百年恋歌(侯孝賢監督)2005
先日出町座で「ナイルの恋」を見たら、また侯孝賢監督の「悲情城市」でも見たくなって自宅で探してもあったはずが見当たらず、仕方なくレンタルビデオ屋へいったら、そこにも無くて、彼の作品なら何でもいいから見たくなったので、たまたま見つけた、まだ見ていなかったこの作品を借りてきました。
いいなぁ、と思い、とくに第1話、第2話は素晴らしいと思って見ていましたが、第3話で女性の顔がうまく認識できずに(私は人の顔を覚えるのが苦手)、あれ?この人はさっきの女性と違う人かいな、なんて思いながら???で見終わってしまったので、もう一度見てようやく、あ、そういう関係ですか(笑)と納得。第3話も分かって見るとすごくよくて、この作品は侯孝賢監督の映画の中でも最良の作品の一つなんじゃないかと思いました。
三話がそれぞれ台湾史の異なる三つの時期の話になっていて、登場人物の生きる場も、社会的背景も異なるので、この作品を理解するにはそうした背景を知ってどうのこうと、と難しい理屈をこねて切り刻んで見せる人もいるでしょうけれど、素直に映画を楽しむふつうの観客が見れば、三話ともこれは男女の恋愛の話で、1966年、1911年、2005年というそれぞれの時代の男女の「コイバナ」としてしっとりと楽しめばいい作品ですから、若い女性にもぜひぜひのおすすめ。
第1話が一番好きですが、冒頭から私などの世代にも懐かしい英語の歌"Smoke Gets In Your Eyes"(煙が目にしみる)が流れているビリアード場で玉を突く男女の光景。舞台になっているのは1966年の台湾の都市高雄です。主人公は大学受験で2浪して徴兵されることになっている青年で、兵隊刈りみたいな頭をしているとちょっと渡辺謙の若い時ってこんな顔だったのでは、と印象が似ている気がしました。彼はビリヤード場で働く女性が好きで、自転車を走らせてラブレターを届け、再び会いに来るのですが、春子というその女性は彼の手紙をビリアード場のテーブルの引き出しに放り込んだまま、既に台中へ異動しています。どうもそのビリアード場は台湾の諸都市にチェーン店として運営されているのか、係の女性は定期的に店を異動させられているようです。
このビリヤード場に春子の後任として来ていたのが秀美(映画全体の冒頭のビリヤード場のシーンで玉を突いていた女性)というこの話のもう一人の主人公で、彼女は春子が引き出しに残して行った男の手紙を読みます。そこには召集令状が来たことや、春子に恋歌の詞を教える内容が書かれていました。
その手紙を書いた男が、次に春子を訪ねてこのビリヤード場へやってきたときには、春子がもういないことを聴かされます。男は秀美と玉を突き、二人は楽しくプレイし、男は彼女に手紙を書くよ、と言って帰っていきます。
繰り返しのように、この徴兵された男が休みに再びこのビリヤード場へ、今度は秀美を訪ねてやってきますが、秀美はもう嘉義という街へ異動したあとでした。
今度は男もそのまま諦めてしまわずに、秀美を探しに嘉義へ行きますが、ここでも10日前にやめたよ、と言われ、彼女の母親を訪ねて彼女の居場所を教わって、さらに彼女の足跡を追います。そして虎尾という街のビリヤード場でスタッフをしている彼女に行き着きます。彼の姿を見た秀美は一瞬驚き、次の瞬間には嬉しさと衒いとを隠すかのように、体を折るようにして声を上げずに笑い出します。
いまの若い日本の女子大生なんかだったら「えぇ~っ!どうして!どうして!」と叫んで、どうしてはるばる自分を訪ねて来たかなんてとっくにわかっているだろうに、大げさに叫んで、笑ってみせるところでしょうか(笑)。
このあとの彼女の本当に心から嬉しそうなニコニコとした満面の笑顔が、この作品全体の中で一番素敵な、すばらしい表情で、私はもうそれだけでもこの作品が大好きになりました。この女優さんは舒淇(スー・チー)という有名な女優さんらしいのですが、本当に彼がこんなところまで追っかけて訪ねてきてくれたのが嬉しくて嬉しくてたまらない、という、でもそれを言葉や大げさな身振りで表そうとはしないで、抑えた演技で、いつ仕事が終わる?と訊かれて「まだ2時間もあるわ」と答え、「お茶を飲む?」とお茶を淹れ、「タバコは?」と気遣って、ほかの男からもらって彼に与え、傍に腰かけて、ときどき彼の表情をうかがいながら、自分はただ本当に嬉しそうにニコニコしている、その笑顔が・・・
でも彼は翌朝の9時には兵舎に戻っていなければなりません。ビリヤード場から出た二人は、屋台みたいな簡素な店のカウンターに並んで座って、食事をしています。何も言わず語らずに、でももう深い親密さを感じさせるようなたたずまいで、ひたすら椀のスープか何かをすすり、食べている二人。食事が終わると、雨の中、二人は一本の傘の下で小走りに、列車の時刻表か何かを見に行きますが、もうその時刻には翌朝の9時に兵舎に帰れる列車がないことを確認します。「バスの時刻表を見ようか」と二人で今度はバス停へ行ってみる。雨が降りしきるなか、相合傘の下で二人はしっかり手を取り合ってバス停のところに佇んでいます。・・・
ええ、それだけなんですね。だからいいんです。ものすごくいい。
その一瞬の触れあいのあと、すぐに男は兵舎へ戻って行かなくてはならないわけです。
少し長い暗転のあと、画面はいきなり、1911年(清朝末期)の台北の遊郭内部の光景になります。第2話「自由の夢」はいつも夜のような暗い閉ざされた世界、でも室内は華麗な装飾とスリガラス、重厚な木造り、赤い灯の色で画面が彩られているような気がします。ここで客を待ち受けるおそらくは一番格上の娼妓らしい女性が第2話の主役。そして彼女が待ち受ける顧客であり恋人でもある男が、実在した政治家・ジャーナリストだった梁啓超に共鳴して随伴行動をとっている財産家の子弟らしい辮髪の男。
この主役の女性を演じるのは第1話の主役を演じている舒淇(スー・チー)、男性を演じているのも第1話の主役の男と同じ張震(チャン・チェン)で、これは第三話でも同じです。だからこそ「百年の恋」、まったく別の男女だけれど、時代を超え、空間を超えてつながっているかのようで、そこに台湾人を一貫した眼差しで見つめる侯孝賢の想いがあるのでしょう。
この第2話で素晴らしいのは、南管と呼ばれるらしい歌曲を悲しみに満ちた表情で舒淇が琵琶を弾き、歌うシーンです。福建省・泉州に生まれた室内楽、南音とも呼ばれるもので、使われる楽器や演奏方法などに古くからの形態を残す数少ない音楽のひとつ、台湾では主に南管と呼ばれているそうです。
この第2話が始まってまず驚かされるのは、いきなりセリフが聞こえなくなって、かわりに画面中央に文字が登場する、いわゆるサイレント映画になってしまうことです。これは1911年の出来事を描く物語にふさわしい枠組みで、物語の内容や人物の立ち居振る舞いにいたるまで前近代的な様相を呈しているので、まったく違和感がありません。
主人公の男女は廓の娼妓と顧客ですが、信頼し合う親密な間柄で、やはり娼妓である彼女の妹が妊娠していて、蘇なる男がその妹を身請けしたい、と言い、廓の女将は身請け料に300元を要求しますが、200元なら出せるが300元は出せないと言われ、100元足りずに困っている事情を、女が男に告げると、男は不足の100元を自分が出そうと言います。娼妓が身請けされて(たとえ第二夫人、要するに妾としてではあっても)財産家に嫁いでいくことは、苦界からの脱出であり、将来の暮らしの安定が図れるランクアップなのでしょうね。
ただ、主人公のこの男は本来は保守的な地主階級の資産家なのでしょうが、梁啓超についてまわっているように、近代的な思想にかぶれているので、妾制度に反対で、自分もこの女を愛し、通いつめてはいても、妾として身請けしようとは考えていません。でも、女のほうは、ほんとうは彼に身請けされたがっているのでしょう。だから他人が彼女の妹を妾として身請けする金を出そうというこの男に対して彼女は「妾制度に反対の記事を書いていたのに、どうして?」と尋ねます。男は「妊娠したのだから、妹の将来を考えてあげなくては」と答えるのです。
女は妹がそうして嫁ぐことで幸せになれることを喜び、男に感謝する一方で、女将はもともと妹のほうを残して、自分を身請けさせてくれるはずだったのに、約束とちがう、と男にぼやき、複雑な内心を吐露します。
そして、男にひとつ訊きたいことがある、と言って問いかけます。
「妹の将来を考えなくては、と言ったでしょう? あなたは私の将来を考えたことはある?」
男は一言も返す言葉をみつけることができません。
廓の女将は男に感謝し、また嫁いでいった妹と旦那も彼に謝意を表しに廓へやってきて会食します。女は傍らで悲しみを深く胸中に懐いて、南管の極を絶唱します。すばらしい場面です。
男は日本と大陸とを股にかけて活動している政治家にしてジャーナリスト「梁先生」(梁啓超)に心酔していて、行動を共にしていましたが、その最中に辛亥革命が勃発し、女の所へ帰ってくる予定だった男は女に手紙をよこし、そこには上海へ向かう、とあって、梁が書いた詩の一節、「ここは傷心の地なり・・・船をつなぎて振り返る・・・」が引用され、涙したといったことが書かれていました。女は閉ざされた廓の部屋にいつものように座って、その手紙を読み、その詩句を男とはまたおそらく違った思いで、自分たちの関係と自らの想いに重ねて読んだことでしょう。
暗転の後、突如こんどは高速道路を突っ走るオートバイの映像。やはり張震が演じる男が運転するそのオートバイの後ろには、舒淇が演じるヘルメットをかぶった女性がしがみついています。2005年の台北。高速道路のガードレールからはみ出すように覗ける風景は、台北の高層ビルが立ち並ぶ都市的な風景です。ここから第3話「青春の夢」。
マンションで抱き合う二人のうち女性は、歌手の靖(ジン)。男性はあとで、彼女がステージで歌うのを間近で写真に撮りまくっていたから、どうもカメラマンかジャーナリストか何かかな、と思われますが、よく分かりませんでした。また、二人は知り合って間もないようで互いのこともまだあまり知ってはいなかったようです。
しばらくあとで、男が友人或いは同僚から彼女の情報をメールでもらって、パソコンで開いてみる場面がありますが、そこに出てくる彼女の情報によれば、彼女は未熟児に生まれ、骨が弱く、癲癇症で、右目がほとんど見えない、喉元に¥の烙印があるとか、ちょっとぎょっとするような身体的な生まれながらの傷を負っている女性のようです。
でも彼女は歌手としてクラブのステージで脚光を浴びる中、堂々とすばらしい歌いっぷりで、男はその彼女に触れんばかりまで近づいてあらゆる角度からカメラのシャッターを切っています。ほかにもそうしているやつがいたから、そういうのはジャーナリストかあるいは客にも許されているのかもしれませんが・・・また、その彼女を客席の暗がりでじっと見つめる女の目が不気味に光っています。どうもこれが靖(ジン)の同性愛の彼女らしい。舞台を下りてから、彼女は靖(ジン)に食って掛かっています。連絡を取ろうと何度も試みたのになぜ拒んでいたのか、と。靖は同性愛の彼女の怒りを適当にはぐらかしてなだめ、仲直りして一緒に靖の部屋に伴い、泊まります。
けれど靖はすでに男のほうに気が行ってしまっているので、朝早く抜け出して、男と出かけてしまいます。目覚めて靖が消えていることを知ったレスビアンの彼女は、「モトカノ(前に自殺したモトカノがいたらしい)みたいに、私も死んでやる!」というメールを残していきます。
部屋に帰ってきた靖はそのメッセージを読みますが、彼女を必死でさがしたりしようとはしないようです。
次の映像、ラストシーンは冒頭と同じで、オートバイをとばす男の胴に手をまわして、その背にしがみついている靖の姿をとらえています。
1966年の懐かしい音楽とビリヤード場の雰囲気、そして純情な男女の物語、そして、この1911年の南管の響、廓の豪奢だけれど閉ざされた空間、社会的に開かれた男性と抑圧され閉ざされた場に生きて自由を夢見る女性の屈折した思い、その愛と悲しみ、最後に2005年(映画のつくられた「現在」)の男女を乗せ、風を切って疾走するオートバイのスピード感、主人公の女性が煌々たるスポットライトを浴びながらステージで歌う歌、仮寝の場所でしかないようなマンションの空間、一個の肉体としても、「n個の性」的な関係性としても傷ついてしか生きられない若い男女の姿・・・とそれぞれに特徴的な音楽や空間や基調となるリズムを形作る要素が配されて、見事な対照を見せながら三部構成で台湾百年の恋をインテグレイトしきっている、という印象です。
もちろん、それぞれの時代背景、台湾の社会事情などを勉強することは、この作品の背景を知る上で役に立つでしょう。侯孝賢監督がなぜこの三つの時期を選んだのか、というふうなことを明らかにするためには、そうした情報が必要でしょう。
でも、そういった情報がなければ、この作品のすばらしさを味わえないか、と言えば、全然そんなことはありません。私ならそんなことは、それが商売の評論家や研究者に任せて、作品そのものを楽しみます。圧倒的多数の映画観客のみなさんもそうだろうと思います。とりわけ私が接してきた女子大生みたいな若い女性には、ぜひ自分の素直な感性でこの作品をただただ味わい、楽しんでほしいと思います。
Blog 2019-2-3