平野啓一郎『マチネの終わりに』を読む
ベストセラーになって書店で平積みになっているのを眺めてからだいぶ時間がたち、そろそろ文庫本にならないかな、と思っていましたが、ほかに何冊かアマゾンで注文するついでに、ついでに買ってしまいました。
ひとつには、アマゾンの読者のレビューがほとんどみな熱に浮かされたような高評価で、こういうのは珍しいのではないかと思って、やっぱりそろそろ読んでおこう、というわけで・・・
結果的には、そういう評価を先に見てしまって、すこし意地悪な読み方をしてしまったかもしれませんが、私自身はそう心を動かされるような作品ではありませんでした。ですから、ひどく辛口な感想を書くことになりますが、ファンの方はご容赦を m(_ _)m
力量のある作家で、恋愛小説ではあるけれど、緻密な構成、テンションの高い文章で、主人公の生きる世界~演奏家や世界的なジャーナリストの棲息する場とその背景となっている世界~についてもよく調べが行き届いて、彼らの気持ちや行動を制約したり背中を押したりする身近な人間関係や背景の事情がきちんと描かれているとか、通常の書評家が称賛するような要素はほとんど備えていて、読者の高い評価もよくわかります。
恋愛小説としても、青春ものとは違って、多くの読者が「大人の恋」と書いているような、それぞれフィアンセや家庭を持ちながら一瞬の出会いから宿命的な行き違いによるブランクを経てなお埋火のように生活による摩耗を免れて貫かれる、中年のそれもかなり「ハイスペックな」(これは珍しくこの作品に否定的な読者のレビューにあった面白い言葉でした)男女の間の「純愛」物語、という特殊な性格の、しかしひたすら二人の一貫した恋情だけを追う「典型的な」と言った方がいい恋愛ものです。その意味では知的意匠をもった大人の純愛エンタメ(≒メロドラマ)小説として高い技量でもって成功している作品なのだと思います。
なぜ私がこの本を手にとろうとしなかったか、中身を読んであらためて思ったのは、この「マチネの終わりに」という幾分か気取ったタイトルが一因だということに気付きました。
それは上記のような「ハイスペックな」人物設定にも、描かれる世界にもよくマッチしたタイトルなのですが、私の場合はこの登場人物たちのような血統書つきサラブレッドみたいな生き物ではなく、そういうのが育つような厩舎で育ったようなお育ちのいい人間でもないので、なんだか読んでいて「歯が浮くような」という形容句が浮かんでくる居心地の悪さを覚えるのです。
この著者の作品は、「日蝕」、「葬送」、「決壊」、「ドーン」とこれまで4作を読んでいて、一番好きなのは「葬送」で、次が「決壊」です。
「葬送」はショパンやドラクロアが登場人物で、それこそ「ハイソ」な人たちの世界を描いてはいるのですが、あちらの国の話なので、私たちの誰もが或る程度は持っているヨーロッパ文化ってこういうんだろうな、というフィクショナルなベースがあって、その上に組み立てられた人物のやりとりに、「歯が浮くような」ところがあっても、それほど違和感はなかったのです。宝塚少女歌劇の「ベルバラ」や、新劇の赤毛つけ鼻の世界でも、それなりにシラケずに観劇できるのと同じ理屈でしょうか。
想像上のそれこそ「ハイスペックな」のちに第一級のアーチストたちとして歴史に名を残す若者たちが、芸術至上主義的な思い入れで自分の心身を芸術に捧げるありさまが、一種の思想劇のような体裁を借りて繰り広げられる・・・それは日本の現在に生きる庶民の私たちとは縁遠い世界ですが、他方で彼等の姿は、私たちが様々な間接的な情報から思い描いてきたショパンやドラクロアの人物像とそう違ったものではありません。
そこに私たちは土の匂いも血のにおいも嗅ぐことはできないけれど、そこをリアルに描こうという作品ではないから、なにか熱に浮かされたように自分にとって思い入れのあるものをめざして投身していくような若者の姿に共感することはできます。
とりわけ私たち「世界の中心」から遠く離れた東方の辺境の島国の住民は長い歴史の中で間歇的に海外の優れた文化を受け容れていくらかの葛藤はあってもその恩恵に預かって進化してきたために、受け入れ窓口であるインテリ、文化人のような存在ほど海外への憧憬とその裏返しである劣等感を持っていて、それはまた自国の庶民に対する優越感を形作ってきたことは周知のとおりで、第二次大戦後はその憧憬と劣等感の対象が欧米、とくにその源流であるヨーロッパ文化であったことは明らかです。
こういう一種屈折した心理が育んできた漠然としたヨーロッパ文化への憧憬や、芸術は無条件にすばらしいものであり、それを目指すアーチストたちは気高い尊敬すべき人たちであり、その苦悩はもっとも人間的に貴い営為であるというような思い入れがあれば、その種の「歯の浮くような」想像世界も、それほど違和感を覚えずに読めるので、そうした市場を踏まえた作品としては、「葬送」はきわめて日本的な作品として成功を収めたと言えるのかもしれません。
しかし、「マチネの終わりに」は現代の日本をベースにし、日本人(一人はハーフですが)を主人公にしているので少し事情が違ってきます。
恋愛物語の王子様のほうは天才的なギタリスト。お姫様のほうは、世にもまれな魅力的な美人で、著名な外国人映画監督の血をひき、多国語を自在操る、国際的な場で活躍するジャーナリストといったサラブレッド。
もちろん天才的なギタリストなんてのも結局は経済原則で、いまの豊かな日本からは、毎年のように国際コンクールで現れたりするのかもしれませんし、著者が巻末で挙げている「協力者」のギタリストは日本の第一人者と言われていて、その門下にはパリの音楽院だかどこだか蒔野聡史と同様に首席で卒業してというような人を輩出しているのも、クラシック音楽に縁のない私でさえ個人的なひょんな縁で知っているくらいですから、いまや珍獣扱いする必要はないのでしょう。
また何ヶ国語も喋れる女性の国際記者証をもった国際的なアートプロデュースができるような高度の知性と教養を備えた日本人女性というのも、その見本みたいな人に昔比較的間近に接したこともあるので、いまならそんな人は相当数あるのだろうと思います。
日本人は何ケ国語も喋るというと、すごい!と驚くけれど、ヨーロッパではとくにオランダとかベルギーとか周辺国の人間にはそんなのは全然珍しいことではないし、昔私が北欧を訪れたとき、ホテルで小学生を引率してきていた先生とお喋りした時には、そのころスェーデンでは4ヶ国語か5ケ国語だったか、小学校の授業で毎週教えている、と聞いたことがありました。
日本人もいわゆる帰国子女やハーフで知的上層階級とでもいうような人たちの中では、そういうのはもう珍しくもないでしょう。だから、人物設定自体が「ハイスペック」なのは、リアリティがまったくないわけではないし、それ自体で否定的な要素というわけではありません。
彼らの人物像がそれにふさわしい土地に芽吹き、それにふさわしい人間関係のうちに育まれ、太い幹を持ち、枝を伸ばし、花を咲かせているのだということが、自然にこちらに伝わってくれば、それほど違和感はないと思うのですが、彼らが国際情勢や人間について長いご託宣を語って、そうだそうだ、と共感しあって気が合う気が合う、と惹かれあって行けばいくほど、どこか二人ともつま先立った「歯が浮くような」ことを言い合って意気投合しているようで、こんなのがまっとうなアーチストや国際的ジャーナリストなのか、と興ざめてしまうようなところがありました。
その原因を考えてみると、やはり先ほど述べたような、ヨーロッパ文化なり芸術なりに対して、登場人物がただひたすらその結果を享受し、特権的な環境の中で身に着け、それ自体に何の疑いもなく憧憬や絶対視するような信仰を持っていて、それを体現するかに見える相手に投影し、重ねているところに原因があるのだろうと思いました。
クラシック音楽ファンの中にはときどき、そのような自分が憧れ絶対視した対象と自分や相手を同化させて高踏的なサラブレッド仲間のような意識を持ち、そういうものを憧れ信仰すること自体が、それの「分からない」人間とは異なる価値ある人間の証のように思いなす、スノビズムを絵に描いたようなクラシック音楽かぶれがいます。そういうことを滑稽だと見て取る視点を作者が持っていないから、二人の登場人物の芸術や人生や国際情勢をめぐる爪先立った会話が、そんなサラブレッド幻想を持たない読者には「歯が浮くような」ことを言っているな、と思えてしまうところがあります。
「葬送」には、まだ若い芸術家が芸術を至高のものとして追い求め、熱に浮かされるように精進しようとしている、青春像があって、彼らの青臭い議論は彼等登場人物に相応しいものであり、必ずしも作者のものではなくて、彼らを温かい目でみつめる作者のまなざしのほうに、作品としてのリアリティーが感じられたのですが、「マチネの終わりに」では、登場人物の薄っぺらな国際性や知性に対する作者の立ち位置が見えないところがあって、作者の目が彼らの目に重なってしまうところで、おいおい、と思ってしまうのです。
彼等の(したがってこの作品の)そんな弱点は、彼等二人以外の登場人物に割り振られた人間的な「貧しさ」によく表れていると思います。
二人のセリフでも蒔野の言う、現在によって未来だけではなくて過去も変えられるというセリフは全編を貫いてよく効いているけれど、それ以外に読んでいてハッとさせられるようなセリフをほんとうに吐いてくれない二人にイライラしますが(笑)、「ハイスペックな」二人と違って「言葉のひと」ではない脇役たち、三谷早苗やリチャードやジャリーラは二人と違ってほとんどまともな人間性を割り振られてはいません。
ちょうど芸術をあがめるヨーロッパかぶれのインテリが「芸術のわからない」庶民を見下すように(せいぜい憐れむように)、彼らは登場人物から優しい言葉や態度で扱われていればいるほど、その存在としては作品の中で無視され、見下され、せいぜい憐れみの視線で描かれている存在のようにみえます。
私はジャリーラが登場した時、この人が数カ国語を操って危険な紛争地に入り、人道的な観点で報道しようという、だれもがほめそやす世界を股にかけて活躍する美しい主人公を、硝煙や血の匂いのする現実のほうから相対化する人物になるのではないかと一瞬期待したのですが、むしろ逆に美しく完璧に知性的でリベラルな理想化された主人公をひきたたせる役割しか果たしませんでした。
三谷早苗やリチャードはさすがにこの主人公たちに人生をメチャメチャにされた人たちですから、ジャリーラほど脱色されてしまってはいませんが、せっかく早苗が最後に持ち出すイエスをめぐるマルタとマリアの新約聖書の逸話も、洋子を引き立たせる役割しか果たしていません。
それは例えば太宰の「駈け込み訴え」のイスカリオテのユダの言葉などと比較してみれば、決定的な違いがわかるでしょう。
作者は、早苗自身にマルタとマリアのエピソードを語らせて、洋子に「あなたはそれで幸せなの?」というような捨て台詞を吐かせて早苗を惨めに敗北させるべきではなかったと思います。
早苗は現実に「マリアのようなマルタ」として、罪を背負いながら聡史に寄り添い、その子を育てて、良き妻として、よき母として、強く優しく善良に生きていくことによって、洋子と拮抗すべき存在であるべきではないでしょうか。
作者にいま一歩深い人間に対する洞察があれば、早苗の出来心をこんなふうに物語の転回の要に用い、彼女に単なる嫉妬心に満ちた卑小な女の役割を与えて済ませることはなかったのではないでしょうか。こういう早苗の描き方によってこの物語転回の核心部分で、主人公たちが一時試練に会うのはこういう女がいたからで、というような安っぽい推理小説の種明かしみたいな、なにか人間のドラマとして薄っぺらなものが露出してしまいました。
もしこのような偶発的な出来心を物語の転回の要とするなら、その結果を一人で担っていく早苗という女にもそれ相応の人間的な敬意を作者は払ってもよかったのではないか。
罪を背負うその後の彼女の年月はラスコーリニコフの抱えたものに匹敵する重いものだったはずですが、彼女は終始そのような人間性を与えられないまま、早苗をひきたたせ、敗者となって、二人の西洋かぶれの恋人たちから置き去りにされています
リチャードに至っては、本業でも無能で職業倫理にも悖るようなつまらない男として、洋子をひきたたせる存在に貶められています。
この作品は日本を主な舞台にして、日本人を主な登場人物として書かれてはいますが、日本の土の匂いも空気の匂いもしません。むしろヨーロッパ文化に憧れ、芸術なるものに至高の光を見、自分が立っている地面に気づかず、そこに這う人間を見下し、無視し、憐れむべき存在としかみない、つま先立った男女の「愛」を描いてはいても、彼等の足下で大地を踏みしめ、耕し、彼らをすごい、すごいと尊敬し、大事にしながら、二人には価値あるものとは見えない日々を大切にして生きている人間の姿は、うすっぺらな紙人形としてしか描かれず、どこにも登場しません。
戦場に赴き、危うく死に直面もしながら、弱者のためにペンを振い、ジャリーラのような女性を助ける優しい洋子を、人間を見下し、無視し、憐れむべき存在としかみない、なんて言うと何を言ってるんだ?とたいていは驚かれるでしょうが、彼女がそういう酷薄な性格の女性だというのではもちろんありません。彼女自身はほんとうに「優しい人」で、良いことをしているという信念をもって、実際に身の危険を顧みずに行動をしているでしょう。
ただ、それは酷な言い方になるけれども、被災地へやむにやまれぬ気持ちで現地の人の気持ちを考えずに何の用意もなく飛び込んでいくボランティアのように、或る意味で諸刃の剣となるような行動です。
本人はやむにやまれずそうするのだから、良いでしょう。ただ、それが現実の世界で、また人との関係の中でどんな意味を持つかはまた全然別の問題です。現実の行動であれば、それは直接その人と接する人たちが判断していくでしょう。小説の作者みたいな視点でそれを外部から裁断することはできません。
しかし、小説の中の登場人物の振る舞いについては、ご当人は気づいていなくても、作者はその両義性を見ていないと、描き方のうちにそれは必ずあらわれ、人間理解として薄っぺらなものになってしまいます。主人公に対して、いい気なものだな、とか、なんて独りよがりなつま先だった人間なのだろう?周囲の人間が、優しい、強い、と称賛し、もう一人の主人公はそういう彼女に一目ぼれだけれど、それは周囲の人も彼自身も同様に薄っぺらだからなんだろうか、とどんどん幻想の世界が崩れていってしまいます。どこかで、そういう彼女を相対化するような存在が登場しなければ、彼女は理想化されたいい人というメロドラマのヒロインにとどまります。
その点で、ジャリーラのような戦地の子、なんでもない一人の難民がどう描かれるかはとても重要でした。
それは、ドストエフスキーの世界がスタヴローギンやイワン、あるいはアリョーシャのような、恐ろしくも、或る意味では一人で世界を背負うかのような人物を登場させながら、他方でそこに描かれる無知無教養なその日暮らしの庶民の一人一人が、どんなに彼等の肺腑をえぐり、心の井戸の底まで届くような言葉を吐いて彼らの思想、存在と拮抗し、これを脅かし、相対化するかを見れば明らかだろうと思います。
もちろんドストエフスキーと比較するなんて、誰だって叶うわけないじゃない、と言われるかもしれませんが(笑)、極端な例を出すほうがはっきりするでしょうからね。
「葬送」を読んだとき、平野啓一郎は日本の作家の中では、幾分古典的な言い方でいうすぐれた「思想小説」を将来書ける可能性のある作家だと思いましたし、作家としての力量は保証済みだと思うので、同じ恋愛小説を書くなら、「大人の恋愛小説」なんて通俗作家がいくらでも書いているので、そういう意匠の問題ではなく、恋愛について私たち読者にまったく新たな認識を拓いてくれるような作品を期待しましたが、今回は果たされませんでした。
この作家にはどこかヨーロッパ文化や芸術への古典的な憧憬と芸術至上主義的な信仰があって、それらと表裏一体のヨーロッパ文化コンプレックスや生理的な大衆嫌悪みたいなものでもあるのではないか、とちょっと勘ぐってしまいますが、見当違いでなければ、それがこういう作品を自ら壊して、その先へ突き抜けていくのを妨げているのではないかな、という気がしました。
(blog 2017.6.2)