「罪の手ざわり」(ジャ・ジャンクー監督)
4話のゆるいつながりを持つエピソードからなる作品。それぞれに中国の「いま」のどこにでもありそうな境遇のどこにでもいそうな(それでいて、こんな人物はめったにいないでしょうし、いたら大変ですが・・・)庶民を任意に4サンプル抽出して、抽象化も象徴化も要約も拒んで、あくまでも一人の具体的な人生の断片に寄り添った映像を見せてくれます。
最初はバイクで山間の自動車道路を走っている男が何人かの刃物を手にした与太者に囲まれて金を出せと言われ、平然と懐から取り出した拳銃で次々に撃ち殺して平然とまたバイクを走らせます。この人が主人公かと思ってみていると、途中でトラックの荷台をぶっちゃけて鮮やかな赤い色の果実が広がるところで彼がバイクを止めたところにいた別の男ダ―ハイとかいう名の男を、今度はカメラが追って行き、彼を軸に第一話が進みます。
彼は村の鼻つまみ者で、汚職で成り上がった村長と、成功して企業の大物経営者になっているらしいかつての同級生を告訴することばかり考えています。誰からももはや相手にされず、馬鹿にされ、果ては経営者の手下たちにボコボコにされます。ダ―ハイはとうとうぶっ切れて散弾銃を持ちだし、自分を馬鹿にした者たち、村長も経営者も、その周囲の人間をも、次々に撃ち殺していきます。
この第一話は、ひとつひとつの出来事の展開が意表をつき、次にくるシーンが予測できない感じで、非常にシャープでテンションの高い映像が展開されます。テンポがよく、殺しもクールで、ダ―ハイという男が長年胸の奥にため込んできたものを一気に噴火させる、その腹をくくって一線を超えた者に固有の潔さというのか、いささかの逡巡もなく悔いもなく先への不安などさらさらない、ただもはやブレーキの利かない殺意と行動あるのみ、という姿が、それまでのどこか卑屈なダ―ハイとは打って変わって爽やかでさえあります。
村で上演されている水滸伝の一節の舞台が、ダ―ハイの心をぐいと動かすような、実に効果的な使われ方をしていて、その音曲とセリフ回しが耳に残ります。これは、この作品全体の最後のシーンで出て来る舞台も同じで、この辺は見事な演出です。
さて第2話は、第1話の冒頭に登場したバイクの男に寄り添った話で、彼はどうやら出稼ぎをしていたらしく船で故郷の母兄弟妻子のもとへ帰ってきます。出て行ったきりどこをほっつき歩いているか分からぬはぐれものを迎えるような身内や村人の反応ではあるけれど、三男坊らしく兄たちは弟として接してくれます。彼は妻に出稼ぎ先から大金を送金していたらしく、妻は男が何か悪いことをして稼いだのであろうこと察しているようで、もう要らない、と言います。実際、その後の展開で、この男は銀行の外で待ち伏せて金を引き出してきたらしい女の鞄を強奪して逃げます。
第3話は、妻子ある男と別れるかどうかの瀬戸際にある年増女のエピソードで、待合のカフェで男と向き合って話しているシーンからです。広州へ帰ろうとしているらしい男は、女に一緒に来てくれと言います。でも女は、いつまで待っても妻と別れられない男への不信と未練を抱えていて、冷却期間をおきましょう、と彼を見送ります。その彼女は男の妻とその身内か何かに襲われ、ボコボコにされて放り出されるエピソードがつづきます。彼女はサウナの風俗の店で受付として働きはじめますが、チンピラに体を求められ、拒絶すると暴力を振るわれ、浮気男が荷物検査に引っかかって彼女に預けた果物ナイフで男を刺し殺してしまいます。修羅のように血だらけになってナイフを手にした女は、夜の自動車道を歩き、やがて携帯を取り出して警察に自首の電話をかけます。
第4話は現代的な工場で働く青年の話です。勤務中におしゃべりしてはいけない規則を破って、同僚の金髪の青年に話しかけたために、金髪の青年が手に怪我をして仕事を休まざるをえなくなり、その給与は話しかけた彼の責任ということで彼の給与から支払わることになります。その後彼は工場をやめてナイトクラブのボーイになり、風俗の女を好きにになりますが、彼女は子供もいる女でした。そのうち彼のせいで傷つけられた金髪の青年とその仲間が仕返しに彼の前にあらわれます。・・・
ラストは村へ帰ってきた第3話の女が、屋外で上演している劇を見るシーン。「お前は罪をみとめるか?お前は罪をみとめるか?」という劇中のセリフのリフレーン。カメラはパッと切り替わってその劇を観る村人たちの顔、顔、顔を映し、まるで彼らがここでのエピソードでの主役の不運な宿命に翻弄された女に向かって「お前は罪をみとめるか?」と問いかけているような、そんなみごとなラストシーンでした。
・・・とまぁ、たらたらあらすじを書いても、この映画の良さはちょっと伝えがたいですね。それは本当にいまの中国のどこにでもありそうな小社会だし、どこにでもいそうな男女たちです。まさかみながみな人殺しをしたり強盗をしたりはしないでしょうが、汚職で権力をつかむ地方行政の長やそれとつるむ成り上がりの企業経営者、彼等を成功者として称え、媚びる庶民たちで成り立つ地方の腐敗した状況とそこで鬱屈を抱える男も、そんな地方の農村から都会へ出稼ぎにいって何年も帰らないような男とその出身地の地方の村の貧しさも、また男尊女卑の変わらない社会での不倫ありフーゾクあり、やくざありと舞台装置のそろった中で、不運な運命に翻弄される女も、一見モダンな最新の機械化された生産設備を備える工場で話すことも禁じられてひたすら働く夢のない労働者青年やフーゾクの女も、みなそんなありふれた庶民と彼らが生きる小社会の任意の抽出、と言っていいようなものです。
そして、事実、途中、ちょっとこういう語り口に、中だるみ感を覚えて退屈といっては大げさですが、冗長感があるのも事実です。
けれどもそれは無責任にただ娯楽としてしか映画をみない私のような「観る」だけの人間だから、そう感じるのでしょう。「撮る目」をもった人間が観れば、この作品は、表現のスタイルで見せているようなところがあって、それも奇を衒い、「方法」が浮き立ってしまうようなスタイルではなくて、どこか野暮くさいところもある、一人一人の何でもない人物の生きようにつきあって、そのあとを追っていくカメラとしての追っかけ方に、この映画の倫理性が感じられるといったところです。
ともかく今の中国社会のどこかで生きている何でもない庶民の人生の「現在」の断片を抽出してゆるやかに綴って見せてくれるこの作品、あぁ中国人もこんなふうにあの社会の片隅でそれぞれ悩みをかかえ、苦しみ、追い詰められながら生きているんだな、ということを色んな断面で見せてくれます。
本来はこの監督はとんがった映像を撮る人なのでしょうけれど、人物を追っかける視点をあえて低い位置にとって(小津のようにカメラの位置が低いという意味ではありません)、エピソードをゆるくつないでいく、その平面的な構成だけで勝負しているようなところがあります。それをスタイルと言っていいかどうかわからないけれど・・
(blog 2017.7.3)