濱口竜介監督「親密さ」を観る
手術直後の片腕吊り下げ具をつけた不格好で、歩く度にイテテと感じながら、御苦労なことに夕方から出町座まで、濱口監督の「親密さ」を観に行ってきました。「ハッピーアワー」が良かったので「寝ても覚めても」は一般の評判になったから見に行ったわけですが、「Passion」は自主製作映画の域を出ないかも、と思いながら見に行って、これも予想よりずいぶん面白いと思ったので、たぶんもひとつさかのぼったことになるのでしょうけれど、この「親密さ」を見て、ようやく、あぁ、これは良くも悪くも、学生さんのつくる自主製作映画だな、と思いながら255分ですか・・・1部、2部とあって休憩10分をはさむ長時間を、トイレに行くのも我慢して(笑)見てきました。
シネフィルを任じるようなアンちゃんやおっさんたちとは違うので、自主製作映画までおつきあいする義理はどんな監督に対してもない、娯楽としてたまに映画を楽しむ観客にすぎないのですが、この映画には素敵なシーンが二カ所(だけ?・・・笑)ありました。
第一部と第二部のそれぞれのいずれもラストシーン。とにかくこの映画は演劇をつくっているむさくるしい男女数人の間で、頭でっかちな議論やら感情的な対立やら男女の情も絡んだ葛藤やらが、ああでもないこうでもないと、実にしつこく繰り返され、続けられる果てしもないお話なので、私のようになんかスカッとしたいね、とか、きょうはいい涙を流したいね、とか、きょうはほんわかと酔っていたいな、と映画館の席を買う観客としては9割がたはどうでもいいから、もっとそっちのほうからこっちの胸の奥まで入ってきてくれるような映像でも声でも音でもいいから運んできてくれない?と思って観ているので、そういう目・耳で見聞きしていて、あぁ、このシーンは素敵だな、と思えたのは、1部2部のラストシーンだけ。
けれどもそれは結構長めのラストシーンで、第一部のラストは、夜ふけの高架下の街道みたいなところを主役の2人が喋りながら延々と歩いていくシーンで、会話の内容はなんかやっぱり理屈っぽいことを喋ってたな、ということしか全然ひとつも覚えていません(笑)。会話の中身は少なくとも私にはどうでもよかった。
この女性は、一緒に手をつないで(いたと思う)歩く男性がカリスマ独裁者みたいにふるまっている劇団の副リーダーみたいな、あれはプロデューサーってのかな、そんな役割をしている女性で、その彼と同棲していて、彼のことが好きなんでしょう。だけど彼女以上に彼のほうは埴谷雄高か高橋和己か、はたまた八木俊樹か、というような超々観念的な、空気のかわりに観念だけ吸ったり吐いたりして生きてるような唯我独尊の人だから、皮膚も下半身も備えてはいても、観念を取っ払ったら超不器用な何もないし何もできない木偶の坊にすぎない。
それがこのシーンだけははためにみて、いよぉ~っ!お二人さん!と声かけてやりたい、いい感じでおててつないで歩いていく。だんだん夜明けが近づいてくる空は、すごくいい色の、だけどまだダークグレイで、その空を背景に二人はシルエットだけでずーっと歩いていく。そしてだんだんその夜空が白み始めるんだけれど、まだ明るくはならない。そういう素敵な時間をずーっと二人でただ歩いていく。ほんとは友達の噂話とか今度どこそこへ行こうかとか、そんな他愛ないことを喋ってればいいんですよね。ところがこの二人は、おそろしく頭でっかちな、たぶん監督さんと同じような超一流大学なんかの学生か院生にふさわしいような、昔なら政治か高尚な(と彼らが思っている)芸術のことしか考えないみたいな、浮世離れしたことしか考えられない人たちだから、そんなときでさえなんか理屈っぽいことを会話している。それをちぐはぐだとも思わない二人なんですね。
でも、そんな会話の中で、そういえばひとことだけ私の耳に残っているのは、女性のほうが「好きだ、ってだけじゃいけないのかな」みたいなことを言うところですね。ほんとうにそうだよな、と共感したのはあそこだけ(笑)。でも映像はすごく美して、あんな黒いシルエットだけの二人がひたすら歩いていくのをえんえんと映していて、声を聴かせている。あれは言葉を聞かせているつもりかもしれないけど、ほんとは私たちは彼らのいう議論の中身なんかどうだってよくて、あそこでは意味のない会話を音楽みたいにやりとりしてればいいんだから、ただ珍しく心地の良い「声」として聴いているだけなのです。
もうひとつの第二部のラスト、つまり全体のラストになるシーンのほうは、同じ彼女が、この物語の軸になっている演劇づくりの途中で、唯我独尊君と対立して、もともと親しかった友人夫婦が韓国に滞在中に行方不明になったこともきっかけになって、退部して韓国へ兵士になりに行ったかつての仲間の男が軍隊の音楽隊員になっていて、たまたま休暇で一時帰国しているのに電車の乗り降りのときプラットホームですれ違って、それぞれ別の線に乗っていくのだけれど、それがあるところまで電車がすぐ近接した位置を並走するので、男が車内を走って、二人が互いに投げキスしたりふざけあって気持ちをかわす振る舞いをして、その電車がやがて分岐していく夜景をロングショットでみせて終わり、という場面。ここは全編の中でも、一番サプライズの場面でもあり、いつも顰めつらしたむさくるしい若者たちが素の魂として触れ合うような場面で、第一部のラストとともに、もっとも素敵な場面でした。
政治の季節が終わって一般にはシラケた世界になっていったときに、なんとか持ちこたえようとしたら、こういう閉じてとんがった芸術志向のほうへいくしかないような時代状況というのは、決して世間でいう超一流大学のエリートたちだけでなく、真剣に生きようとした若い世代の或る層には共通するところがあったのだろうと思います。政治の方へ行けばいわゆる内ゲバとか連合赤軍のような方向に煮詰まっていったように、彼らは閉じた学生劇団?の演劇活動のほうへ煮詰まっていったような感じで、その意味では、これは熊切監督の「鬼畜大宴会」の芸術版的な集団なのかもしれません。ただ「鬼畜大宴会」のほうは政治は自分たちを閉ざす殻だけで、中はガランドウなので、実際には政治的意味のない、流血や汚濁の絵柄で観客を引かせればいい、というだけのゲームになっているけれど、こちらはそうあっさりと言葉も芸術も捨てられないようなのです。それがえんえん255分?(笑)のお話になっています。
彼らを結び付けている共同性の核は唯我独尊君の一種のカリスマ性ですが、彼がほとんど生活者だとか男だとかいう属性を全部捨ててかかって、引き換えに、そううまくもないくせに詩を書いたり劇の演出をやるような観念にその分だけ他の連中よりも言ってみれば「真剣に」賭けている為に、意味はよくわからんが(筋肉マンのセリフを借りれば・・笑)そのすさまじい自己肯定に、他の部員たちはドン引きしながらも、一種の磁力に惹かれるように惹かれているわけでしょう。
ここには、青臭いその頭でっかちな若者の姿を笑うような知的な大人も登場しないし、逆に庶民的な観点から、なんか難し気なことばっかり言ってるけど、さっぱりわかんねぇや、ちったぁ人間のわかる言葉をしゃべんな!とくさす熊さん、ハっつぁんのような人物もいないのです。つまり本当の意味の他者が不在で、彼ら自身が互いに、また彼らの演劇なるものを神妙な表情で見やる観客たちも、ときに互いに激しくぶつかっているように見えて、実は同質の存在に過ぎません。お互いどうし、みな「親密」につながった、おそろしくクラスター係数の高い一つの閉じたクラスターのうちでつながっているノードなのだと思います。実際、そのメンバーの誰ひとり、外部のまるで異質なノード、全く別の世界であるようなクラスターとの「弱い絆」でつながっているような人物はいそうにみえません。
彼らももちろん生きて飯を食い、アルバイトで生計を立てる人間ですから、そういう場面は出てきます。でも不思議なことに、そういう世界はそういう世界としてあるだけで、それが彼らの演劇の世界の内部に影を落とすようには見えません。食事を作ったり、パン屋で働いたり、スナックのバーテンダーみたいなことをしたり、それはただ自分たちの観念の座である肉体が生きるためにやむなくただ風景としてそこに映っているだけで、彼らの観念の世界を壊すことも揺るがすこともなさそうです。そのこと自体を彼ら自身が奇妙だと思わないのは、彼らの観念が閉じた世界にあり、彼ら自身がそういう自分たちの観念の閉じた世界にある以上仕方がないのですが、映画の作り手がそれを奇妙な世界だなと思っていないとすれば、それはとても不思議なことに思えます。
こうして第一部はそういう彼らの作劇とそれにまつわる彼らの想いが錯綜し、ときにぶつかる、閉じた劇で構成され、第二部はそういう彼らが作った劇が観客の前でフルに上演される、劇中劇の構成をとっています。マトリョーシカというのでしたっけ、こけしの中にこけしがありそのこけしのなかにまたこけしが、というあのロシアのこけし人形のように、閉じた入れ子構造がこの作品の構造です。
そこで描かれているのは、現実の登場人物たちの世界も、彼らが作る劇中劇の登場人物たちの世界も、いずれもいわばノードとノードをリンクするラインが構成する抽象的な「関係」の劇であって、そこには生活も恋も入り込む余地のない、奇妙な観念の平面に描かれた抽象的な点と線の入り組んだ絵模様のようにみえるところがあります。それがどんなに入り組んだもので、もつれあって意味ありげな不協和音を奏でたりしても、実際のところそれをフォローすることにそれほど意味があるようには思えませんでした。彼らが汗を流して働いたり、うきうきして彼氏の食べるものを作ったり、二人の生活をどうしていこうと夢を語り合ったり、そんな生活感も生活理念も彼らのつくる演劇や彼らの議論の中には全く入ってこず、影を落とすこともないので、そういう入り組んだリンケージの絡みなんかを相対化したり変容させるような契機になることもなさそうです。
料理をしたりアルバイトをしたりといった生活の一面は、ただそうした演劇ごっこ、観念的な関係のドラマを際限もなく繰り広げる若者たちの日常はこうですよ、とただ別次元の映像として並置されるだけというちぐはぐさを、あまり観念の人でない映画をみる私などは感じて長い時間実に居心地が悪かった(笑)。なぜそこまで具体的な肉体や心を現実の人間から剥ぎ取らなくてはならないのか・・・。心の劇のようにみえて、実はそれは心の劇でもなんでもなく、ノードとノードのつながり方を、ああでもない、こうでもない、といじって、つなぎかえる実験のようなことがしたかったのかな。いくらつなぎかえても、ネットワークの形が変わっても、メンバーは同質で閉ざされたクラスターをつくってしまっていることに、登場人物たちの誰もが気付かないのはなぜでしょう?
そういうものが辛うじて映像的にほころびをみせるのが、第一部、第二部のそれぞれのラストシーンなんじゃないでしょうか。
閉じた観念の関係のネットワークから離れて、本来は彼ら全員にとってまっとうな「外部」となり「他者」として彼らの閉じた世界を壊し、相対化し、こじあける鍵になるはずだった、兵士になった男は、結局その役割は全然果たせなかったけれども、最後にその共同性を飛び出した男と、まだそんな世界にとどまっていた女の、それとは無関係な偶然の出会いと別れのシーン、そしてまた、そんなクローズドな観念村の酋長と副酋長みたいな男女が、村を離れたところで、具体的な肉体を持ち、心を持った男または女として夜の橋をわたり、明け方の空の下をえんえんと歩くシルエットとなって、互いの男または女としてのありようを感じ合いながらいく場面が第一部のラストシーン。だからこの作品で唯一(唯二)の素敵なシーン(笑)。はじめてまっとうな違和感のない人間が登場するシーン、それが私が好きなシーンでした。
この映画の監督さんが、俳優にセリフをずっと棒読みさせて、本番でだけ思い入れのある表現を許すという、アンヌ・ヴィアゼムスキーが自伝的小説で描いているロベール・ブレッソンのようなメソッドをとって俳優の本読みのトレーニングをするらしいことを聞いていると、この作品の中の学生演劇がまさにそういう濱口メソッドで劇をつくろうとしているところとか、いろいろ映画づくりをやっているような若い人、濱口監督の映画作りに関心のある人には、演劇ないし映画の制作ドキュメンタリーといった見方で見ても、とても興味深い作品だろうなと思います。
私にはそういうことは分からないし、そういう部分に興味がもてたわけではありません。劇中劇のストーリーらしきもの(男女のもつれ、兄と妹の再会みたいなものを軸とした・・・)も特に新鮮なものは感じられず、よくまぁあの劇の観客たちは生真面目な表情でその意味を汲み取ろうと一所懸命フォローしているなぁ、と客席のほうの表情がうつるたびに思っていました(笑)。
しかしこの作品の劇中劇は、たとえばハムレットの劇中劇などとは意味が違うんだろうと思います。ハムレットは父の亡霊が告げた、叔父の父殺しの心理的な「確証」を得るために、叔父の前で旅芸人にそれなりの芝居をやらせるわけで、目的が明確で、その目的に奉仕する舞台になっているわけで、言って見ればちょっとした小道具にすぎません。
でも濱口さんの作品での劇中劇はたぶんそういうものではなさそうです。だって第二部のほぼ全部を占めるんで、現実の若者たちが演じる一時的な劇とほとんど拮抗する重さをもっているわけです。そこで、あれ?この感じは、「Passion」でも「寝ても覚めても」でも「ハッピーアワー」でもどこかでみな感じた記憶があるぜ、と思い当たります。
例えば「寝ても覚めても」では、ヒロインのシェアルームしている演劇をやる女性のところへ男二人で来て4人でお好みやきを食べようというシーンでの緊張感の高まる4人のやりとり。それは、たしかに演じられた時間は全体の中でわずかだったけれど、私が全体からむしろバランスを欠いて独立した重みをもっているかのように衝撃を受けた「言葉の劇」の演じられた場面でした。
「Passion」でも男2人に女1人が夜中に激論を交わすシーンがありましたね。そして「ハッピーアワー」でもあの朗読会のあとの「打ち上げ会」。いやあの作品では、全体の骨子を描くかのような、重心の話を映像として見事に表現していたあのいかがわしい男(笑)のイベントのシーン全体が、作品全体から言えばバランスを欠いて相対的に独立した部分であるかのように存在感をもって埋め込まれていました。
これは何なんだろう?と思います。単なるちょっとした手段としての劇中劇ではないですよね。
私は、ひょっとするとこの監督は、「劇」よりもう一つ高い仮構線を引こうとしているんじゃないか、と思いました。それはこういうことです。私が学生時代からよく読んでいた吉本さんの最初の主著に「言語にとって美とは何か」という著作があるのですが、その中で、劇というのを論じて、これを表出史としてみたときにどう位置付けるか、というところで、まず世界中どこでだった文学的表現の初源は詩だけれども、これは直接に言葉で現実を切り裂く、言葉それ自体でいまここにあるこの現実とは別の世界がある、ということを示すわけで、いわば仮構線ゼロ。あるいはもちろん詩の言葉にもそういう仮構は内在するかもしれないけれども、それは個々の詩の言葉が打ち上げる表現が作るものなわけです。
その次にくるのが物語で、それは一見、説明的な記述もあれば描写もあるから、言葉の丈が低くなっているように見えるけれども、そうじゃない、と。それは詩の言葉がつくる表出の時代的な頂を結ぶラインを仮構線として、その上に築かれる表出言語なんだ、というのですね。じゃ劇はどうかといえば、さらにその物語が成熟して、もはや描写も状況説明もほとんどいらない。形があろうがなかろうが、「舞台」の上の登場人物のかわす言葉だけで、現実的な人間の感情もその関係もみな表現できるようになったときに、物語の言語表出のいただきを結ぶラインを新たな仮構線として、その上に築かれる言語表現が劇なんじゃないか、と。それは現実にはもちろん舞台そのものなわけで、それゆえ舞台に登場するものは、人であれヤカンであれ机であれ、すべて観念にすぎないわけですが・・・。
その延長線上に考えると、濱口さんの劇中劇というのは脚本家濱口さんが書いて生命を持たせた劇中の登場人物たちが、もはやその現実的な肉体や性格や感情やを失っても、彼ら自身が表現した世界自体が自立して生命を持ち、十全に語り、動き出すような、つまりこれまでの言い方にならえば、濱口さんの脚本の登場人物たちの表出の頂を結ぶラインに新たな仮構線が生成されて、その上に詩→物語→劇と次々に新たな仮構線を生み出し、新たな言語表現の方法を生み出してきたように、新たな言語表現の方法が生み出せるのではないか、そういうものとしてそれは新たな存在感をもった映像としてそこにあるのではないか、と。そんなことを想ったのでした。
おそらくそれはまだ完成されていないのかもしれません。ちょうど詩(歌)から物語への過渡的な仮構線を生成しようとしていた伊勢物語のように、いま濱口さんは自らが書く劇の頂点を結ぶラインを新たな仮構線となるような、全くあらたな言語表現の世界を構築しようとして悪戦苦闘しているのかもしれません。私が前に書いてきたように、それは先に挙げた私の観た他の3作品では、そんなことを考えずとも、それほど大きな違和感なく、むしろ新鮮な衝撃として、存在感をもったそれらのシーンが形成されていたように思えます。ただ、この「親密さ」においては、その悪戦が非常に露わな形で露出していて、こういう半分を劇中劇が占めるような異様な構成や、私のようなド素人の観客をうんざりさせるような頭でっかちな学生たちの閉じた議論の世界を作り出しているのだとは言えないでしょうか。
blog 2018年10月13日