「火の馬」(セルゲイ・パラジャーノフ監督) 1965
当時のソ連・ウクライナ・ソビエト社会主義共和国で製作された映画です。
恋愛映画ですが、舞台である西ウクライナの山岳民族の少年が、自分の親を殺した男の娘と恋に落ち、親たちの反対を押し切って結ばれるけれど、男が出稼ぎに出た間に女は事故で死んでしまい、男は自分をしきりに誘ってきた別の女と結婚するけれども、胸のうちの昔の女性が忘れられず、再婚相手を本当に愛することができなくて、妻にもそれが分かっているので、彼女は自分に迫る他の男に身を任せる。・・・そんな悲劇的なストーリーで、愛し合った彼女との恋物語は「ロメオとジュリエット」のパターンと類似しています。
しかし、この映画が私などの興味をひきつけるのは、彼らのドラマが展開される、自然豊かなこの山岳地帯での私たちにはとても物珍しい人々の生活の光景です。私はこの作品を見たとき、若し日本にアイヌ民族の末裔がまだ沢山、アイヌの伝統的な生活をして残っていたと空想したとき、その中で資質、才能に恵まれた若者が映画監督になって自分たちの生きて来た自然とその生活を背景に恋物語を撮ろうしたら、こういう映画になるんじゃないか、とふと思いました。
それはただ物珍しいだけではなくて、その生活を彩る自然と人々の着る衣服や祭事の道具や様々な生活道具などの多彩な色合いの鮮やかさ、その住まいや使う道具の端的な機能性や形態、人々の想いや感情の強度みたいなもの、行動の直截さみたいなもの、そういうのがこちらにビンビン伝わってきて、すごいな、という感じがずっとしていました。
なんというのか、ロマンチックで悲劇的な物語ではあるのですが、それが自然の中に埋め込まれた必然的な、つまり必要以外のものは何もない端的な、生きるということの姿としてそれが描かれていて、生まれ、成長し、働き、恋し、結婚し、子を生み、死んでいく、そういう人の生き死にが、華麗な装飾に縁どられた中に、見るも鮮やかに黒々とした文字で書かれているように、くっきりと見えてくるような映像なのです。
ストーリーは時間に沿っていますが、淡々と次に何が起きて、こうなって・・・と、まるで物語の原型のように単純明快で屈折したりひっくりかえったりのアクロバットはありません。つまり、時間に沿ったストーリーはあるけれど、因果関係の入ったプロット的な展開ではないのです。
冒頭は森林で作業していて、主人公の少年に高い樹が倒れ掛かって、近くにいた兄が気付いて彼を助けて自分が死んでしまう、という悲劇から始まります。そして、それに続いて、その葬儀のときだったか、とにかく間をおかずに、少年の父親が、少年が知り合った少女の父親である別の男と争って、かえって殺されてしまいます。母親は伴侶を殺したその男を激しく憎みますが、少年と少女はロミオとジュリエットのように両家の反目をよそに、忍び会い、恋を成就します。
しかし、男が出稼ぎに出た間に、心配して男のもとに行こうとした女は、山中で足を滑らせて渓流に落ちて死んでしまいます。その後も一人になった男にいろいろありますが、みな自然の移り行きのように人の生涯も時間とともに移り行くかのようです。愛する人と一緒になって輝き、愛するひとを失い、傷つき、忘れられず廃人のようになり、みずから不幸を招き寄せるように、心にもない再婚をして裏切られ・・・というように、どこにでもある人生ではあるけれど、この厳しい自然の懐の中で、自分たちもその一部のようにして生きて死んでいく、そういう人間の姿が端的に、そして美しくとらえられています。
手持ちのカメラが激しく動き、また自然の樹木、川の流れ、石ころ、等々をじっととらえるのが、たまらなく美しい。
Blog 2018-9-5