なるけれど、先に引いた、<わたし>がビルの谷間の暗がりでしゃがんで濡れた煙草を処理しようとしている男に記憶にもない父親の幻像をみて一瞬で過去に呼び戻される場面と、言語表出としては同じ意味合いをもった一節だ。
この作品で獲得された言語によって、作者はもうさりげない話体のような文体がそれ自体で高度な喩にそっくり転換するような文学体を基底としながら、あるいは逆に大阪弁のリズムで話芸のように繰り出される話体の言葉を基底としながら、両者がある均衡を得るような作品を自在に生み出すことができるだろうし、幻想と現実が二重写しに相互を映し出し、難しいインテリ言葉などと縁のない、どこか都市の片隅でひっそりと生きる孤独な人間の日々のふるまいや言葉自体が、どんな高度な知性の持ち主が語る理念よりも高いあるいは深い世界を創り出すことができる言語表現の場に立ったのではないかと思う。
●「黄色い家」(2023)の言語
語りであり主人公である<わたし>・花は、あるとき映水から、花が共同生活を営む黄美子がどういう女性であるかを聞かされる。それは、花が普段黄美子と接していてうすうす何となく気づいてはいたが、それが何なのかはっきりとは認識していなかったこと、はっきりと言えば黄美子が発達障害であり、幼いころから苛酷な人生を強いられてきただろうというような話だ。
黄美子の右手に「大きなほくろみたいな入墨」があって、それは幼いころ、黄美子がいつまでたっても右と左が覚えられないために、母親と男に入れられた入れ墨だということも、映水から聞かされ、花は大きな衝撃を受ける。
この話をきいた日、黄美子が買って帰ったたこ焼きを一緒に食べながら、花は、黄美子の「小さな楕円の青っぽいあざのようなもの」を右手の親指にみて、涙を流す。そして、黄美子といっしょに夜店の屋台へ行ったことを思い出す。(この場面は、この作品の中で3度繰り返される「冷蔵庫から漏れてくる黄色い光」を引用したところで一度引いているが、この作品のなかでも私が最も好きな場面であり、素晴らしい表現なので、再度引用しておきたい。)
たこ焼きを食べながら、わたしは遠い夏の夜のなかにいるようだった。どの夏も、あの夏も、艶やかに光るりんご飴や綿菓子、水のなかでちらちらとゆれる金魚の赤色、色とりどりのスーパーボール、土の匂い、たれの匂い、いつまでもとぎれない煙に人々の歓声が混じりあって、夜はどこまでも膨らんでいった。
暗いところを、さらに濃い影に縁どられた子どもたちが駆けていった。夜はこわいよ、そっちじゃないよ、何度くりかえしても子どもたちは笑うだけで、これが夜であることがわからない、夜がなにかもわからない、誰にもそれがわからない。それでも行く手にはぼんやりとした光がみえて― それはぎゅうぎゅうにつめられたウインナや菓子パンや缶詰の隙間から漏れてくる懐かしいような淡い光で、気がつくと、黄美子さんがわたしの顔を見ていた。
「黄美子さん」かすれた声が出た。
「もう、まえみたいに、急にいなくなったりしないでね」
「そういえば、あったね」黄美子さんは笑った。
「笑わないで」わたしは言った。「ずーっと一緒だよ」(p229)
このように語り手である<わたし>・花の心に去来する思いや、喚起される記憶、ぼうっとしているときに浮かんでくる光景などが、こういうことを思い出した、という時間の遠近法が失われて、いま眼の前で起きていることのように、花の心象風景が直接描写される部分は、この小説のもっともすぐれた表現をかたちづくっている。
それは花の内面の「現実」なのであって、それゆえ花にとっては目の前の周囲の現実とかわるところのない、いやそれ以上に生々しい現実だし、このような文体で描写されるにふさわしい光景なのだ。
そして、それはあとにつづく現実世界の客観描写である、花と黄美子との会話のような実際の花のふるまいと響き合い、先の花の心象風景の表現が、あとの客観描写の含みの喩として一体的に、花のこの場面でのありようを表現している。
幻想といえば幻想なのだが、二言三言、かすれた声で言う花の気持ちが、その幻想の光景を像的な喩としてとても強い印象を与え、花の声がなぜかすれ声なのか、なぜそんなことを突然言い出すのか、すべてがその幻想の光景によって直観的に私たち読者に与えられる。
こうした幻想と現実とが重なり合い、融解し、幻想の光景が現実の登場人物の心象の喩となるような言語表現は、すでに見て来たように、「夏物語」における、新たな文学体を基底とする言語的達成なしには考えにくい。
花が時間の遠近法を明確にして、こういうことを思い出したとか、こう思ったからこう言ったというふうに、自分に向き合い、自分との距離を明確にして語るのではなく、そうした遠近法を失って、すべて目の前で起きている現実として自分の思いを経験し、それをそのまま語るように、作者も主人公・花の内面を、過去の記憶として、あるいは現実と区別される幻想として、時間と空間の遠近法を明確にして自身と向き合う方法をとらずに、現実も幻想も過去も現在も、目の前に展開される、心象風景自体がまるごと喩に転化するような、いま・ここの現実として物語る方法をとっている。
同様の特徴的な表現はこの作品の至るところに見いだされるが、たとえば物語の冒頭、黄美子が逮捕されたことを報道で知って不安になり、花が加藤蘭に電話をかけ、二人は会うことになる。過去がなまなましく甦って不安でいっぱいの花に対して蘭はもう遠い過去のこととして忘れてしまいたがっているという設定での場面をひろってみよう。
「わたしたちがやってたことなんか、べつに大したことじゃないじゃん。わたしはそう思うよ。そんな二十年越しに気に病むようなことじゃぜんぜんないって。今の若い子とか、もっとえぐいことやってるでしょ」
「そうなのかな」
「そうだよ」蘭は少し考えるようにして言った。「しかもわたしら・・・やらされてたわけじゃん」
蘭が語る20年前の、花、蘭、桃子に黄美子の4人の共同生活、いっとき闇商売に盛り上がり、ノリノリでやっていたあの生活は、いまや蘭にとっては「やらされてた」ものになり、まさに花が目にした、黄美子が若い女性を拘束して傷を負わせたという報道のような、世間の「外部の目」で見られた、オトナである黄美子がまだ十代の少女たちを事実上「拘束」して共同生活を営み、闇ビジネスで金を稼がせていた、という構図のうちに収まってしまう。
そのあとに「わたし」花の回顧として描かれる20年前の出来事を読んだ後でもう一度この欄の言葉を聴くと、もちろんそれは蘭が自分のありようを正当化し、すべての結果を黄美子たちオトナのせいにしようとしていることは明らかだし、花も、自分が全部黄美子に責任を負わせてすべてを忘れようとしてきたと自覚しているけれど、報道の背後にこれだけの現実のプロセスがあったことを知らなければ、いかにも蘭の言うことが真実であったかのように聞こえてしまうことに戦慄せざるを得ないところがある。
あれだけのことをノリノリで、自分たちの積極的な意志でやっておきながら、こんなふうにいとも簡単に誰かにその責任をすべて負わせて、忘れることができるのだ、と。おそらく私たちは日々目にする新聞やテレビの報道を見て、その背後に花たちが実際に経て来たようなプロセスを想像することなど、きっとまったくできてはいないだろう。
むしろ蘭の自分に都合のよい要約のように、新聞やテレビの報道をなぞって、いとも簡単な事件として理解しているのだろう。
作者は逆に、報道のようなありきたりの言葉の背後に、実際にあった生きた人間たちのドラマを丁寧に辿り直し、見かけの絵を反転させる。われらが主人公・花もまた作者の要請に応えて、蘭の言葉にどうしても納得できないものを感じ、忘れたはず、忘れようとしてきたはずの過去に復讐されるかのように、次々に記憶を喚起されることで、この物語が動き出す。
蘭の言葉に、花は納得できず、何か言わなければならないとひっかかりを感じているが、それが何なのかがわからない。
わたしは再会した蘭に話すべきほかのなにかが、大事ななにかがあるような気がしていた。そして蘭のほうでも、もしかしたらおなじことを感じているのかもしれなかった。けれどそれがなんなのか、どうやったらそれが正しい言葉として、自分の口から出てくるのかわからなかった。(p27)
写真のついた卓上の小さなメニューを見ていると、妙な音がした。外で、どこか遠くで、重いのか軽いのかはっきりしない、でもなにか巨大なものをゆっくりと転がすような音が鳴っていた。しばらくして、それが雷の音だということに気づいた。ガラス越しのむこうに目をやった瞬間、弾けるような音とともに雨がいっせいに降ってきた。それはまるで一粒ひとつぶが目視できるんじゃないかというくらいの大粒の雨で、何人かの通行人が鞄や手で頭をかばうように走り去っていくのがみえた。さらに勢いを増した雨は、斜向いの店舗のひさしやアスファルトを激しく打ちつけながら跳ねあがり、うっすらと白い煙をあげていた。(p28)
蘭との会話にひっかかりを覚えながら、それが何なのかわからないまま、ぼんやり物思いをしているところへ遠い雷の響きが聞こえてくる場面だが、最初はそれが雷とは認知されず「なにか巨大なものをゆっくりと転がすような」音として聞こえている。こうした花の心象風景、雷の音の聞こえ方自体が、客観描写されながら、それがそのまま彼女が「蘭に話すべきほかのなにか」「大事ななにか」の喩であるかのような効果を発揮している。
そして、それが「一粒ひとつぶが目視できるんじゃないかというくらいの大粒の雨」だという、外部の現実への拡大鏡でも当ててみるような鮮明な像に、さらに少し距離を隔ててみえる「斜向いの店舗のひさしやアスファルトを烈しく打ちつけながら跳ねあがり、うっすらと白い煙をあげ」る猛烈な驟雨の様子をとらえる視線へと移っていく。明瞭な遠近法にのっとった視線への、非常に鮮やかな転換が、幻想(物思い)と現実の光景との対比を際立たせ、相互の喩的な効果を高めている。それは花の心象風景を客観的な描写のように描く語りに秘密がある。
詩「先端で、さすわさされるわ そらええわ」から文壇デビュー作「わたくし率 イン 歯―、または世界」を経て「乳と卵」、「ヘヴン」、「すべて真夜中の恋人たち」、「夏物語」と、ずっと吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』の用語を借りていえば、書く過程で自己と向き合い自然に凝縮し上昇していく<文学体>をベースに書いてきた作者は、「すべて真夜中の恋人たち」で話体への下降を試み、「夏物語」で新たな文学体を生み出し、この作品では再びそこから<話体>のいわば物語る文体、語るように書く文体へと意識的な下降を果たして、文学体と話体の新たな均衡をとった文体を生み出している。
新たな文学体から話体へのこの意識的な下降は、おそらく、作者がこの社会で「持てる側」から決定的に隔てられ、宿命的に貧しく、「酷い目」に遭いつづけ、こうするしかない形で必死で生きて這い上がろうとしながら、どうしても元の木阿弥に還ってしまう、そんな「正しくない」かもしれないが生き方として「間違っている」とはどうしても思えない、と主人公が言うような生きかたに光をあて、その懸命に生きる姿、そうした人間どうしの優しさを共感を込めて描こうとしたことと、その文体とは不可分に結びついていると思う。
そして、この作品の言語が文学体と話体の微妙な均衡によって、平易だが緊張感を孕んだ文体を生みだしているのは、作者が自身と向き合う向き合い方の中に他者の影がさしているからだ。
それは自分が自分であることへの異和や、その具象化のひとつである乳房についてのこだわりや、自分が苛められる要因と考えて来た斜視などが、登場人物としての形象化を得た、この作品におけるポリフォニックな世界を構成する様々な登場人物、ことに語り手=主人公である<わたし>・花の世界のカウンターウエイトとみなすことができる、母・愛あるいは黄美子のような存在によるものであり、作者の表出意識における認識の相対性が形象化されたものとみることができる。
それははるかに「わたくし率 イン 歯―、または世界」における自己異和、自同律の不快にまで遡り、『乳と卵』や『夏物語(第一部)』における身体的な欠損感を象徴するような小さな乳房、豊胸手術への執着、あるいは『すべて真夜中の恋人たち』における他者とかかわろうとしてアルコール中毒者のように酒に溺れざるをえず、また意識せずとも生理的身体的に確実にダメッジを受けてしまうような、自分への異和、不安と恐怖、『ヘヴン』における心身の<欠陥>とみなされる斜視、さらには『夏物語(第二部)』における子どもを産むことへの不安、怖れ、さらには本作でも登場する母親へのアンビヴァレントな感情、或る種の罪障感等々とつづくものが、『黄色い家』と言うこの作品に至って、はじめて一人一人の登場人物として形象化され、いわば語り手の外部に独立した生命をもち、思いを持ち、考えをもって自己主張する他者として現われる。その他者を語る言葉として、新たに文学体と融けあう話体が導入されている。
この作品における主要な登場人物、花、黄美子、蘭、桃子、母愛、ヴィヴ、映水、琴美などは、それぞれ自分の世界を持ち、それぞれに自分の言葉、自分の主張を持って存在している。たとえば蘭や桃子は一見花に誘われ、終始花に守られ、従ってきただけのようにも見えるが、それぞれに花との「黄色い家」での共同生活をはじめるにいたる事情があり、それぞれに花とはまた異なる思いがあって一緒に働き、一緒に闇の世界へ踏み出していくのであって、金を稼ぎ、貯める目標が失われた時点で、その違いが鮮明になり、三人の間には深刻な亀裂が入る。このときに桃子(プラス蘭)が花に抗い、激しくぶつかりあう時に彼女が主張することは、桃子の立場に立って見ればごく自然なことであって、花が一方的に理不尽だと怒りを覚えるのは、むしろ花の方が心を病み始めているようにさえ感じられる。
「わたしがいったい、どれほどの思いをしてここまできたと思ってんの、それでなに、金はじゅうぶん貯まったからここで山分けしてぜんぶなかったことにしようって、桃子、あんなそんな話が通るとでも思ってんの」
「じゃあ訊くけどさ」桃子は一瞬ひるんだようにみえたけれど立て直し、わたしを睨んだ。「あたしらだって働いてたじゃん、それはどうなんの?」
「給料だしてただろうが」
「それが全体のいくらなのかとか、うちらわかんないままじゃん。おかしくない?」
「おかしいのはあんたの頭だろうが」
「は?おかしいのはどう考えてもそっちでしょ。てかしゃべりかたもおかしいから」桃子はせせら笑った。「とにかく、今ある金額みんなでちゃんとみて、平等に分けるしかないっしょ。それで解散すればいいじゃん」
「だから・・・・解散とか、無理だから」
「なんで?だって『れもん』も再開しないわけでしょ。だったらうちらが今こうやって一緒にいる意味ってなんなの?なくない?うちらいつまでこれつづけんの?いつまでこの家にいんの?いつやめんの?」(p514-515)
それまで何とか亀裂を抑えながら、一見従順に花の指示に従ってきた桃子や蘭がいまいくら金が溜まったのか、それをどう使うのか気にして窺い始め、とうとう桃子があからさまに花に抗い、花が衝撃を受けながら立ち向かう場面だ。
花の懸命の疾走を切ない同情と共に辿ってきた読者にとっては腹立たしいだけの桃子の言葉かもしれないが、いったん花のそれまでのふるまいや思いを遮断して、桃子の立場に立って見れば、それはそれで至極もっともな言い分ではないだろうか?
そこでは、語り手である主人公・花にとっての「外部」の世界とそこに生きる登場人物が明瞭に相容れない対立する存在として存立している。語り手の視界の内部では見えない「外部」の世界が、それに気づかない語り手=<わたし>のぶつかるものとして姿を現わす。
また、花にカード詐欺の手ほどきをし、実際の犯罪を指示し、管理するヴィヴの語るお金をめぐる哲学や自分たちが陥れる富裕層、「持てる者」たちと、自分たち「持たざる者」たちとの関係を形作っているこの世界の仕組みについて語る言葉は、ほとんど革命的な思想家の言葉のように鋭利で迫力に満ちていて、ヴィヴという女性の存在の現実性と固く結びついる。それが正しかろうとそうでなかろうと、このようなものの考え方がたしかにこの世界を穿つところがあると信じられ、またまさにこのような考え方をもち、このように日々を生きている存在が確かにあると信じられる。
それは語り手である主人公・花の思いや、そのありようとピッタリ重なることはなく、また作者が共感をもって描く世界ではないけれども、この世界に生きる人間の数だけ異なるだろうそれぞれの存在の根拠に深く根差した幾つもの世界のひとつ、それぞれの事情を抱え、それぞれの思いをかかえ、それぞれの主張をし、それぞれに異なる声を発する、たしかな現実性をもち、確かな存在感をもって存在する人間の世界であると私たち読者は感じる。
そしてそうした世界は語り手の視界を超え、<わたし>がぶつかることによって感じる<わたし>の異和として、その存在をはじめてあらわにする。
こういう登場人物たちの人間像を、たとえば高度の文学体を達成した『夏物語』における善百合子が主張する、まさに理念そのものが語るような言葉と比較してみればよい。『黄色い家』の登場人物たちは善百合子のように知的で論理的でとんがった言葉を発しはしないが、平易な日常語で、その存在の根源に根差した言葉を語ることができる。
それが本作品において作者が『夏物語』の文学体から話体のほうへ意識的に下降することによってあらたに獲得した文体の意味である。
こうした作品における複数の主要登場人物たちと彼らが聞かせるそれぞれに異なる声が交錯して実現する世界は、一般にポリフォニックな世界と呼ばれている。作家川上未映子はこの作品において、はじめてそのような世界に到達した。
『夏物語』の文学体があらたな話体を引き寄せ、融け合ってある均衡においていまみるような文体を実現したのは、そうした<いくつもの異なる世界>、作者≒語り手にとっての<外部>世界をまざまざと見出し、認識の相対性をその表出意識の根源に宿すことによってだと考えられる。
これはかつて吉本隆明が、漱石の『道草』から『明暗』にいたる言語表現の転移について指摘したことの現在的な再現だと思う。
夜は途中で何度も目を覚まし、ほとんど眠れないまま朝になった。
春の朝の光を受けたカーテンは、大きな真っ白の画用紙を思わせた。眩しさに目をとじると、いろんな色がにじんでは消えていった。暗い青や、濃い赤や、黄色や? そこで黄美子さんの顔が頭に浮かんだ。
黄美子さんは背中のまんなかあたりまである真っ黒で癖のある髪を手で束ねてみせながら、わたしの毛って黒猫がまるまる一匹入っててもわからないくらい多いでしょ、と言って、楽しそうに笑っていた。わたしも笑って、みんなも笑った。古い家。部屋はひとつひとつが狭くて、物がひしめきあって散らかっていたけれど、玄関はいつもきれいだった。靴はひとり二足までと決められていたし、玄関は良い運が入ってくるところでトイレは悪いものが出ていくところだから、いつも必ず清潔にしておかないといけないという決まりだったのだ。
わたしは目を閉じて寝返りを打ち、そんなふうに頭に浮かんでくるものをふり払おうとした。けれど、もうずっと思いだすこともなかったはずのいろいろなものが、手を取りあうように、つぎからつぎに、わたしのそばにやってきた。ところどころがたわんだ廊下の軋みはわたしたちの笑い声になり、眠るまえにずっと見つめていた天井の木目は誰かの煙草の煙になって、わたしに囁きかけるようだった。
鏡のまえに散らばったままの化粧品や、押入れのカラーボックスにぱんぱんに詰まった洋服や下着、それから、狭い台所のかごに積まれたカップ麺が頭に浮かぶ。それらは、わたしたちが暮らしたあの日々の匂いそのものを思い起させた。(p11)
物語の初めのほうに位置する、<わたし>が記事をみて黄美子たちと生活を共にしていた20年前の記憶が喚び起こされ、忘れようとしてきた世界へ引きずり込まれていく瞬間を描いた、古い記憶が喚び起こされたということ以外には、ある意味でどうということもない部分だ。
過去の暮らしの中の様々な事物が呼び起こされるだけで、さして物語の<意味>が凝縮されるような言葉も、とんがった言葉もみあたらない。けれども、この甦る記憶に次々現れる形象は、直接作者が描いている事物の像のようでありながら、現在の語り手≒<わたし>の頭の中(記憶)にいったん入って、語り手のまなざしで、正確に言えば語り手が20年前に目にした光景を、とぎれとぎれに、しかし次から次へと見せているので、その構造的な視点のありようが、20年前の心情とその20年前を思い出している現在の心情とを二重写しにする含みを持たせ、指示的な言語を歪ませ、「撓んだ廊下の軋みはわたしたちの笑い声になり」、「天井の木目は誰かの煙草の煙になって、わたしに囁きかけ」、「あの日々の匂いそのものを思い起させ」る。
一見なにげない話すように物語られるこうした表現に、この作品では含みがあり、物を眺める眼差しや記憶の喚起についての描写に語り手の心情が自然に表出されるような文体を作り出している。
春の終わりの日曜日の昼下がり、新宿の大きな通りには、たくさんの人々がひしめきあっていた。行くあてのない人もある人も、笑ってる人も難しい顔をしている人も、着飾った人も、みるからに疲れきったような人も、それぞれの速さで、遅さで、ここではないべつの場所へ移動しようとしていた。
すべてが偶然で、たまたまの光景であるはずだった。でも、そんな人々にまぎれて自分も足を進めているうちに、なんだかあらかじめ決められた動きみたいなものがあって、方向があって、それは誰にも分らないのだけれど、でもわたしたちはおなじ光のしたで、そして春の気だるいようなひとつの温度のなかで、ただそれに従って動いているだけなのではないか、誰かのなにかをただなぞるように、そんなふうにここにいるのではないかというような?なにか遠くから遠くのものを眺めているような、よくわからない気持ちになった。クラクションの高い音がしてはっと顔をあげると、信号の黄色が目に飛びこんできて、今まさに赤いに変わろうとする瞬間だった。車がいっせいに走りだそうとする気配がした。ふだんならわたしは足を止めて待ったと思う。でもわたしは打たれたように駆けだして、通りのむこうへ渡りきった。(p322)
これは火事でスナック<れもん>を失い、稼ぐあてを奪われた花が、映水の仲介でカード詐欺を差配するヴィヴに紹介された帰りに新宿の交差点に立って見る光景であり、そのときの心の動きだ。
どこで描かれているのは何でもない新宿の街路の光景であり、そこを行く人々の光景に過ぎないのだが、それが目に見える対象を指示し、たどっていく言語が花の内面の思いのほうへ引き寄せられ、その心象が投影されるようにして、対象の像そのもの、人々が通り過ぎていく像そのものが「あらかじめ決められた動き」にただ「従って動いているだけ」「誰かのなにかをただなぞるように」そんなふうにここにいるかのように歪んで見える。描写される言語自体が、指示性を語り手≒作者の自己表出のほうへ歪ませて表出される。
もちろん、こうした評言、火事でスナック<れもん>を奪われ、闇商売の世界へ踏み込んでいく語り手≒主人公・花の感じている不安のメタファーとなっているし、それはまたはるかにデビュー作にあらわれた、あの自同律の不快へ、自己異和にまで遡る、この作家の表出意識の根源からやってくる不安や怖れにつながっている。
この手の何でもない表現は、この作品のページを適当に開けばいくらでも見出せるし、これ以上くどくどと述べる必要もないだろう。これでいちおう言語表現の面からみた『黄色い家』についての理解を中断して、この作品への感想ないし書評めいた拙文を終えることにしよう。
© 2023.9.28