「日の底で」(板倉善之監督)
この映画の描く世界は小さな世界である。壊れてしまった一つの家族。ある意味で現代日本のどこにでもみられるような、とっくに壊れ、壊れていることを家族全員が知りながら、この社会で生きるために「家族」の形を保ち、一つ屋根の下で、息を詰めるように共存せざるを得ない。そのために、閉じた家族の中で極限まで内圧が高まり、遂に臨界点に達するといった情況が設定されている。描かれた世界は狭い。しかしその狭さは、ただ身の回りの私的な世界しか見ようとしない、映画の作り手の怠惰で自閉的な精神の狭さではない。対象の選択性を狭めることによって得られる凝集力を、世界へ切り込む武器とする、アグレッシブな方法としての、明確に意図された狭さである。
主人公は学校を出ても職につかず、映画を撮りしながら家で「ぶらぶらしている」青年・好ニ。彼は父の後妻である母・吉江と、年のひらいた盲目の妹みきとの三人ぐらし。七年前に兄裕人が、口論の末に父を鋏で刺し殺すのを目撃し、振り返った兄の表情が脳裏に焼きついている。だが、彼もなぜそんな悲劇が彼の家族に起きたのかを知らなかった。またこの映画を見る観客にも、最初、そのことは明かされない。そのため、なぜ吉江がこのように物言わぬ暗い表情で、頑なとも見える硬直した立ち居振る舞いをしているのか、よく分からない。ただ、いずれも実の息子ではない父親殺しの長男と、反抗期の次男を持ち、盲目の連れ子をかかえる身に、下心ある義弟(好ニの叔父庄一)のお節介に生理的嫌悪感を覚えている寡婦といった程度の認識をもって見ていくことになる。
しかし、そのうちに私たちは、主人公好ニとともに、吉江が薄暗い部屋で映写機をまわしてみていたフィルムを目にし、そこに映る吉江と裕人の姿によって、「真の理由」を知ることになる。この事実が明かされることによって、私たちは吉江のそれまでの振る舞いや、これ以降の吉江や好ニの振る舞いが腑に落ちる。しかし、現代ではこういったことは世の中にありふれているので、その事実自体が衝撃である、ということはない。つまり、なにか隠された衝撃的事実が明らかにされた、というふうな感じは受けない。ただ、私たちは作品の世界にのめりこんでいるとき、好ニとともに、その事実の前に一瞬息をのみ、なにかが自分の中で変わるのを確認するだけだ。
映画の作り手もまた、必ずしも「近親相姦的なもの」を衝撃的な事実の暴露として扱ってはいない。むしろ、そのことが好ニの内面にとってターニングポイントになることのリアリティだけが正確に描かれている。壊れていながら壊れることを許されずに内圧を高めて臨界点にいたるドラマが、外面的な事件によってではなく、あくまでも好ニの内面の動きを禁欲的なまでに正確にたどることによって描くところに、この作品の統御されたテンションの高さが保たれている。
いま「内面」と言ったが、実はこの映画で「内面」とか「外面」といった区別はあまり意味がない。好ニは、「内面」を表現するような台詞を一言も吐くことはない。いかにも内面の苦悩を表現するかのようなしかめ面をしてみせることもない。ほとんど眉ひとつ動かさないほどだ。凶器の鋏のような鋭く短い言葉や、無駄のない身体の表情と軌跡がすべてだ。この作品では、「外皮を剥いていくとこういう内面がありました」という絵解きも、「結果をさかのぼっていくとこういう隠された原因がありました」、という絵解きも、それ自体が目的とされてはいない。また、近親相姦や殺人や家庭の崩壊がアプリオリな「問題」として持ち込まれているのでもない。カメラはあくまでも好ニの身体の表情と軌跡を追う。プレゼンスとしての好ニだけを丹念に追っていく。
演出は徹底して無駄を排除している。推敲とはひたすら削ることだと頑固に信じている作家の手にかかる名短編のように、映像も台詞も容赦なく削られている。こういう若い完璧主義者の映画は、下手をすると削りすぎて貧しくなり、分かりにくい独りよがりな映像になりがちなものだが、この作品にはそれがない。切り詰められた姿ではあるが、曖昧なところはない。逆に省略が表現の強さになっている。
説明的な台詞は一言もない。「近親相姦的なもの」も殺人も自死も、決定的な場面は映像として表現されず、暗示されるだけだ。この禁欲的な省略の美学は母親と叔父のからむ部分以外は一貫しており、この饒舌の時代には特筆すべき美徳である。しかし、その暗示に思わせぶりな演出の曖昧さも過剰さもない。必要がないから描かれていないのであって、どんな曖昧さも許さない過不足ない描き方になっている。説明を押し付けるような野暮な映像も台詞も見当たらない。刈り込まれた映像と台詞が観る者の想像力を誘発して、直接には描かれない「次」のシーンを鮮やかに脳裏に描き出す。
このような演出に、好ニを演じた西村の演技がみごとに応えている。板倉監督はこの映画に最高の主役を見出し、素人俳優から最高の演技をひきだした。西村の身体の表情や軌跡と目だけの抑制のきいた演技は、彼にとっては自然態なのだろうが、ほとんど主演男優賞ものだ。吉江がテレビの音量を小さくしにきて、好ニの顔の傷に気づいて触れようとするところで、その手を振り払い、吉江を見る好ニの表情や、兄が父を殺害する現場を見る彼の表情などは、これが素人俳優かと驚ろかされる。この映画は彼の存在感なしには成立しなかった。
好ニの記憶に焼きついた、父を殺害した直後の振り向く兄裕人の表情も、とてもいい。盲目の妹も無難に子役をこなしているし、好ニをゆするかつての同級生も悪くない。(ただ、彼の好ニの最初の出会いのシーンはもう少し演出、演技とも工夫が必要だったと思う。)
これらに対して、プロフェッショナルな俳優の演技あるいは彼らの登場するシーンの演出については若干疑問を感じた。演技過剰の不自然さを感じてしまうのだ。
ほんとうに人を殺せる実戦の剣は、昔のチャンバラ映画のように振りかぶり振り回す剣ではなく、鋭い突きの一撃だそうだ。内圧の高まりも、暴発の決定的な瞬間も、すべてimplicitに描かれて無駄のない突きの一撃のような切れ味を見せているのに、なぜ母親の重さだけが、新国劇の殺陣のように、いかにも重く苦しいのです、と大仰にexplicitに描かれねばならないのか。それは全体のよく統御された禁欲的な、それでいてこのドラマにふさわしい自然な、演出の基調音から外れた印象を与える。叔父・庄一は世俗を代表するようなキャラクターで、好ニの世界からみればそのような外れた位置づけを与えられているので、その「外れ方」に、全体の演出意図とは多少のずれがあってもあまり気にはならないが、オイディプス王で言えば王妃役の母・吉江は壊れるものの要であって、この要の壊れ方はかなり決定的なことなので、最後まで疑問が残った。
細部にも行き届いた意志を感じる。ミルク入りのガラスコップが床に落ちて白いミルクが広がるタイトルバックから、窓や玄関のドアから暗い部屋に入る光の美しさ、決定的な瞬間にゆっくりとコマ送りになる吉江の表情と焼けるフィルム、好ニが最初からもてあそんでいる鋏の小道具としての使い方、まだ幼い盲目の妹の存在が自然につくりだす決して映像においてあからさまに明示されることのない隠されたもうひとつのテンション・・・それらの一つ一つを観るものが好もうと嫌おうと、また作品の中でその部分が結果的に成功していようと失敗していようと、それらのすべてに作り手の思考と意志が働いているのを疑うことはできない。どの部分をとっても、なりゆきまかせでいいかげんに放置したところがない。すみずみまで自分(たち)の作品として統御しつくす、という志が感じられる。
妹と二人、部屋の壁にもたれてハンバーガーを食う好ニが、手をのばして妹の嫌いなピクルスをつまみ出してやるシーン。好ニが美しい光を透過しているレースのカーテン越しに窓の外を眺めて、突然手にした鋏でレースを切りはじめるシーン。息詰るような本筋の展開とは一見無関係なこのようなシーンの挿入がこの映画をどんなに美しく豊かなものにしているか、心憎いばかりだ。
描かれた主題に沿った暗い閉ざされた空間を舞台にしながら、窓や扉から射し入る美しい微光を存分に生かし、逆光の中に人物の表情を見せるカメラも、とてもいい。映像の背後に寄り添う個性的な音楽や効果も、映像と台詞のテンションを裏切らない。
この作品に欲を言いだせば、前述の母・吉江役の演技と、彼女に義弟・庄一のからむいくつかのシーンの演出の部分の問題、さらにもっと欲を言えば、シナリオ自体の問題に行き着く。
この映画が何を描いているのかと最も基本的な問いを立て、私なりにその答をあえて手短な言葉にしてみれば、それは好ニの殺意に集約されるこの世界への違和感だということになる。作品の世界では、その違和感が好ニの具体的な身体の表情や振る舞いとして登場する。また、そのリアリティを支える構造として、壊れながら壊れることを許されずにどんどん内圧を高めて臨界点にいたる家族があり、そのさまざまな病像の根源に「近親相姦的なもの」の物語が置かれている。
しかし、この映画は近親相姦の物語でもなければ家族崩壊の物語でもない。原因と結果を取り違えてはいけないし、つねにいま生起する違和に確たる原因があるとは限らない。それはいま私たちが生きていることに確たる原因を問うことが無意味なのと同じではないか。好ニが殺人を犯すのは、古本を万引きしてみつかり店主に制裁されるところを盗撮された昔の級友にゆすられたという些細な出来事が「原因」である。しかし、たかがそんなことで人を殺すだろうか、と思う人々は別の「もっと深い原因」を探す。そこで一度崩壊(父の離婚、再婚)した家庭、父親殺しの兄、顕在的・潜在的な近親相姦・・・等々が用意されている。人はあるいはそこに「原因」を見つけ、「解答」をみいだして安心するかもしれない。
しかし、この映画「日の底で」は、そこに「原因」や「解答」を見出して自足するようにはつくられていない。それを保障しているのは、分かりやすい「原因」や「解答」に回収されない「世界への違和」を生きる好ニを好演する西村の存在感であり、「原因」や「解答」を与えるのではなく、そんな分かりやすい現代にありきたりな物語の結構を借りながら、それらに還元されない「世界への違和」を好ニの身体の表情や軌跡として現前させようとした板倉監督の志である。
わかりやすい「原因」や「解決」に導く、ありきたりの物語と、ここに創り出された映像の物語との差異は、人によっては同じに見えるかもしれないほど僅かだが、決定的なものである。いつかその僅かで決定的な部分が、誰の目にも明らかなものとなるほど成熟していくとき、この作品が借りているわかりやすい「原因と結果」や、「問いと解決」の結構自体が消えていくのではないか。それを消すことができるのは、第一にやはりすぐれたシナリオだろう。映画の現場では、かつてのシナリオを絶対視する姿勢から、より現場を重視する姿勢に変わってきているそうだが、たぶんそれは映像作品の種類・性格によっても異なるだろう。「日の底で」のような映画にとっては、なおシナリオが決定的な重要性を持つと思う。
若いすぐれた映像作家の出発を心から祝福したい。
* (註) 「日の底で」は、大阪芸術大学映像学科卒業制作作品展(2003年度)の出品作品で板倉善之監督作品(思考ノ喇叭社)。2004年2月28日、大阪・アメリカ村のBIG STEP 4F "BIG CAT"で上映された1時間8分の映画作品。
2004.2.29