アメリカの影(ジョン・カサヴェテス監督 1965)
脚本なしのぶっつけ本番という、映画の最後に'improvisation' って言葉が表示されていましたが、そのとおり「即興的演出」が話題になった、カサヴェテス監督の長編第1作だそうです。
見始めてずいぶん長い間、いったいどういう展開で何が描きたいのか、登場人物の関係がどうなっているのかさっぱり分からなくて戸惑いました。後半になると3人の個人と混血の兄弟・妹の一家の話で、そこへ友人や妹の彼氏の話が絡んでくるんだってことがようやく呑み込めてきました。
はじめは、みかけたところまったく黒人の上の兄と、混血の弟や黒人の血がはいっていることが見かけだけでは分からない妹との関係がよくわからなかった。そういう見かけのためにすぐに家族じゃないかとピンとこないのは、みかけでそういうことを判断するこちらの先入観の盲点があるからでしょうが、それが分かってくると、急にこの映画はそこのところが要になっているんだな、というふうに見えてきました。
兄はまっとうな人生を歩んだ人のようで、かつてはけっこう売れた歌手だったようですが、いまはストリップ劇場でダンサーを紹介するMCみたいなことまでやらされるまでに落ちぶれています。でもまだ歌手としての矜持があって、そういう状態に抗っているという感じ。弟(妹からみて下の兄)はその兄に比べればヤンキーで、妹は男の気を惹くタイプ。
彼女を白人だと思い込んだ男が彼女に迫って関係を持ってみたら、「初めてだとは思わなかった」という結果で、彼女に惚れて家まで送るのですが、そこで彼女の黒人の兄にバッタリ。そこで彼女も黒人だとわかると、とたんに男はびびって態度を翻し、帰っていきます。あとでもう少し彼があきらめきれずに後悔の手紙を渡してもらおうとするようなエピソードはありますが、この作品のハイライトはやっぱり、この兄貴たちと男との遭遇で男が去っていく場面でしょう。
もちろん人種差別の問題がこういうエピソードに露出しているわけですが、ここで作品としては声高に人種差別に対する抗議の声を挙げているというようなものにはなっていません。それが証拠に、肝心の当事者である妹は、このことに深く傷ついているようにも見えないし、告発者としてふるまうようにも見えません。
あら、知らなかったの?というセリフはないけれど(笑)、まぁそれに近い、人種差別なんていつものことで、相手がちっぽけな存在だっただけ、という動じない姿勢にみえます。男と女の好き・嫌いにそんなこと関係ないっしょ、ってな感じ。そこは人種差別がポイントになっている作品でも、ちょっといいな、と思えるところでした。
人種差別問題などはいっていると、きまじめな作品のように思われるかもしれませんが、とりわけ二人の兄たちのやりとりや長兄が歌手としての出演交渉をしている場面、あるいはストリップ劇場で歌って語って一所懸命やっている(ただし観客は彼の歌など全然聴いてない)場面などに、本人たちは大真面目だけれど、みていてほんとに可笑しくて楽しめる場面がいくつもありました。
それにしても「即興的演出」って何でしょうね。またどんな意味があるのでしょう?前半の友だちがテーブルを囲んでぐだぐだとしょうもない話をしあっているような場面で、仕草もセリフも俳優にまかせ即興で撮っているんでしょうかね。それに面白みがあるなんて全然思えないし、後半のストーリーが明確に立ち上がってくるところは、いくら書かれた脚本がなくても、監督や俳優の頭の中には明確に共有されたストーリー展開があるはずで、路上でいきなり真っ裸になって走り出すストリーキングみたいな文字通りのハプニングでは構成不可能です。
土台、そういうハプニングのように直接この世界を身体動作で切り裂く表現と、目には見えなくても舞台(撮影場所)の上で、仮構された人物が互いに関わりをもつ中で表現される身体動作やセリフとは次元が違うので、そのような仮構に「即興」は原理的にあり得ないのではないかと思います。
仮構であれ現実の建造物の構築であれ、或る構造をつくりあげるということは、即自(≒即時)的表出ではなくて、他者を介し、関係を介した構造を、ちょうど床板や柱や天井高の寸法を測って切ったり削ったりして組み合わせていくように、時間性を孕んだプランニングが不可欠に思えます。それを極限まで切り詰めて、あたかも瞬時に頭の中でやってみせたかのように演じることは可能かもしれないけれど、そのことにそんなに意味があるとは思えないのです。
ただ、作品の作り手に「即興性」への捨てがたい欲求があるとすれば、それは「つくりもの」の嘘くささに対する嫌悪感と、その嘘くささを消去したいという願望のせいではないでしょうか。フィクションはその発生からそういう原罪意識を孕むものなのかもしれないし、脚本に忠実につくられる映像という関係を壊したい衝動もあるでしょうし、また演じること自体、あるいは演出すること自体にひそむ嘘くささを消去したい、という衝動もあって不思議はないでしょう。
Blog 2018-7-27